コロナ感染を乗り越えて政務に復帰したジョンソン英首相。「合意なき離脱」シナリオ回避を期待する声は多いが、果たして……。
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金融市場の注目は、トランプ大統領の新型コロナウイルス感染も相まって、大統領選挙を1カ月後に控えたアメリカの政治情勢に注がれている。
一方、欧州に目をやれば、欧州連合(EU)とイギリスの2021年以降の「新たな関係」を規定する協議が、すでに全行程を終えたにもかかわらず、いまだに合意点を見出せていない現状がある。
金融市場はこの状況を「いつものこと」と受け止めているように感じられるが、これから起ころうとしていることは決して軽視できるものではない。
イギリスのEU離脱(ブレグジット)の現状と展望について、Q&A方式で論点を整理しておきたい。
【Q1】ここまでの経緯を簡単にまとめると?
9月28日、ベルギー・ブリュッセルで行われた欧州委員会とイギリスの「新しい関係」をめぐる交渉。
John Thys/Pool via REUTERS
イギリスは2020年1月31日付でEUを離脱したが、激変緩和措置として12月31日までの移行期間が設定されている。
移行期間中のイギリスは関税同盟かつ単一市場の一員として残留するので、貿易に関税はかからず、人の移動も自由。EUが第三国と締結している自由貿易協定(FTA)もイギリスに適用される。したがって、移行期間中はイギリスおよびEUの市民が離脱を実感することはほとんどない。
2021年1月1日からは名実ともにEU離脱となるが、それまでに用意しておくべき「新たな関係」のあり方はまだ定まっていない。
「新たな関係」構築のための協議は、3月の第1ラウンドから10月の第9ラウンドまで予定スケジュールを終えたが、合意そして発効への道筋はまだ見えない。
10月15~16日に開催されるEU首脳会議までに合意可能というのがジョンソン英首相の“青写真”だったが、多くの関係者が予想したように、複数の、しかも小さくない対立点が残されている。
このままでは「12月31日をもって合意なき離脱」という最悪シナリオへと向かう可能性もあり、回避に向けてイギリスとEUの双方が試行錯誤せねばならない段階に入っている。
最悪シナリオをたどった場合、2021年1月1日以降のイギリスとEUは、たがいに一切特別扱いをすることなく、世界貿易機関(WTO)のルールだけに則った関係になる。
関税同盟と単一市場という緊密な関係からの落差はとてつもなく大きく、コロナショックで疲弊する実体経済にとどめを刺す可能性がきわめて高い。
【Q2】移行期間の延長はできないのか?
ブリュッセルの欧州委員会本部前。欧州旗がはためく。移行期間中のイギリスはまだEUの一員としてふるまう必要がある。
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本来ならば延長は可能だった。6月30日までにイギリスがその意思を表明すれば、EUとの合同委員会で協議した上で延長することができたが、ジョンソン政権は6月の早い段階でそれを拒否している。
移行期間は経済・金融面での(激変の)ショックを回避するための措置だが、その代償として(離脱したにもかかわらず)EUの一員としてふるまうことが求められる。EU規制に従い、EU予算も拠出する必要がある。
現在のイギリスが「名ばかり離脱(BRINO:Brexit In Name Only)」と揶揄されるのはそのためだ。
ジョンソン首相は就任以前から「離脱強硬派」として鳴らし、就任後の総選挙(2019年12月)もその姿勢で勝利した以上、自ら移行期間の延長を要請するのは政治家としての矜持(きょうじ)に障る面があったことは間違いない。
こうした経緯を踏まえると、イギリスがEU側に懇願する形で年単位の延長が実現することはないと考えられる。
仮にこのあと協議が円滑に進んで「新たな関係」について合意できた場合でも、残された時間がほとんどないため、合意内容を規定する協定が発効するまでの準備期間として、多少の移行期間(とは呼ばない可能性が高いが)を設けることはあり得る。
【Q3】今後の予定は?
