なぜコロナ禍で働く人に1円も引き上げないのか? 安い日本で最低賃金見送り

働く人

2020年度の最低賃金の引き上げが見送られた。見送りはリーマン・ショック後の2009年度以来。

撮影:今村拓馬

安倍政権が毎年3%ずつ引き上げてきた最低賃金の2020年度の引き上げが見送られた。全国の地域別最低賃金額改定の目安を決める厚生労働省の中央最低賃金審議会が7月22日、「引き上げ額の目安を示すことは困難であり、現行水準を維持することが適当」との報告書を出したからだ。

1円の引き上げの目安を示さなかったのは、リーマン・ショック後の2009年度以来、11年ぶりとなる。

最大の理由は「新型コロナウイルス感染症拡大による現下の経済・雇用・労働者の生活への影響、中小企業・小規模事業者が置かれている厳しい状況」(報告書)を挙げている。しかし日本の最低賃金は不況を理由に引き上げをしないほど高い金額ではない。

東京と地方で広がる賃金格差

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もし最低賃金がなければ労働者よりも力関係で強い使用者が自らに有利な金額を決めてしまうこともあり得る。

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最低賃金法の目的は「賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り、もって、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資する……」(最低賃金法1条)とあるように最低限の生活の安定を図ることにある。

その金額は中央最低賃金審議会が示した目安を受けて地方最低賃金審議会が都道府県ごとに毎年10月に「地域別最低賃金」が決まる。使用者は決められた最低賃金以上の賃金を支払う必要があり、違反した使用者は50万円以下の罰金が科される。

もし最低賃金がなければ労働者よりも力関係で強い使用者が自らに有利な金額を決めてしまい、劣悪な労働環境で働かされることもあり得る。それを防止するために1959年に日本に本格的に最低賃金制度が導入された。

だが、それにしても日本の最低賃金は低い。

労働力調査によると、非正規雇用労働者は全労働者の約4割、2100万人(2018年)に達し、年収200万円以下で働く労働者は1085万人もいる(国税庁の2018年分民間給与実態統計調査)。格差が広がる中で安倍政権は経済の好循環と格差是正を目的に2015年度から「全国平均で1000円」を目標に最低賃金を引き上げてきた。

地方の商店街、名古屋

2019年度の最低賃金全国平均額は901円(写真は名古屋)。

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2019年度は全国平均で901円となった。しかしその内訳を見ると、東京都が1013円、神奈川県が1011円と初めて1000円の大台に乗ったが、平均の901円を超えているのは東京、神奈川を含めて、大阪、愛知、埼玉、千葉、京都の6都府県にとどまり、40道県は901円以下。

790円が15県もあり、最も高い東京都の間に221円の差が生じている。都市部と地方の格差も大きい。仮に時給1000円でフルタイム(1日8時間、週40時間)で働いた場合、月収約17万3000円、年収約208万円。全国平均の901円だと年収は約187万円にしかならない。790円だと約164万円にすぎない

たとえ時給1000円でも前出の国税庁の平均給与の約440万円の半分に満たない。今年の春闘の賃上げはコロナ禍の影響で下がったとはいえ、前年比1.90%(1カ月5536円)の伸び率だった(連合調査)。正社員が多い春闘の賃上げが実施されているにもかかわらず、非正規社員が多く張り付いている最低賃金が「現行水準を維持」(中央最低賃金会報告書)というのでは、ますます格差が拡大していくことになる。

先進各国との比較で安さが浮き彫り

しかも日本の最低賃金は先進各国と比べても低い水準にある。OECD(経済協力開発機構)がまとめた2019年の主要国の最低賃金は以下の通りである(出所「OECD.Stat2020.8.1」、円は1ドル106円で計算)

オーストラリア 12.6ドル(1336円)

ルクセンブルク 12.5ドル(1325円)

フランス    12.1ドル(1283円)

ドイツ     11.8ドル(1250円) 

ベルギー    11.0ドル(1166円)

オランダ    11.0ドル(1166円) 

ニュージーランド11.0ドル(1166円)

イギリス    10.5ドル(1113円)

カナダ     10.2ドル(1081円)

アイルランド  10.1ドル(1071円)

韓国      8.6ドル (912円)

スペイン    8.6ドル (912円)

アメリカ    7.3ドル (774円) 

では日本はいくらか。全国平均901円ということは、8.5ドルになる。韓国やスペインに次ぐ水準となるが、大きく違うのは先進各国のほとんどはアメリカを除いて最低賃金が全国一律であることだ。その理由として労働の対価に地域格差を設けるのはおかしいとの考えがある。

