Wellcome Collection. Attribution 4.0 International (CC BY 4.0)
前回の記事では、長崎大学の山本太郎教授とともに、ウイルスや細菌といった感染症を引き起こす存在の「正体」にまつわる人類の進歩の歴史を振り返りました。
19世紀末、ドイツの細菌学者、ロベルト・コッホが感染症の原因となる「病原体」の正体を「細菌」だと明らかにしたことは、現代の感染症対策を形作る大きな節目となりました。
感染症の原因を特定できたことで「それを取り除けば治療できるかもしれない」という、治療の糸口が見つかったのです。
その後、病原体としてウイルスの存在も明らかにされると、感染症の研究は、原因となる細菌やウイルスの研究と、免疫システムの研究などが複雑に絡み合いながら進んでいくことになりました。
そしてそれらは、感染症に対抗するために欠かすことのできない技術の発見につながっていきます。
とりわけ、「ワクチン」と「抗生物質」は、感染症に対する「守り」と「攻め」の役割を担う存在として、人類にとって最も重要な発見だったといえるでしょう。
この2つの発見には、とくに5人の科学者が重要な役割を果たしたといわれています。
18世紀に誕生していた「予防接種」という概念
自然の天然痘(Smallpox)は、既に地上から根絶されていると考えられていますが、天然痘のウイルスを人工的に合成することは技術的に可能だといわれています。そのため、テロリストが生物兵器として天然痘を用いる可能性がないとは否定できません。アメリカCDCでは、現在でもアメリカの全人口をカバーできる量のワクチンを保有しています。
REUTERS/Brendan McDermid
ワクチンの源流は、18世紀後半、感染症の原因が細菌やウイルスであることが知られていなかった時代にまでさかのぼります。
当時、ヨーロッパでは広く天然痘が流行しており、イギリスだけでも5000万人近い人が亡くなったといわれています。
そんな中、イギリスの酪農地帯で普段からウシに接し、牛痘(ウシの天然痘のようなもの)への感染歴がある人は、天然痘に感染しにくいという話に注目した1人の医師がいました。エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)です。
ジェンナーはこの事実に着目し、当時8歳だった少年(使用人の息子だといわれている)に、牛痘に感染した人からとった「水泡(水ぶくれ)」を少しずつ投与します。そして、しばらく経過してから実際に「天然痘」を接種させる、という今では考えられないような実験を行ったのです。
ジェンナーがワクチン接種を行ったイメージを描いた油絵。アーネスト・ボードによって描かれました。
出典:Wellcome Collection. Attribution 4.0 International (CC BY 4.0)
牛痘に感染した人が、本当に天然痘に対する免疫を持つというのであれば、少年は無事なはずです。
結果、この少年は天然痘に感染することはなかったといいます。こうして、牛痘を接種することで、天然痘を予防できることが証明されたのです。
この方法は「種痘」と呼ばれ、天然痘を予防する手法として世界に広がっていきました。
そして、ジェンナーの実験から約200年の時が流れた1980年。
ついに私たち人類は、天然痘を地上から根絶することに成功します。人類がはじめて、感染症に勝利した瞬間でした。
※なお現在、自然界には天然痘ウイルスは存在しないとされていますが、アメリカとロシアの研究施設にウイルスが保存されています。
ワクチンの確立・進化
1947年、ニューヨークで天然痘ワクチンの無料・集団予防接種が行われたときの様子。
FPG / スタッフ
本格的にワクチンの開発が進んだのは、ジェンナーの実験からしばらく経ち、感染症の原因が細菌であることが明らかにされた19世紀後半からでした。
そこで活躍したのが、コッホとともに当時の微生物学を牽引した存在として知られている、フランス人の微生物学者、ルイ・パスツール(Louis Pasteur)です。パスツールの名前は、フランスにある公衆衛生の研究所である「パスツール研究所」として、今もなお残されています。
パスツールは、コッホが炭疽病の病原体として炭疽菌を発見した翌年の1877年、弱毒化した病原体(細菌やウイルス)を動物に接種させることで、免疫を獲得できることを見出しました。
フランス、パリにあるパスツール研究所の入口前には、パスツールの彫刻が設置されている。
REUTERS/Charles Platiau
その後、動物を使って研究を進めたパスツールは1885年、「狂犬病」の治療を求めてパスツールのもとへやってきた少年に対して、弱毒化させた狂犬病ワクチンを使用。その効果が確認されたことで、ワクチンの開発に成功したとされています。
以降、現在までに、さまざまな病原体を原因とする感染症のワクチンが開発され、多くの人々の命を救うことになりました。
なお、ウイルスや細菌を弱毒化させて接種するワクチンは、現代でも依然として利用されています。
また、分子生物学の発展によって、最近では、免疫をつける上で必要な病原体の遺伝子を利用したワクチンなど、新しい技術の開発も進められています。
抗生物質という革命
青カビが、感染症に対するまさかの救世主となった。
Viviana Delidaki
ワクチンが感染を防ぐ「守り」の役割を持っているとすれば、「抗生物質」は「攻め」の役割を担う存在といえるかもしれません。
抗生物質とは、微生物が生み出している、ほかの微生物の成長を邪魔するさまざまな成分の総称です(抗菌薬とも呼ばれる)。
抗生物質の発見は、感染症の患者を治療する医師たちにとって、まさに革命的でした。
人類初の抗生物質は、青カビから得られる「ペニシリン」です。
ペニシリンは、1928年にイギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming)によって発見されました。フレミングは、培養実験中に青カビの周辺でブドウ球菌が育たないことを見つけると、「青カビから菌の成長を阻害する物質が出ているのでは?」という仮説を立て、見事検証したのです。
