7月30日に死去した李登輝氏。日本メディアでは台湾の民主化に貢献、と紹介されることが多かった一方、中国メディアには厳しい評価が目立った。
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台湾民主化を実現し、「親日」とされる李登輝元総統が7月30日、97歳で死去した。
台湾で民主的な選挙を実現させたことから、台湾でも日本でも「民主の父」という絶賛が目立つが、中国は李氏の台湾独立の主張を批判し、評価は180度異なる。
米中、日中対立を利用し、「(植民地統治は)台湾近代化に多くの貢献をした」と戦前の日本を評価するその「戦略的親日」は、衰退し自信を失った日本人の心に響いた。
多面的な顔を持った稀代の「プリズム政治家」だった。
「日本人の思考方法」
「李は不思議な人だ。台湾人の心を持ち、日本人の思考方法と欧米の価値観を持ちながら、中国的な社会、文化背景の中で生きている」
筆者が共同通信の台北支局長として台北に駐在していた20年前、台湾の古参ジャーナリスト、司馬文武氏からこんな李登輝分析を聞いた。「台湾人の心」はよく分かる。だが他の形容については説明が要るだろう。
李氏は台湾が日本の植民地だった時代の台湾に「日本人」として生まれ、日本が第2次大戦に敗戦する22歳まで「日本人」として育った。日本人教育を受け、多感な青年期を京都帝国大学(当時)で学んだことで「日本人の思考方法」が身に付いた。台北郊外の自宅では、妻の曽文恵さんと日本語と台湾語を混ぜながら話していた。
「欧米の価値観」も、多くの説明は要らないと思う。総統就任(1988年)後から、立法委員(国会議員)の終身議員制を廃止して全面改選し、間接選挙だった総統選挙を直接選挙に移行(1996年)させたことを挙げれば十分だ。
振れ幅の大きい対中政策
李氏は中国に対しては中台の民間交流を促進させる一方、「二国論」を提起し、中国との関係を緊張させた(1995年11月11日撮影)。
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だが「中国的な社会、文化背景の中で生きている」とはどういう意味だろう。
日本敗戦後、台湾に戻った李氏は、台湾共産党の地下活動に参加。その後大学教員や農業技術者を経て、蒋経国氏(後に総統)に見出され、国民党独裁下で台北市長、台湾省主席など、キャリアを積み上げていった。
1988年の総統就任後は、激しい権力闘争でライバルを次々に粛清し、権力基盤を強化した。中国共産党顔負けのその手法は、「中国的な社会・文化背景」を体現していなければできない。
対中政策では、中国との将来の統一を展望した「国家統一綱領」をつくり、1992年には中台の民間交流窓口機関を創設して、中台民間交流の基礎をつくった一方で、1999年7月、「(中台は)国と国の関係」とする「二国論」を提起し、中国との緊張を劇化させた。対中政策の振幅は大きい。
1990年代には、「密使」を中国に送り、米国製武器の購入計画や1995年の訪米計画を事前に北京に通知、中台の緊張激化を回避する権謀術数(けんぼうじゅっすう)ぶりを発揮した。
こうしてみると李氏は、光が差す角度によってさまざまな色に変化する「プリズム」のような人物ではないか。では「親日」の中身をみてみよう。
日本の侵略や植民地支配を否定せず
日本統治時代に建てられた台湾総督府の建物は、現在も中華民国の総統府として利用されている。
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日本人にとって李氏のイメージは日本文化や古典に通じ、九州訛りの日本語を流暢に操り、「日本精神を発揮しなさい」と時には日本の政治家を激励する「親日イメージ」だ。日本による戦前の侵略と植民地支配も否定しない。
実兄が祀られた靖国神社は、自ら参拝(2007年)した。靖国問題については2007年の訪日の際、外国人特派員協会で「中国とコリアがつくったおとぎ話」と話し、2014年には日本の月刊誌「SAPIO」で「中国という国は南京大虐殺のようなホラ話を世界に広め」と主張、日本批判に「反論」してくれる存在でもあった。
2015年8月発売の日本の月刊誌「Voice」には、「日台新連携の幕開け」と題して寄稿し、