日本では地域格差が大きいが、たとえば韓国の全国一律の912円を下回っているのは41府県も存在する。どう見ても日本の最低賃金が低いのは明らかだ。

ウォール街選挙運動で動いたアメリカ

ウォール街

2011年に勃発した「ウォール街占拠運動」。アメリカ各州にて、最低賃金の引き上げの契機となった。

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また、アメリカの最低賃金は連邦最低賃金であるが、29の州とワシントン特別区の最低賃金は連邦最低賃金を上回っている(日本弁護士連合会海外調査、『最低賃金』日本弁護士連合会貧困問題対策本部編、岩波書店より)。

アメリカ各州で最低賃金の引き上げの契機となったのが2011年の格差社会への反対を掲げた「ウォール街占拠運動」だ。その後「ファイト・フォー・フィフテイーン」と呼ばれる時給15ドルを求める市民運動が他の都市にも広がり、条例や最低賃金引き上げの動きが起こっている。貧富の格差が日本より大きいと言われるアメリカでも一部の地域ではあっても15ドル(1590円)を実現しているのだ。

据え置きの背景にある中小企業の声

ところで今回の日本の最低賃金の引き上げが見送られたのは日本商工会議所など中小企業の団体が強く抵抗したからだ。

6月3日の政府の「全世代型社会保障検討会議」で日本商工会議所の三村明夫会頭はコロナ禍の影響を挙げ、雇用維持と事業継続を最優先すべきと主張し、最低賃金の引き上げ凍結を訴えた。これを受けて安倍晋三首相が「中小企業・小規模事業者が置かれている厳しい状況を考慮し、検討を進める」と発言。これが伏線となり結果的に審議会での引き上げ見送りにつながった。

三村会頭はこの結果について7月22日にこうコメントしている。

「新型コロナウイルスの影響により、未曾有の苦境にある中小企業・小規模事業者の実態を反映した適切な結論であり、これを評価する。」

中小企業の主張だけが一方的に採用され、最低賃金に張り付いている非正規労働者の声が反映されていない。もちろんコロナ禍の影響は日本だけではない。

コロナ禍で6%超引き上げたイギリス

ジョンソン

コロナ禍の影響を受けながらも最低賃金の引き上げを表明したイギリス(写真はボリス・ジョンソン首相)。

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イギリスの最低賃金は21歳から24歳までの「全国最低賃金」と25歳以上の「全国生活賃金」に分かれる。全国生活賃金は2019年4月に8.21ポンドに引き上げられた。2020年4月は改定の時期にあたるが、イギリスもコロナ禍の影響を当然受けている。

しかし、全国生活賃金は8.72ポンド(1212円)に引き上げられた。率にして前年比6.2%の増加である。また、21~24歳の全国最低賃金も前年の7.70ポンドから8.20ポンドに引き上げられた。

イギリス政府の「低賃金委員会」(Low Pay Comission)はプレスリリースで「4月1日水曜日に8.72ポンドに引き上げられ、英国のCovid-19への対応の最前線にいる労働者の賃金を引き上げます」と述べ、LPCのブライアン・サンダーソン議長はこう発言している。

介護セクター、農業、小売りなど国の主要な労働者の多くは低賃金であり、非常に困難な状況で働き続けており、今日(4月1日)の引き上げは有益でしょう。政府は異常な状況の影響を軽減するために雇用主に包括的な支援パッケージを導入しました」

コロナ禍でも人の命やライフラインを守るために働かざるを得ないエッセンシャルワーカーは日本でも数多くいる。そしてその多くが低賃金で働く非正規労働者だ。

イギリス政府はこんな時だからこそ最低賃金を引き上げることで彼ら・彼女らの労働に報いようとしている姿勢が発言に垣間見える。同時に困難な状況下にある企業にも支援を表明している。

イギリスの最低賃金よりもはるかに低い日本では、なぜ1円すら引き上げしようとしないのか。理解に苦しむところだ。

(文・溝上憲文

溝上憲文:1958年鹿児島県生まれ。人事ジャーナリスト。明治大学卒。月刊誌、週刊誌記者などを経て、独立。新聞、雑誌などで経営、人事、雇用、賃金、年金問題を中心テーマに執筆。『非情の常時リストラ』(文春新書)で2013年度日本労働ペンクラブ賞受賞。主な著書に『隣りの成果主義』『超・学歴社会』『「いらない社員」はこう決まる』『マタニティハラスメント』『辞めたくても、辞められない!』『2016年残業代がゼロになる』『人事部はここを見ている!』『人事評価の裏ルール』など。

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