2014年11月21日、衆議院解散後に自民党内で演説した安倍首相。「アベノミクス解散」の是非が取り沙汰された。
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8月28日、安倍首相が7年8カ月という史上最長となる在任期間の末、辞意を表明した。
新型コロナウイルスの第2波に小康状態がみられること、冬の流行に備えて万難を排した政治体制を整える必要があること、また2021年9月に総裁任期の満了が控えていることなどから、幾ばくかの政治空白が許されるとすれば、いましかなかったという声が多く聞こえてくる。
第一報を受けた金融市場では、円相場が急伸する動きが見られたものの、新しいトレンドの始まりと言えるまでの動きには発展していない。
「アベノミクスの始まりとともに円安局面に入ったのだから、その終わりとともに円高局面に入る」との解説はわかりやすいが、それは次期政権の全貌が明らかになるまで何とも言えない話だ。
戦時中にも例えられるこの特殊な状況においては、「誰が首相になってもやるべきことは同じ」という本質的な目線も持ちたい。
安倍首相の辞任表明直前の2020年8月26日、ロイター通信のインタビューに応じた菅義偉官房長官。金融市場は「菅シナリオ」に期待をかけている。
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現時点での市場心理は大まかにいえば、「石破シナリオ」と「非・石破シナリオ」に分岐している。そして、後者のうち金融市場が最も希望しているのは、“安倍政権の居抜き”とされる「菅シナリオ」である。
とはいえ、金融市場にとって政権の「色」を判断する材料になるのは、端的には金融政策だ。当面は日銀金融政策決定会合の現状維持が見込まれる以上、誰が首相になっても「色」が読み取りにくい時間帯は続く。
来年まで視野に入れるなら、例えば、3月末に任期満了を迎える桜井眞審議委員の後任人事がひときわ強い関心を引くのではないだろうか。
いずれにせよ、ありもしない金融緩和の効果を強弁してシステミックなリスクを高めるような政策運営は、安倍政権後期には退潮した。「菅シナリオ」でもその路線が継続されることを期待したい。
「大胆な金融緩和」なくしてアベノミクスは語れない
2015年12月、為替の推移を示す電光掲示板。同年6月には125円超を記録した。
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第二次安倍政権のマクロ経済政策(以下、アベノミクス)について総括すべき論点は多いが、筆者にまず言えることは、アベノミクスは「為替に始まり、為替に終わった」ということだ。
アベノミクスの始点・終点でドル/円相場は30%以上も上昇した。最高値(2015年6月10日の125.86円)と比べれば、60%近く上昇したこともある。先進国同士の通貨ペアが(2012年の第二次安倍政権成立から)3年弱でそれほど上昇するのはただごとではない。
後述するように、こうした動きの主因はあくまで海外の経済・金融環境が改善したことだ。しかし、第二次安倍政権発足当初の政府と日銀による「市場との対話」がおおむね奏功した事実も無視できない。そうしたいくつかの要因から起きた「円高相場の反転」が、アベノミクスの幕開けを意味したのは間違いない。
そもそもアベノミクスとは何だったのだろうか。
おそらく、ほとんどの市場参加者は「大胆な金融緩和」と回答するのではないか。
大胆な金融政策は、「機動的な財政政策」「投資を喚起する成長戦略」とともに「三本の矢」の一構成要素にすぎないものの、安倍首相の任期中を通じて「困ったときの日銀頼み」が断続的に顔を出していることを踏まえれば、実際には、大胆な金融政策なくしてアベノミクスを語ることはできない。
2013年4月4日、「量的・質的金融緩和」導入を発表した黒田東彦・日銀総裁。物価安定目標を「2%」とした。
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2013年4月に始動した日銀の黒田(東彦)新体制は、白川(方明)前体制の「全否定」からスタートした。
黒田総裁は始動直後の初回会合で「ベースマネーを2年で2倍にして、消費者物価指数を前年比プラス2%にする」と掲げ、「量的・質的金融緩和(通称QQE)」と称した未曽有の金融緩和を導入。「わかりやすさ」を強調し、そうすることで人々の期待に働きかけ、物価を押し上げていくのだという趣旨がくり返された。