そして、青カビの学名「Penicillium」から、その成分を「ペニシリン」と名付けたといいます。
「死の病」から「治せる病」へ
ロンドン科学博物館には、ペニシリンの発見につながった青カビの株のサンプルが展示されているそうです。
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ただし、フレミングはペニシリンを精製することができず、また、当時はその価値の大きさに気がつくことはなかったといわれています。
そのため、ペニシリンの発見から、実際に精製されて薬として使用されるまでに、10年以上の歳月がかかりました。しかしペニシリンの精製がうまくいくと、細菌を由来とする感染症の治療に劇的な効果をあげました(ウイルスを原因とする感染症に対する効果はありません)。
感染症の原因が明らかになっても、体内で増殖した細菌などを退治する方法がなければ、結局治療といっても、目に見える症状を和らげるための対症療法しかできません。つまり、抗生物質の登場によって、人類は初めて、(細菌)感染症の原因を取り除くという、積極的な治療を実現できるようになったといえるのです。
1945年にペニシリンに関する一連の研究で、ノーベル生理学・医学賞を受賞した3人。左から、アレクサンダー・フレミング、エルンスト・ボリス・チェーン、ハワード・フローリー。
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ペニシリンの発見以来、さまざまな微生物から効果の異なる抗生物質が発見されました。
こうして、「ペスト」や「結核」など、それまで死の病とされていた多くの感染症が、続々と治療可能な病気へと変わっていきました。また、戦争においても、負傷後に細菌感染症で死亡する人の数が劇的に改善したといいます。
なお、ペニシリンを発見したフレミング、そして、精製に成功したエルンスト・ボリス・チェーン(Ernst Boris Chain)とハワード・フローリー(Howard Florey)ら3人には、1945年にノーベル生理学・医学賞が授与されました。
微生物との付き合い方が変わりつつある
ヨーグルトの中に含まれている乳酸菌などは、よく「善玉菌」などと呼ばれる、常在菌一種だ。
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感染症の原因が明らかになってから150年程度の間に、科学技術は大きく進歩し、感染症を取り巻く状況は変わってきました。
それでも「原因を特定して、排除する」という基本的な方針だけは、一貫していたといいます。
しかし、前回の記事の最後に山本教授が
「今、感染症に対する考え方は一つの転換期にあるといえます」
と話したように、最近、ある考え方が注目されつつあるようです。
感染症は、細菌やウイルスなどが外部から体内に侵入することで発症するものです。
一方で、私たちの体にも、膨大な数の細菌が害を及ぼさずに潜んでいることが知られるようになりました。こういった存在のことを「常在菌」といいます。
常在菌の存在は、微生物が発見された17世紀から知られていました。
しかし当時は、酸素がほとんどない大腸などの中に生息している細菌(酸素を必要としない嫌気性細菌が主)をうまく培養する手法がなく、研究が限られていました。
20世紀になり、個別に培養する手法が確立されると、常在菌の研究が進むようになりました。
さらに20世紀末から21世紀にかけて遺伝子解析技術が発展すると、個別に分離・培養しなくても、体内や皮膚表面に潜む細菌の全体像を判別できるようになりました。
現代に近づくにつれて、こうして常在菌に関する研究の土壌が整ってきたのです。
山本教授は、
「この10年、20年で、体内に常在している微生物が抗生物質の過剰な使用や、食の近代化などで撹乱されると、いろいろな病気が起こりうるということが分かってきました」
と話します。
「微生物=悪」という考え方からの脱却
人のマイクロバイオームは成長と共に構築されていきます。
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細菌に限らず、寄生虫やウイルスなどを含めた人の体に潜む微生物の集合を「マイクロバイオーム」といいます。
私たちはこれまで、外部から侵入してくる細菌やウイルスに対抗することを考えて、感染症の対策を進めてきました。しかし今度は、(抗生物質の過剰使用などで)体内に存在するはずだった微生物が失われることで、病気になりやすくなる可能性があることが分かってきました。
そこで近年、「悪い微生物をやっつける」という方向から、「良い(必要な)細菌を失わない」という考え方に、研究者たちの注目が集まっています。
マイクロバイオームが、実際にどこまで人体に影響を及ぼすものなのか、今まさに研究が進められているところです。その中では、肥満や糖尿病、アレルギー、潰瘍性大腸炎などが、マイクロバイオームの変化によって引き起こされる可能性が示唆されつつあります。
また、体の免疫システムも、マイクロバイオームの影響を受ける可能性があるといいます。
免疫システムの変化は、感染症への防御にも直結する問題です。
山本教授は、
「細菌であれ、ウイルスであれ、完全に淘汰することで、ある意味体内の生態系のようなものがおかしくなってしまうのかもしれません」
と話します。
19世紀末、細菌が感染症の原因であることが明らかにされたことをきっかけに、私たちには「微生物=悪」という考えが刷り込まれてきました。
だからこそこれまで、「原因を見つけて、それを排除する」という、感染対策の基本を貫いてきたわけです。
しかし今、その考え方が大きく変わろうとしています。
私たちの体の内部に眠る「小さな生態系」を維持することで、病気を治したり、病気になりにくくしたりする。
感染症をはじめとしたさまざまな病気との付き合い方に、新しい時代が訪れようとしているのかもしれません。(つづく)
※この続きは、10月2日に更新予定です。
(文・三ツ村崇志、連載ロゴデザイン・星野美緒)