古代より続く男性中心の考えは、相当根深いものだと知ったシマオ。男性優位の視点を学ぶべく、佐藤優さんに薦められた聖書を読むと、そこには女性蔑視とも思える表現が多く存在していた。
「なぜ聖書の中でも男性は上なんだろう。キリスト教では神の前の平等を唱えているものじゃないのか?」
シマオはその矛盾を佐藤さんにぶつけてみた。
なぜキリスト教文化は男性優位になったのか
シマオ:そう言えば先日、佐藤さんがキリスト教文化に潜む男性優位の視点については、『旧約聖書』創世記のアダムとイブの場面を読むといいとおっしゃっていたので、この前、ミッション系の大学に行っていた友だちに借りて読んでみました。
佐藤さん:それはそれは。どうでしたか?
シマオ:聖書とか読んだことがなかったので、読みづらかったですね(笑)。でも頑張って読んだんですが、ちょっと理解できないところがあって。
創世記の第1章では「神様は自分の姿に似せて男と女を造った」と書いてあるのに、次の第2章では「人のあばら骨をひとつ取って、女を造った」と書いてありました。これって、違うことが書いてありませんか?
参考:『旧約聖書』創世記(聖書協会共同訳) 1章27節:神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。 2章21~23節:そこで、神である主は人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、そのあばら骨の一つを取り、そこを肉で閉ざされた。 神である主は、人から取ったあばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られた。 人は言った。「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたからである」
佐藤さん:よく気付きましたね。そこが、まさにジェンダーの視点からは重要なところです。そもそも、聖書というのはさまざまな記述が編纂されたものですから、あちこちに矛盾がありますし、そのような矛盾というのは、宗教が時代を越えて生き残るための1つの要素でもあります。
シマオ:そうだった。宗教は時代時代に合うように、矛盾とも思える要素が多いんですよね。
佐藤さん:はい。そうした聖書をどのように解釈するかということが、私たちの意識を映す鏡にもなるわけです。その意味で、キリスト教というのは伝統的に男性優位の視点が維持されました。だからこそ、第2章の「人」とはイコール男であると解釈し、女は男からつくられたという解釈がとられてきたのです。
シマオ:なぜ男性優位の視点になってしまったのでしょうか?
佐藤さん:大きいのは、キリスト教団の中でパウロ派が勝ち残ったことで、聖書からは女性の功績についての記述がほとんど削られてしまったと考えられています。イエス自身は、ユダヤ教の戒律のもとで虐げられていた女性たちを平等に救いました。それに対して、パウロはある種旧弊な考え方をしていたようです。
シマオ:つまり、パウロが男権的だったからキリスト教がそうなってしまった、と。じゃあ、聖書について別の視点で読み解けば、違う解釈が成り立つということですか?
佐藤さん:はい。それをしているのが「フェミニスト神学」と呼ばれる考え方です。
フェミニスト神学による聖書の読み直し
シマオ:フェミニスト神学……? それはどういうものなのでしょう。
佐藤さん:先ほども言ったように、聖書というのはさまざまな言い伝えや記述が後世の人々の手で編集されたものです。編集されたものだということは、そこには必ず編集者の意図が入り込みます。
シマオ:週刊誌やスポーツ新聞の多くは、基本的に男性の目線からつくられていますよね。そんな感じですか?
佐藤さん:そうですね。同じように、聖書の編集者たちは非常に男権的だったというのが、フェミニスト神学を唱える人たちの主張で、それは一定程度正しいと思います。そのような主張をしている人たちは、「編集方針」によって改ざんや削除されてしまった聖書の元の姿を、解釈によって取り戻そうとしているわけです。
シマオ:そのフェミニスト神学の視点で見ると、アダムとイブの話はどのように解釈できるのでしょうか?
佐藤さん:私はフェミニスト神学の専門家ではないので、フィリス・トリブル著『フェミニスト視点による聖書読解入門』という本を読んでみましょう。
シマオ:比較的手軽に読めそうな本ですね。
佐藤さん:トリブルは創世記第2章の「助け手」という言葉に注目します。前段として、神は自分のつくった「人」が孤独であるから「助け手」を造ろうと言います。この「助け手」という言葉を見て、どう感じますか?
