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J・K・ローリング氏が手掛けたファンタジー小説『ハリー・ポッター』シリーズはすぐに映画化され、小説と同じくらい人気の高い映画シリーズとなった。ただ、多くの"映画化"作品同様、原作との相違点がいくつかある。
それが俳優や監督のクリエイティブな選択なのか、作品と作品の一貫性のなさのせいなのかに関係なく、こうした"変更"は原作小説のファンにとっては、明らかなミスに感じられるかもしれない。
映画『ハリー・ポッター』シリーズが原作小説と違う、最も気付きやすいディテールをいくつか見ていこう。
『ハリー・ポッターと賢者の石』に出てくる動物園のヘビは、映画では種類が違う。
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これは『ハリー・ポッターと賢者の石』でわたしたちが初めて目にした、ハリーが思いがけず魔法を使うシーンだ。
いとこのダドリーと一緒に動物園を訪れたハリーは、展示施設のガラスを思いがけず消してしまい、ヘビが逃げ、ダドリーが中に閉じ込められてしまう。
このヘビは、小説ではボアコンストリクターだったが、映画ではビルマニシキヘビに変更されている。
ハリーとクィレル先生の"出会い"が違う。
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最初の小説でハリーとダイアゴン横丁で会った時、クィレルはハリーと握手をしても何ら問題なかった。ところが、映画ではハリーとの接触を丁寧に断っている。
小説ではその後、ハリーと最初に会った時はクィレルはヴォルデモートとまだ物理的につながっておらず、賢者の石を盗むのに失敗した後、ヴォルデモートがホグワーツに入り込むためにクィレルの身体を使ったことが分かる。
ヴォルデモートとつながった後、クィレルは手を焼かれることなくハリーに触ることができなくなった。だが、ダイアゴン横丁で会った時にハリーに触れない理由はないはずだ。
「ヴォルデモート」は映画を通じて、誤って発音されていた。
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『ハリー・ポッター』のオーディオブックのファンは、ナレーターのジム・デール(Jim Dale)が最初の何本かの作品ではヴォルデモート(Voldemort)の「t」を正しく無声で発音していることに気付くだろう。しかし、映画では「t」は無声ではない。
デールは結局、映画『ハリー・ポッターと賢者の石』が公開された後、初めて出たオーディオブック『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』で自身の発音を映画に合わせたが、ローリング氏はその後、無声の「t」が正しかったと認めた。
他にも、「アクシオ」「レストレンジ」「ギルデロイ・ロックハート」といった呪文や名前の発音がオーディオブックと映画では異なっている。
映画『ハリー・ポッターと賢者の石』では、組分け儀式は異なる順序で行われる。
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小説では1年生がアルファベット順に組分けられたが、映画ではその順序はランダムだった。
映画の製作者が主要な登場人物を立て続けに見せたいと考えてそうしたのなら理解もできるが、ハーマイオニー・グレンジャー、ドラコ・マルフォイ、スーザン・ボーンズ、ロン・ウィーズリー、ハリー・ポッターと、順序は完全にランダムなようだ。
フラッフィーのそもそもの話が最初の映画では違っている。
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小説では、ハリー、ハーマイオニー、ロンがフラッフィーを見つけた後、ハグリッドはフラッフィーを「ギリシャ人」から買ったと話した。
フラッフィーは冥府の門番をしている3つの頭を持つ犬ケルベロスにインスパイアされたと考えられているため、これは理にかなっている。
ところが、映画でハグリッドはフラッフィーを「アイルランド人」から買ったと話している。大きな変更ではないが、理にかなってもいない。
3人は最初の小説でハグリッドのドラゴンを逃がす手伝いをしている。しかし、映画ではどうやってドラゴンが逃げたのか、はっきりしない。
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小説では、ハグリッドがダンブルドアと厄介なことにならないよう、ハリー、ロン、ハーマイオニーはハグリッドがペットにしているドラゴン「ノーバート」を逃がす手伝いをした。その際、3人はロンの兄チャーリーと会い、チャーリーがノーバートをルーマニアに連れて行った。
ところが、映画の1作目にチャーリーは登場せず、このくだりも一切ない。代わりにハグリッドが、ノーバートはホグワーツの職員に見つかって、ルーマニアへ送られたと言っている。
ハリーはみぞの鏡で両親だけでなく、一族全員を目にしているはず。