「日本と台湾は『同じ国』だったのである。『同じ国』だったのだから、台湾が日本と戦った(抗日)という事実もない」
とし、
「当時われわれ兄弟は紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦った」
と書いた。
彼は常々、外来支配の下で「主人公」になれない台湾人を「台湾人の悲哀」と表現した。だが、ここでは植民地支配者だった日本を「祖国」と呼ぶ。英植民地だったインド人や香港人、マレー人は、イギリスを「祖国」と呼ぶだろうか。朝鮮半島の人たちが日本を「祖国」と呼んだ例を知らない。
「親日」に戦略的という形容詞をつける意味が分かると思う。
「ニッポン」肯定の「光」
李氏は、2007年に実兄が祀られた靖国神社を自ら参拝した(2007年6月7日撮影)。
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中国の脅威に対して、日本と台湾が共に立ち向かう「日台運命共同体」を主張したが、北京への挑発を計算し尽くした言論だった。植民地支配の過去を清算できない日本の右派政治家や識者は、その発言にコロッと参ってしまう。
「感応」するのは右派だけではない。歴史認識をめぐる中国、韓国の日本批判に「疲れた」多くの日本人が、李発言に自己を肯定できる「光」を見いだしたのだろう。「日本人の思考方法」を知りつくした「戦略的親日」は十二分に威力を発揮した。
それは日本世論に「親日か反日か」の二分法を流行させ、中国を敵対視する市場を拡大する触媒作用にもなりえた。
時と場所で変わる発言内容
李氏は台湾を米軍の支配下にあるイラクに喩えたこともあった。
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「二国論」提起以来、中国は彼を「台湾独立派」のリーダーと非難してきた。しかし李氏は「独立など一度も言っていない」と言い続けた。既に主権独立国家だから、「独立を主張する必要はない」という意味だ。
2004年12月、数人の日本人記者とともに台北郊外の李氏の私邸に呼ばれ、懇談する機会があった。
その時彼は、「サンフランシスコ平和条約」(1951年)で、日本は台湾の主権を放棄したが、台湾の帰属先を明示しなかったため「帰属は未定」と主張し、
「台湾の地位は、米軍制下にあるイラクと同じですよ」
と繰り返した。これは「帰属先は未定だから、独立宣言しなければならない」という伝統的な台湾独立派の主張だけに、いぶかしかった。
先に紹介した「『日本人』として祖国のために戦った」と書いた文章は、台湾でも問題視された。だが同じ年、台湾の大学生に向けた講演では「(台湾人が)日本人の奴隷になったのは悲しい」「(当時の)日本は外来政権」と述べている。時と場所によって、発言内容はくるくると変わる。
「現状維持」の岩盤割れず
香港問題に続き、中国が神経を尖らせる台湾問題。蔡英文政権は「現状維持」を掲げる。
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李氏は政治的には「過去の人」であり、その死が国際政治に与える影響は限定的だ。中国の巨大化と米中対立激化の中で、「台湾人意識」が高まり、特に香港大規模デモを機に、世論調査では「台湾独立」支持も増えている。李氏の狙い通りの民意の変化だ。
しかし果たせなかったものがある。それは「一つの中国」を前提に成立している「中華民国憲法」を持つ現行の「中華民国体制」から離脱し、否定することだ。
「一つの中国」は、台湾でほぼ有名無実化しているが、その岩盤を崩すのは容易ではない。蔡英文政権が公約にする独立も統一もしない「現状維持」とは、北京に向けて「中華民国体制」を維持し「独立」しないというサインでもある。
「一つの中国」に基づく中華民国体制を崩せば、中国政府は台湾独立とみなし、「非平和的手段」(武力)の行使の選択を迫られる。中国、台湾、アメリカも、決して見たくないシナリオである。
権謀術数に長けた李登輝氏だが、「現状維持」の固い岩盤だけは割れなかった。
(文・岡田充)
岡田充:共同通信客員論説委員、桜美林大非常勤講師。共同通信時代、香港、モスクワ、台北各支局長などを歴任。「21世紀中国総研」で「海峡両岸論」を連載中。