1961年10月、ツァーリ・ボンバが爆発した後に煙と埃の雲が立ち上る。
Ministry of Medium Machine Building of USSR/Rosatom
- ロシアは、世界最大の核爆弾であるツァーリ・ボンバ爆発の瞬間の映像を公開した。
- 爆発はTNT爆薬で50メガトンに相当し、広島と長崎の原爆の約1500倍の威力を持っていた。
何十年もの間、歴史上最も強力な核兵器は極秘事項だった。
現在、ロシアは、正式にはRDS-220、非公式にはツァーリ・ボンバ(Tsar Bomba)として知られる水素爆弾の爆発に至るまでの経緯を公開している。
ロシアは8月20日、同国の原子力産業75周年を記念して、アメリカとの核開発競争が激化していた1961年10月30日、北極海の孤島で行われたツァーリ・ボンバの実験のドキュメンタリー映像を機密解除した。
YouTubeにアップされた40分間の動画は、広島と長崎の原爆を合わせたものの約1500倍の威力を持つ爆発の様子を映し出している。ロシアは、この爆発の際の閃光が1000km以上離れた場所から見ることができたとしている。
ビデオは、爆弾が実験場まで貨物列車で運ばれるところから始まる。スティーブンス工科大学で核の歴史を研究するアレックス・ウェラースタイン(Alex Wellerstein)がニューヨーク・タイムズに語ったところによると、このドキュメンタリーでは、この爆弾がどのようにして作られたかという技術的な秘密は明かされていない。
爆発直前の映像では、2機の航空機が実験場に向かって飛んでいる。1機は爆弾を運び、もう1機は爆発を撮影する機体だ。BBCは、この飛行機が生き残る可能性は五分五分だっただろうと報じている。爆弾を運ぶ飛行機は、熱放射からの、機体を守るために真っ白に塗られている。
武器が飛行機から放たれると、パラシュートが開いて、爆弾を地上4000mの高さまでゆっくりと降下させ、飛行機が安全な距離まで飛び去るのに十分な時間を与える。
ビデオの22分44秒で、爆弾は爆発する。映像には、光のバーストに続いて、巨大なオレンジ色の火の玉とキノコ雲が映っている。
映像には映っていないが、爆発の衝撃で飛行機は1000m降下したという。爆発は周囲の地形を平らにし、その後には焦土以外何も残さなかった。
冷戦期の核開発競争
ソビエト連邦のニキータ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)首相が個人的にこの兵器の開発を依頼したことから、ツァーリ・ボンバは彼の愛称で呼ばれた。フルシチョフは当初、アメリカが開発したものをはるかに上回る100メガトン級の兵器の製造を計画していたが、ロシアの科学者たちは、放射性降下物があまりにも破滅的であることを恐れ、ツァーリ・ボンバは当初の予定よりも威力が低いものになった。
ツァーリ・ボンバが爆発する前までは、アメリカが冷戦時代の軍拡競争をリードしていた。
1954年、アメリカはキャッスル作戦のブラボー実験でこれまでで最も強力な水爆の実験を行った。第二次世界大戦中に広島に落とされた核爆弾はTNT火薬換算で15キロトン、長崎に落とされた核爆弾は21キロトンだったが、そのときの爆発は15メガトンに相当した。
1994年に発行された『冷戦国際歴史プロジェクト紀要(Cold War International History Project Bulletin)』には、ロシアのカメラマンが、ツァーリ・ボンバの爆発を目撃したと書かれている。
「地球全体を吸い込むように見えた。その光景は幻想的で、非現実的で、超自然的だった」とカメラマンは語っている。
その爆発は、爆心地から50kmほど離れたセヴェルニーの近くの軍事都市の住宅を破壊した。衝撃はマグニチュード5.0の地震に似ており、数百km離れた場所で窓が砕け、屋根が崩壊した。
それでも、映像を見ると、爆発時の高度と気象条件がその威力を軽減していることがわかる。ロシアの原子力機関であるロスアトム(Rosatom)は、近くの居住地のいずれも 「重大な爆発の影響を記録していない」としている。
ノルウェーの新聞『バレンツ・オブザーバー(The Barents Observer)』によると、爆発による放射性降下物がスカンジナビア全域で観測されたという。しかし、火の玉が地表と接触することがなかったため、その放射線は、爆弾の大きさを考えると多くはなかったという。
この爆発は今日に至るまで、世界がこれまでに見た中で最大の核爆発であり続けている。
(翻訳、編集:Toshihiko Inoue)