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みぞの鏡は、鏡の前に立った者の心からの願望をあらわにするため、ハリーが会ったことのない家族を目にするのは不思議ではない。
ただ、1作目の映画ではハリーはみぞの鏡を一度しか訪れておらず、その時も自分のそばに立つ両親しか見ていない。小説では、ハリーは何度かみぞの鑑を訪れていて、そこで多くの親戚も目にしている。
1作目の映画で、オリバー・ウッドはクィディッチのルールを間違えている。
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映画ではグリフィンドールのクィディッチのキャプテン、オリバー・ウッドがハリーに、シーカーが金のスニッチを捕まえたら、そのチームが勝つとゲームのルールを説明している。
だが、それは必ずしもそうではない。
小説では、スニッチを捕まえるとゲームが終了し、チームに150点入るので、そのチームが「ほぼ勝つことになる」としている。ただ、チームが150点以上差を付けられていた場合、金のスニッチを捕まえるとチームは敗北してしまう。
小説『ハリー・ポッターと賢者の石』で、ハーマイオニーはハリーのメガネを直したことはない。
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映画『ハリー・ポッターと賢者の石』では、ハーマイオニーはホグワーツ特急に乗っていた時に「オキュラス・ㇾパロ」の呪文を使って、ハリーのメガネを直した。しかし、これは未成年の生徒がホグワーツの外で魔法を使うことを禁じた"ルール"に反するものだ。『Hogwarts: A History』を読んでいたハーマイオニーなら、間違いなく知っていただろう。
ただ、小説ではハーマイオニーは呪文を使っておらず、この矛盾は生じていない。
未成年の魔法に関するルールの説明は、小説の方が詳しい。
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『ハリー・ポッターと秘密の部屋』では、ドビーがダーズリー家のリビングでデザートのケーキを空中浮遊させ、落とそうと浮遊術の呪文を使った時、ハリーはすぐに、一家の前で未成年の魔法使用を叱責するメッセージを受け取った。
このシーンは映画には盛り込まれていないため、ダーズリー家の人々はその後、どうやってハリーが学校の外で魔法を使うことを許されていないと知ったのか、はっきりしない。
映画では、ハリーは"母親と同じ目"をしていない。
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シリーズを通じて、複数の登場人物がハリーは母親と同じ目をしていると言及している(小説では明るい緑色とされている)。ただ、ハリーを演じたダニエル・ラドクリフの目は青い。
実は、製作者側が使おうとしていたカラーコンタクトがラドクリフには合わず、使用しないことになった。
他にも、映画ではパーシー・ウィーズリーがメガネをかけていなかったり、ペチュニアおばさんがブロンドではなく黒髪だったり、ちょっとした違いがある。
映画では、ポリジュース薬の効果に矛盾が。
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2作目の小説でロンとハリーがポリジュース薬を使ってクラッブとゴイルに変身した時、ハリーは自分のメガネがゴイルには全く必要ないことから、自分の目を曇らせていることに気付き、メガネを外し、自分の口から「2人は大丈夫?」というゴイルの低い声を出したとある。
これはつまり、ポリジュース薬が効いている間は変身した相手の視力と声を引き継ぐということだ。ところが、映画はそうではなかった。
2作目の映画で、ゴイルに変身したハリーはドラコに指摘されるまでメガネを着けていた。これはポリジュース薬を飲んでも、ハリーはゴイルの視力にならなかったことをほのめかしている。一方で、映画『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』では、ハーマイオニーがポリジュース薬を使ってハリーになった時、その視力のひどさに言及している。
また、2作目の映画でロンとハリーは変身後も自分たちの声を維持していて、それは『ハリー・ポッターと死の秘宝』 でハリーに変身した登場人物たちも同様だった。ただ、小説とは矛盾している。
そして、4作目の映画でバーティ・クラウチ・ジュニアがポリジュース薬を使ってマッドアイ・ムーディに変身した時は、声も変わっているようだった。
ハーマイオニーは「穢れた血」がどういう意味かを知らなかったはず。
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小説『ハリー・ポッターと秘密の部屋』でドラコがハーマイオニーを「穢れた血」と呼んだ時、ハーマイオニーは侮辱されたことは分かったが、それがどういう意味かは分かっていなかった。