こうしたアプローチが「説明のわかりにくい白川前体制」へのアンチテーゼを企図していたことは明らかだった。国債を大量購入してベースマネーを拡大するという行為は、白川前体制と何ら変わっていないのに、黒田新体制の派手なコミュニケーション手法で円安・株高は勢いづいた。
金融市場の霧が晴れるタイミングで誕生した第二次政権
2012年12月26日、首相の座に返り咲いた安倍氏。折しも、欧米が金融・経済環境の長い混乱から抜け出ようとしていた。
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もっとも、アベノミクス以前の超円高や株安のすべてを当時の民主党政権や白川前体制の責任に帰するのはあまりに酷だ。
2012年10~12月期を境に、米連邦準備制度理事会(FRB)の金融政策は出口戦略が語られるようになっていたし、欧州債務危機も最悪期を抜け出ようとしていた。
もとより、欧米の経済・金融環境の混乱こそが「リスクオフの円買い」(=円高)を駆動する最大の要因だったのだから、第二次安倍政権はたまたま金融市場を覆っていた霧が晴れるタイミングで産声をあげたことになる。この点、安倍政権には「運」があった。
また、円相場を取り巻く需給環境も異なっていた。
リーマンショック後も日本の貿易収支は相応に大きな黒字を出し、2008~10年の3年合計では11兆円強の貿易黒字。輸出企業による円の買い切り(=外貨で得た収益を日本円に変えること、円高につながる)が発生しやすいファンダメンタルズだった。
それが、2011~13年の3年合計では21兆円弱の貿易赤字となり、第二次安倍政権成立前後から「円安になりやすい地合い」へ状況が変化していったことも差し引かねばならない。
また、リーマンショック後のアメリカはオバマ政権のもとで「輸出倍増計画」と銘打ち、「5年で輸出を倍にする」方針を明示していたことも忘れてはならない。5年で輸出を倍にする以上、アメリカの通貨政策は陰に陽に安値誘導が意識されるに決まっている。
ここで話を2012年10~12月期以降に戻そう。
2013年上半期にかけて、FRBが正常化プロセスを語り始める一方、日銀はゼロ金利据え置きが確定的だったから、放っておいても円安に向かう環境があった。
そんなわけで、白川前体制の円高も、黒田新体制の円安も、ドルを基軸通貨とする変動為替相場においては、なかば「宿命」だったというのが筆者の基本認識だ。
もちろん、「講義のようだ」と揶揄された白川日銀のそれと比較して、黒田日銀の情報発信が市場の期待を着実にとらえていたのは間違いなく、それはレジームチェンジを印象づけるのに十分なものだった。
だが、そうした政策運営はあくまでもともとあった潮流を強める「追い風」であり、潮流そのものを生み出したわけではない点は見誤ってはならない。
潮目の変わった2015年
アベノミクス(厳密には黒田日銀の金融政策)で円安・株高に誘導できているかのように見えたのは、2015年半ばまでだった。
とりわけ、円相場の潮目が変わったタイミングとして、2015年6月10日という日付はよく知られている。
同日、衆議院の財務金融委員会に出席した日銀の黒田総裁は、「ここからさらに実質実効為替レートが円安に振れるということは、普通に考えればありそうにない」と述べたのだった。
この発言を契機に、円安・ドル高が本格的に終わりを迎えたとする指摘は多い【図表1】。
【図表1】円の実質実効為替相場。
出典:各種資料より筆者作成
実際の発言を見ると、黒田総裁は「聞かれたから答えただけ」という様相だったが(なお質問者は民主党の前原誠司衆院議員)、この発言直前につけた125.86円こそが、安倍首相在任中におけるドル/円相場の最高値だったのは紛れもない事実だ。
黒田総裁の発言通り、2015年6月、円の実質実効為替レートは長期平均対比で30%以上も割安な水準まで下落していた。理論的に、実質実効為替レートは平均に回帰すると言われているので、非常に大きな円高圧力が蓄積しているのではないかとの論説も、当時は散見された。
その後、2015年8月のチャイナショックをはさんで新興国を中心に世界経済が不安定化し、原油価格も1バレル30ドル割れまで急落。この原油安を主な背景として、インフレ期待が顕著に後退したとみられる。
2016年1月29日、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」導入を発表した日銀の黒田総裁。
