撮影:竹井俊晴
「お前の人生はお前の好きなように生きろ。どんな職業に就いたって構わない」
南章行(45) は物心ついたときからずっと、父親からそう言われて育ってきた。
アイデア豊富な父親は興味に対して素直に没頭して勉強し、それが仕事になるまで習得する天才だった。
南が覚えているだけで、家庭菜園、ロードバイク、フルート、バイオリン、チェロ、水彩画、カメラ、インターネットが登場してからはフォトショップ、CAD、プログラミングと、ほぼ3年おきに興味の対象を変え、すべてプロ級にマスターしていた。73歳になった現在は3Dプリンターを使ったものづくりに夢中だという。
終戦翌年に生まれ、母子家庭で育ち、教育大に進学するも「教育実習に行ったら、先生同士が『先生』と呼び合っている世界に興醒めした」という理由で方針転換。役所や企業に勤めるも、トップと相性が合わず、自分で会社を興したらしい。
南に対して「勉強しろ」と言ったことは一切ない。テストで何点を取ろうが、褒めも叱りもしない。毎朝5時に起きてみっちり2時間、何かの練習にやたら楽しそうに取り組んでいる。ある時は突然「中国語」に目覚め、独学でマスターし、気づけば現地で技術指導に行くほどにまでなっていた。
そんな生き方を間近で見ていた南は、自然と信じられるようになった。
「好きなことを一生懸命磨けば、やがて仕事にできる。いつからでも、何を始めても、それは可能なんだ」
ココナラの事業のベースになっているユーザーモデルは、あのぶっ飛んだ父親なのかもしれない、と南は笑う。
「誰もがいつ死ぬか分からない」
「信州ベンチャーサミット2020」に登壇。プレゼン資料のの表紙には“一人ひとりが「自分のストーリー」を生きていく世の中をつくる”と掲げた。
提供:ココナラ
高校は地元・名古屋の伝統校、旭丘高校へ。校則のない自由な校風で、南の“自由主義”はますます花開く。文化祭で生徒主導で作った気球が校舎の4階まで飛んだときの感動は忘れられない。
2年生の頃、同級生の1人が「アメリカに1年留学する」と言い出した。南も海外に憧れはあったが、「俺は大学に入ってからにするわ」と見送った。
数カ月後、米ルイジアナ州に留学していた日本人高校生が、ホストファミリーと共に訪れたハロウィンパーティーの訪問先を間違え、射殺されたというニュースが飛び込んできた。痛ましい事件の被害者は“自分かもしれなかった彼”だった。
日本中が悲しみに暮れたこの事件は、南の死生観を強く揺さぶった。
「誰もがいつ死ぬか分からない世界に生きている。今、自分がやりたいと思うことに正直に生きよう」
金融危機後に就活、狙いは住友銀行1本
大企業でもあっという間に経営破綻する現実を見てきた。仕事を失くした人たちを救いたいという気持ちが芽生えた(写真はイメージです)。
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南が大学時代を過ごした1990年代後半は、バブルの余韻も消え去り、社会が一気に不穏になった時代だった。
1995年には阪神・淡路大震災、同年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起き、1997年には山一証券が経営破綻。「リストラ」という言葉が新聞・テレビで連呼され、南の父親の事業にも影響が出ていた。1998年は年間自殺者数が初めて3万人を超えた年だ。
「仕事を失い、絶望している人を救う仕事がしたい。経営が得意ではなくても、何か特技を持っている親父のような人たちの参謀になりたい」
南は、企業再生を得意とする住友銀行(当時)に絞って就職活動をし、入行を決めた。
住友銀行での最初の配属は支店。住宅ローンを担当し、新婚カップルや離婚後の養育費に追われる50代男性などさまざまな顧客の“人生最大の買い物”に伴走した。企業再生ではなかったが、個人の人生を応援する仕事を南は楽しんでいた。
半年続いた休日出勤、銀行員を辞める決断
住友銀行時代。優秀なのに力を発揮できていない社員にまで目配りをしていた。
提供:ココナラ
また、「他人のいいところを探して広めるのが好き」という性格は当時の行動にも現れている。優秀なのになかなか日の目を見ない女性行員の仕事ぶりを支店長に耳打ちし、朝礼で褒めてもらう。支店の雰囲気がよくなって、自分にも有益な情報が入ってくるから、仕事もうまくいく。結果、2年連続で住宅ローン受注の支店最高記録を更新した。
証券アナリストの資格を取得して、3年目に調査部へ異動。志望した企業再生に関われると思ったが、2000年代初めの金融業界は銀行再編の激動期を迎えており、他社救済にまで手が回っていなかった。
不本意のまま仕上げたレポートが上役に評価されるジレンマ。休日出勤が半年続き、生まれたばかりの息子の成長もまともに見られない。南は徐々に限界を感じ、入社5年目で転職を決意した。
「妻子だけでなく両家の家族も、いずれは自分が養わなければならない」。今の若い世代からするとちょっと古風に感じるかもしれないプレッシャーを南は背負っていた。
「銀行員のままだと、家族全員を食わせていけるか分からない。一か八か、自分を試してみよう」
28歳の決断だった。
(敬称略、明日に続く)
(文・宮本恵理子、写真・ 竹井俊晴 )
宮本恵理子:1978年福岡県生まれ。筑波大学国際総合学類卒業後、日経ホーム出版社(現・日経BP社)に入社し、「日経WOMAN」などを担当。2009年末にフリーランスに。主に「働き方」「生き方」「夫婦・家族関係」のテーマで人物インタビューを中心に執筆。主な著書に『大人はどうして働くの?』『子育て経営学』など。家族のための本づくりプロジェクト「家族製本」主宰。