EUの首席交渉官、ミシェル・バルニエ(中央)。交渉の予定されていたスケジュールは終わったが、11月以降も継続協議となる可能性が高い。
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欧州委員会は10月3日公表の声明文で、次のように述べている。
「イギリスおよびEUは将来の戦略的関係の基礎として、合意に到達することの重要性について一致した」
「漁業、公平な競争条件、ガバナンスの分野において著しい溝が残されている。これを埋めるために、ジョンソン首相およびフォンデアライエン委員長はそれぞれの首席交渉官に集中的に協議するように指示し、定期的に意見交換することで合意した」
これを読むとイギリスとEUの対立色は薄まったように感じられるが、要するに「これまで何も決められなかったので頑張ります」といった話に過ぎない。ジョンソン首相は相変わらずであり、首脳会議で決裂すれば「合意なき離脱」でかまわないというスタンスだ。
しかし、ロックダウンが再検討される現在のイギリスの感染状況を踏まえれば、意図的な瀬戸際戦術だとしても、「合意なき離脱」をちらつかせている場合ではない。市民の不安をいたずらに煽ることは許されない局面であり、事実、ジョンソン政権の支持率は大幅下落している。
ジョンソン首相がいくら強がっても、10月15~16日のタイミングで協議が打ち切られることはなく、少なくとも10月いっぱい、真っ当に考えれば11月以降も継続されるのではないか。
【Q4】最大の対立点は?
ロンドンの金融街。イギリスとEUは、完全離脱後の企業の「競争条件の公平化」をめぐってまだ合意に至っていない。
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現在、最大の対立点とされているのは、国家から企業に対する補助金にまつわる論点。前出の声明文にも言及がある「競争条件の公平化」の議論がそれだ。
EUには「国家救済規則」というのがある。国家からの補助(金)が、域内における公正な競争に歪みをもたらすのを防ぐための規制であり、全産業を対象としている。
この規則のもとで、EU加盟国では、政府が企業救済を行う際に微細な条件が設定されており、救済を承認する最終的な権限は(加盟国それぞれではなく)欧州委員会に委ねられている。
EUは「新たな関係」においても、この国家救済規則をイギリスに遵守させたいと考えていて、それが自由貿易協定(FTA)合意の前提条件になると主張している。EUからすれば当然の発想だ。
EUを離脱したイギリスが、FTAを締結する一方で自国企業を自由に救済できるとしたら、政府の補助を受けたイギリス企業は強い価格競争力を発揮し、FTAによって担保される低い関税のもとで、EU向けの輸出を増やす展開が予見される。
ただ、この国家救済規則についてはEUの独自色が強く、離脱後のイギリスに押しつけるのは若干無理筋にも思える。しかし、いまのところEUが譲歩を見せる様子はない。
また、対立点はほかにもある。
やはり前出の声明文で言及されている通り、当初から大きな争点になると言われていた「漁業権の割り当て」問題も解決していない。
漁業権問題に関しては、2020年2月の筆者寄稿をご参照いただきたい。
直近の報道によれば、イギリスは現行の漁業権割り当てを3年間継続した上、その間に新しい割り当てのあり方を協議するという妥協案を示したようだが、EU側は了承していないようだ。
【Q5】「EUがイギリスを訴追」との報道、何を意味する?
北アイルランド第2の都市、ロンドンデリーに立てられた「(ハードだろうがソフトだろうが)国境はいらない」の看板。
REUTERS/Phil Noble
9月9日、イギリス下院に提出された「国内市場法案」が物議を醸している。
イギリス国内でも、中央政府と地方政府の権限範囲をめぐる議論に発展しており、「大英帝国の分裂」といった穏やかならぬ懸念も浮上している。本稿では、イギリス国外への影響、具体的には同法案の「EU離脱協定を一部反故(ほご)にする」側面に触れておきたい。
イギリスとEUが離脱協定案について交渉を行い、合意に至る最後の段階まで争点となったのが「アイルランド問題」だった。
端的に言えば、北アイルランドが「イギリスとの一体性」を重視して、イギリスとともにEUから完全に切り離された場合、EU加盟国であるアイルランドとも完全に分断されてしまう。そこで、アイルランドと北アイルランドの国境に物理的国境(いわゆるハードボーダー)をいかに設置しないで済ますか、というのがアイルランド問題の核心だった。
この問題は「ハードボーダー回避」「イギリスの一体的離脱」「完全な離脱(=関税同盟からも単一市場からも抜ける)」のすべてを同時に実現することはできないという意味で「ブレグジット・トリレンマ」として知られ、離脱協定がなかなかまとまらない元凶だった。
いま問題視されているイギリスの「国内市場法案」は、離脱協定でようやく折り合いをつけたはずのアイルランド問題に関する条項を、イギリスの一存で変更できるとするものだ。
この離脱協定への露骨な違反を受け、EUは10月1日にイギリスへの告知書送付を決断し、1カ月以内にしかるべき対応をとらない限り、欧州司法裁判所に提訴するとの意思を表明した。
離脱協定の合意に至る「最後の砦」としてあれほど苦労させられたアイルランド問題なのに、イギリスはなぜこうもあっさり反故にしようとするのか、筆者にも理由はよくわからない。
支持率低迷を受けたジョンソン首相の反EUアピールなのかもしれないし、もとから遵守するつもりはなく直前で覆す算段だったのかもしれない。どちらもあり得るが、どちらも確証はない。
イギリス側の本意がどうであれ、EUにとってはとり合う気も失せるほどの愚行に過ぎない。「新たな関係」を継続して協議していく上でこの問題には「いまさら感」があり、協議の頓挫につながるほどの話ではないように思える。
【Q6】これから一番あり得る展開は?