参考:『旧約聖書』創世記(聖書協会共同訳) 2章18~20節 また、神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」 神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるか見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった。 人はあらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に名を付けた。しかし、自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった。
シマオ:一緒にいてお手伝いしてくれる人、みたいな感じでしょうか……。
佐藤さん:トリブルは、その翻訳が誤解を生んだと言います。ヘブライ語の原語は「しばしば神を言い表すために用いられている」語で、決して「助手」や「従属した存在」を表す言葉ではないそうです。むしろ、能力があるという意味だというわけです。
シマオ:では、女のほうが優れているということ……?
佐藤さん:いえ。そうすると反対の差別になってしまいます。実はこの時点では、造られた人は男でも女でもありません。あばら骨からもう1人の「人」をつくったときに初めて「男」と「女」と名付けたわけで、両者は平等の存在だというわけです。
シマオ:なるほど。確かにそう解釈したほうが、男女のどちらかが優位に立たなくてスッキリしますね。
女性たちによる「セックス・ストライキ」
佐藤さん:トリブルは聖書の中にはこれ以外にも「男の感覚」と「男の言葉」が満ちていると言います。その最たるものが、神を呼ぶときに男性代名詞が使われていることです。
シマオ:「父なる神」ですからね。
佐藤さん:おまけに、一般的な理解では、蛇に騙されて善悪の知識の木の実を食べ、罪を犯すのは女だとされています。でも、ここの記述に対してもトリブルは異なる見方をします。
シマオ:どのようにでしょう?
佐藤さん:まず、蛇の言葉に女はすぐに騙されているわけではありません。神の禁止があると訴えたうえで最終的に食べることを決断しています。男は女に渡された実を食べただけです。しかも、神に問い詰められて男は「女だ、女を造った神が悪い」と言うのに対して、女は「蛇が騙した」とだけ言います。
シマオ:そう考えると、少なくとも女のほうが理知的で、むしろ男は受動的で責任転嫁しているように思えますね。
佐藤さん:それが、フェミニスト神学による「男性目線で編集された」聖書の再解釈です。
佐藤さんいわく、「聖書は男性の編集者によって作られた物語」。きちんと読むと女性蔑視の記述が多いことに驚く。
シマオ:なるほど。とはいえ、聖書が男性優位的な解釈なのは、古い時代のものだからしょうがない面もありますよね。
佐藤さん:ただ、女性たちは昔から男性優位社会に対して声を上げてきたのではないかと思います。歴史というのは権力者による記録の側面もありますから、なかなかそうした女性の声は残っていませんが、参考になるものがあります。それが、古代ギリシャの喜劇作家アリストファネスの『女の平和』という戯曲です。紀元前5世紀を舞台にしたものですね。
シマオ:き、紀元前!? そんな時から女性は声を上げていたということですか?
佐藤さん:舞台は、紀元前5世紀に起きたペロポネソス戦争のさなかのアテナイです。ペロポネソス戦争はアテナイとスパルタの争いを中心とした戦争ですが、結果的にスパルタが勝利します。アテナイの女たちは敗戦濃厚にもかかわらず、終わることのない戦争に耐えかねて、「ある行動」を起こします。何だと思いますか?
シマオ:反戦デモとかでしょうか……。
佐藤さん:そうです。そしてその手法が、いうなれば「セックスストライキ」だったんです。
シマオ:えっ……どういうことですか!?
佐藤さん:女性たちは男性たちに向かって、戦争を止めるまで性生活を拒否すると宣言するんです。男たちは戦争をやめられないけど、セックスもしたい。そんな喜劇で、最終的に女性たちが勝利して平和が訪れるというのがあらすじです。
シマオ:何だか話だけ聞くとスゴイですが、昔から女性もさまざまな手段を使って声を上げていたのかもしれませんね。
佐藤さん:そうですね。女性たちが声を上げ続けているのだとしたら、私たち男性はその声を聴く耳を持つ義務があるということ。それを心に留めておく必要があります。
※本連載の第32回は、9月16日(水)を予定しています 。
佐藤優:1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。85年、同志社大学大学院神学研究科修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、09年6月有罪確定。2013年6月に執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失った。現在は執筆や講演、寄稿などを通して積極的な言論活動を展開している。
(構成・高田秀樹、撮影・竹井俊晴、イラスト・iziz、編集・松田祐子)