魔法族の家庭で育ったロンが、この言葉はマグル生まれの人間を中傷する言葉だと説明した。
一方、映画ではハーマイオニーはこの言葉の意味を知っていて、小説に出てくるロンの言葉を使って、ハリーに説明までしている。
マグルの世界で育ったハーマイオニーがこの言葉を聞いたことがあるはずはなく、教科書に載っている可能性も低いことから、この変更は筋が通らない。
3作目の小説で、ハリーとルーピン先生は先生の部屋で会っていて、それがシリーズ終盤で重要になる。
映画では橋で会っていた。
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他の3年生たちがホグズミードに行っている間、ハリーはルーピンと先生の部屋で会話をしている。その際、部屋の隅にはルーピンが手に入れたばかりのグリンデローが置かれていた。
ところが、映画では2人の会話はホグワーツの外の木の橋で交わされている。
これは小さくても重要な矛盾だ。なぜなら映画『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』で、ルーピンはハリーが本物かどうか確かめるために「ホグワーツでハリー・ポッターがわたしの部屋を最初に訪れた時、部屋の隅に置かれていた像は何か?」と尋ねているからだ。
場所の変更とグリンデローの不在が映画ではこの質問を的外れなものにしている。
逆転時計はシリーズを通じて、さまざまな矛盾を生んでいる。
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『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』でマクゴナガル先生がハーマイオニーに与えた逆転時計とその使用にまつわるルールは、ファンの間でも最も議論が分かれる矛盾をいくつか生み出した。
その1つは、小説の中では、逆転時計を使った後は時間を遡って行った場所で終わる。ところが映画では、ハリーとハーマイオニーは逆転時計を使い始めた場所に戻らなければならなかった。
そして、映画では、ハリーとハーマイオニーは時間を遡っている間、誰かに自分たちの姿を見られることをあまり気にしていなかった(過去の自分たちに見られないことの重要性はハーマイオニーとダンブルドアが強調していた)。
ローリング氏もこうした逆転時計が生み出した問題を認識していて、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』で全ての逆転時計を破壊することで、問題を片付けた。
映画『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』でダンブルドアが攻撃的な反応を見せた理由がよく分からない。
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ハリー・ポッターの映画シリーズの"あるシーン"について、数えきれないほど多くの記事が書かれている。炎のゴブレットからハリーの名前が出てきた時のダンブルドアの反応だ。
小説では、ダンブルドアはハリーに「穏やかに」尋ねたとされている。校長はハリーが重大な危機に瀕していると分かっていて、その反応は恐怖であって、怒りではない。
ところが映画のダンブルドアは「穏やか」とは程遠い。
なぜこのような違いがあるのか、多くの議論があるものの、映画でダンブルドアを演じたマイケル・ガンボンまたは監督のクリエイティブな選択というだけかもしれない。
小説ではドビーがやったいくつかのことが、映画ではネビルがやったことになっている。
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小説『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』では、三大魔法学校対抗試合でハリーに鰓昆布を調達したのはドビーだった。しかし、ドビーは4作目の映画には登場しないため、ネビルが鰓昆布を調達した。ネビルが薬草学を得意としていることを考えると、これは理にかなっている。
同じことが『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』でも起きている(この映画にもドビーは登場しない)。ダンブルドア軍団が呪文の練習に使う場所を必要とした時のことだ。小説では、ドビーが必要の部屋を使うアイデアを与えていたが、映画ではネビルのアイデアになっている。
映画では、ハリーはシリウスとのコミュニケーションやシリウス自身に対して、あまりに無神経。
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『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』で逃亡した後、小説ではシリウスは自らの身を隠すためにさまざまなルールを設定していた。
子どもたちには自分を「スナッフル」と呼び、手紙を書く時は万一に備えてあいまいに書くよう伝えていた。