1月31日のEU離脱がもはや懐かしくもある。年内に「新しい関係」の合意にたどりつけるか。
REUTERS/Henry Nicholls
事態は混迷を極めているが、これから起きるシナリオは3通りしかない。
(1)年内に「新たな関係」で合意する
(2)移行期間を延長して協議継続する
(3)「合意なき離脱」で腹をくくる
(3)はもちろん最悪のシナリオだが、コロナショックで実体経済が疲弊するなか、この選択肢を選ぶほど当局者は愚かではあるまい(と信じることにする)。
長いこと欧州をウォッチしてきた筆者の経験から言えば、実際には「(1)と(2)を足して2で割る」といったシナリオが選ばれる可能性が高い。
早期合意のもと、現状からの変化幅を極小化するのが、イギリスとEUの双方にとって最善の道であることは間違いない。その意味では(1)がメインシナリオだ。
あまり注目されることはないが、「新たな関係」は経済関係のパートナーシップだけではなく、安全保障のパートナーシップや各種制度の枠組みも調整が必要になる。その意味では「FTAプラスアルファ」の交渉が必要だ。
しかし、おそらくプラスアルファの部分まで含めて議論を続け、年内に合意にたどり着き、年明けに発効まで持ち込むのは時間的に難しいだろう。
そう考えたとき、EUが交渉・合意・発効に持ち込む権限があるのは、経済関係のパートナーシップだけであることがポイントになる。それ以外の部分は各加盟国に権限があるため、各国議会の批准手続きが必要とされ、それをやっていては時間を食う。
まずは(経済関係を規定する)FTAとしての合意を目指し、それ以外の部分については継続審議とする手もある。
ただし、FTAとて本来は年単位で交渉が行われるものであり、年内に合意できたとしたら異例のスピードと言っていい。しかも、拙速に合意すれば、2021年以降に詰めの甘さが露呈するおそれもある。先述の「国内市場法案」をめぐる騒ぎを見る限り、そうした懸念は消えない。
そんなわけで、FTA合意を先行させるシナリオも、2021年1月1日から発効というのは時間的に十分とは言えない。「(1)と(2)を足して2で割る」というシナリオに言及したのは、FTAで合意しつつ、発効は2021年3月あるいは6月と、一定の準備期間をおく整理にするのではないかという意味だ。
重要な経済関係の交渉がまとまった上での多少の期間延長であれば、双方とも納得感が持てるだろう。
それにしても、関税同盟と単一市場の一員だった時代に比べれば、ヒト・モノ・カネ・サービスの流れは当然悪くなる。そんな2021年こそ、人々が実感できる「ブレグジット元年」になるのではないか。
(文・唐鎌大輔)
※寄稿は個人的見解であり、所属組織とは無関係です。
唐鎌大輔(からかま・だいすけ):慶應義塾大学卒業後、日本貿易振興機構、日本経済研究センターを経て欧州委員会経済金融総局に出向。2008年10月からみずほコーポレート銀行(現・みずほ銀行)でチーフマーケット・エコノミストを務める。