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円相場も強含み地合い(=上昇傾向)にあるなか、2016年1月29日、日銀はそれまでの「量」一辺倒の路線から、いよいよ「金利」へ路線を転換する。すなわち、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」の導入だ。
ところが、この満を持した日銀の決定は、金融システムへの負荷を懸念する向きからリスクオフムードで迎えられ、直後にはかえって円高が進んだ。
もちろん、財政政策も金融政策も、それを「やらなかった場合」のシミュレーションはできない。「マイナス金利を導入したから円高になった」のではなく、「マイナス金利を導入したにもかかわらず円高になった」という擁護の声もあるだろう。
だが、このマイナス金利導入から8カ月後の9月21日、日銀は「総括的な検証」の結果として「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を導入している。これは、マイナス金利路線の追求に不安があったことの裏返しと言わざるをえない。
これにより、10年金利の目標をゼロ%付近とするイールドカーブコントロール(YCC)が導入され、いまふり返ってみれば、これを機に日銀は「表舞台から消える」ことに成功したように思う。
アベノミクスの「地味な偉業」
1973年の変動為替相場制移行後、日本経済は良くも悪くも円相場の動きに一喜一憂してきた。
歴史的に日銀が追加緩和に追い込まれるのは、ほとんどが「円高・株安が進んでいるとき」だった。
日本社会は為替への執着がきわめて強いので、それに沿って政府や日銀の政策対応が決定されるのは必然だ。「為替との戦い」こそ日本経済の歴史であるという評論も、あながち誇張ではない。
そのような社会の特質を思えば、YCC導入以降、円相場や円金利の変動が抑制され、日銀の存在感が薄れ、「表舞台から消える」ことに成功し、少なくとも第二次安倍政権後期においては「為替との戦い」に終止符が打たれたことは、実は同政権の「地味な偉業」だったのではないかと筆者は考えている。
もちろん、そうした偉業をYCC導入の成果とするならそれまでだが、一方では「量も金利もカードを使い果たした日銀」に対し、海外投資家が抱いた諦観と表現できるかもしれない。
手が尽きた日銀を前に、当初はアベノミクスに入れ込んでいた海外投資家たちが有望テーマから日本を外すようになり、東京外為市場の取引量も細り、今日の動かない円相場に至った……そんな見方もできるだろう。
YCCはカードを使い果たした日銀の苦肉の策であり、前向きな政策意図から生まれたものではなかった。しかし、それが結果的には「カードを使い果たして表舞台から消える」という意思表示として機能し、円相場が穏当な動きになることを助けた面はあったように感じられる。
こうした経緯を踏まえると、「金融政策の無効性(=金融政策だけで物価や景気が改善することはない)」を世に示したことが、アベノミクスによる「大胆な金融緩和」の最大の収穫だったように思える。
政局の不安定化でもない限り注目されない日本経済
安倍首相の辞意表明会見をバックにセルフィーを撮る外国人たち。日本経済が世界で注目されるシーンは減っている。
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筆者自身の経験によれば、2012年末から2015年末までは海外投資家の前で日本の経済・金融情勢を解説する機会にたびたび直面したが、それ以降は目に見えて関心が薄らいだように感じていた。
しかし、安倍首相の体調不安説が報じられるようになった2020年8月以降、来たるべき政権交代の影響について、いくつか分岐したシナリオの提示を求められる機会がにわかに増えた。
日本が金融市場でテーマになるのはもはや、「政権交代によって大幅なレジームチェンジが訪れる」といった思惑が浮上するタイミングしかないのだろうか。
「金融政策の無効性」を実証したという「地味な偉業」に目を向けつつ、日本経済は不安定化する政局によってしか注目されない存在になってしまったのかと思うと、やや寂しさを覚える。
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。
唐鎌大輔(からかま・だいすけ):慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)でチーフマーケット・エコノミストを務める。