ところが、映画はこれを無視し、ハリーはシリウスの名前をそのまま使い、手紙で敵の手に渡れば自分たちに危険が及びかねないような情報を明かしていた。
映画『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』で、ハーマイオニーは視覚的にあまり変わっていない。
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小説では、ハーマイオニーはボサボサの茶色の髪をした出っ歯の「地味な」少女だとしばしば書かれている。
これらはいずれもハーマイオニーを演じたエマ・ワトソンには当てはまらない。そのため、製作者は『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』で、ダンスパーティーに向けてハーマイオニーが大変身するシーンに苦労した。
小説では、ハーマイオニーは魔法を使ってボサボサの髪を真っ直ぐにし、歯を小さくするなどして"おめかし"していた。
映画では、ドレスを着て、リップグロスを塗ったくらいだった。
映画では、ハリーは『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』より前にセストラルの姿が見えていなければならない。
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セストラルはもともと、ホグズミードからホグワーツへと生徒たちの乗った馬車を引く魔法生物として小説に登場した。
『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』で読者は、ハリーにはセストラルが見えるが、ハーマイオニーとロンには見えないことを知った。そしてルーナが、セストラルは死を目撃した人間だけに見えるのだと説明した。
ハリーは4年生の終わりにセドリック・ディゴリーが死ぬのを見ているので、これは理にかなっているが、ハリーは幼い頃に母親の死を、ホグワーツ1年生の時にクィレル先生の死を目撃しているので、もっと前からセストラルが見えていなければおかしい。
母親の死を目撃した時は幼過ぎてそれを理解できなかったから、ハリーはホグワーツの1年生の時にセストラルが見えなかったと考えることは難しくない。だが、『ハリー・ポッターと賢者の石』でクィレル先生の死を見た後にセストラルが見えなかった理由は説明されていない。
小説では、クィレル先生が死んだ時、ハリーは気を失っていたので、実際はその死を見ていない。しかし映画では、ハリーは気を失っていなかった。小説のハリーには見えなくても、映画のハリーは1年生が終わった時にはセストラルが見えていなければおかしいのだ。
ハリーとチョウの関係は小説と映画でかなり違う。
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映画はチョウ・チャンについて、いくつかの変更を加えている。ハリー、ロン、ハーマイオニーよりも1つ年上であるという事実もその1つだ。しかし、最大の違いはハリーとの関係だ。
小説では、2人の関係は『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』でハリーの片思いが明かされた時から下地が作られている。しかし、2人が結ばれたのはチョウとセドリック・ディゴリーの関係が終わった『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』の時だ。
小説はハリーとチョウの関係について、ホグズミードでのデートやハリーと親しいハーマイオニーに対するチョウの嫉妬など、もう少し詳しく描いている。
友人のマリエッタ・エッジコムがダンブルドア軍団を裏切って、彼らのことをアンブリッジ先生に密告した時、チョウはハリーに対して友人を擁護したことで、破局につながった。
ところが映画では、チョウがダンブルドア軍団についてアンブリッジ先生にその詳細を明かし —— 映画にマリエッタは登場しないため —— それがハリーとの関係を事実上終わらせた。そして、視聴者はのちにチョウが真実薬を飲まされていたことを知る。
ハーマイオニーがヴォルデモートの名前を初めて声に出して言うのは『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』のはず。
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映画、特に最初の2作品では、ハーマイオニーはヴォルデモートの名前を平気で口にしている。『ハリー・ポッターと秘密の部屋』では、ダンブルドアが小説で言った「名前に対する恐怖はそれ自体に対する恐怖を増すだけ」という台詞までハーマイオニーは口にしている。
ところが『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』で、ダンブルドア軍団のメンバーを募ろうとした時、ハーマイオニーはその名前を口にするのに勇気を出さなければならなかった。これは映画シリーズの初期の姿と明白に違っている。
小説では、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』のこの瞬間まで、ハーマイオニーはヴォルデモートの名前を声に出して言ったことは一度もなかった。
小説では、デスイーター(死喰い人)は隠れ穴に火を放っていない。
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これまで見てきたシーンやディテールのミスの大半は、映画が省略したものだが、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』では製作者はシーンを追加している。
クリスマス休暇中にデスイーターの集団がウィーズリー家の自宅(「隠れ穴」として知られている)に姿を現した。彼らは長くはとどまらなかったが、家に火を放った。
このスリリングなシーンは、隠れ穴の周りに頑丈な防御がなされているという事実(小説では言及されているが、映画ではされていない)にやや反するものだ。
また、どのように修繕されたか分からないまま、次の映画では何事もなかったかのようになっている。
小説では、半純血のプリンスはもっと深い意味を持つ。
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6作目の小説と映画で、ハリーは文字の隙間にヒントや呪文などが書かれた古い魔法薬学の教科書に依存するようになる(そのおかげでクラスでトップの成績を出すことも)。教科書の所有者の名前は、裏表紙に「半純血のプリンス」とだけ書かれていた。
小説と映画の終わりで、わたしたちはこの「半純血のプリンス」がセブルス・スネイプであることを知る。しかし、映画ではそれがわたしたちに与えられた情報の全てだ。
小説では、父親がマグルだったことからスネイプは半純血となり、母親の旧姓がプリンスだったことが分かる。
6作目の映画のダンブルドアの死の描かれ方が違う。
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スネイプの手によるダンブルドアの死は、シリーズ最大の胸が張り裂けるような瞬間の1つだが、映画はこの重要な瞬間の描き方を大きく誤っている。
小説では、ダンブルドアは「ペトリフィカス・トタルス」の呪文を使って、ハリーをその場で石にし、ドラコやデスイーターを止められないようにした。ダンブルドアは恐らく、そうすることでしかハリーを止められないと分かっていたのだろう。
ところが映画では、ダンブルドアはただハリーに隠れるよう伝え、ハリーもそれに従った。ダンブルドアが攻撃されるのを、何もせず、何も言わず見ていられるなんて、ハリーはそんな人間だったのかと感じてしまう。
七人のポッターの戦いでどれが本物のハリーか相手に分からせてしまったのは、ヘドウィグではなかったはず。
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小説『ハリー・ポッターと死の秘宝』の七人のポッターの戦いでは、本物のハリーの見分けがついたのは本人がハリーの特徴的な動きとなっていた「エクスペリアームス」の呪文を使ったからだ。
これは、自分を傷つけようとする相手であったとしても、殺したり、傷つけたりすることはしないというハリーのアイデンティティの重要な部分だ。この時は、服従の呪文をかけられたスタン・シャンパイクがデスイーターのために働いていると知り、武器を取り上げるために(そして深刻なダメージを与えないために)彼にこの呪文を使った。
しかし、映画ではヘドウィグがハリーを命がけで守ったことが、デスイーターに本物だと気付かせた。
これは、ヘドウィグの死についても誤っている。同じシーンで起こることではあるが、小説ではヘドウィグはハリーと一緒にケージに入った状態で乗っていて、死の呪いをかけられる前に落ちてしまった。ハリーを守るために、どこからともなく飛んできたわけではない。
シリーズの最後で、ニワトコの杖は正当な所有者とともに埋葬されるはず。
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映画『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』の最後では、ニワトコの杖とそれが持つ力との関係を断つためにハリーは杖を半分に折って橋から投げた。
しかし、小説ではハリーは自分の杖を直すためにニワトコの杖を一度だけ使い(他の何かでは直すことができなかった)、ダンブルドアが眠る墓に戻した。
これはとても感動的な瞬間であるとともに、実務的な瞬間でもある。なぜなら、映画はハリーが自分の杖をどのようにして直したのか、または新しい杖を手に入れたのか、きちんと説明していないからだ。
[原文:27 details from the 'Harry Potter' books that the movies got wrong]
(翻訳、編集:山口佳美)