取材に応じる、AGCの宮地CFO。「極端な話、技術は買える」と言いつつも、戦略の基本は抱えている人材の技術力にあると話す。
撮影:今村拓馬
世界最大手のガラスメーカーのAGC(旧:旭硝子)。
2020年、コロナ禍でも、6月には米コロラド州にあるアストラゼネカ社の医薬品原薬製造工場を買収。7月には遺伝子・細胞治療薬の開発を行うイタリアの製薬ベンチャー、モルメド(MolMed)社のTOBを買取総額約270億円で完了と、戦略事業の1つであるライフサイエンス(医薬品)事業に関する企業買収を次々と進め、医薬品業界での存在感が高まっている。
主力のガラス事業とは技術的に異なるライフサイエンス事業でも成長できる秘密は、「成長産業に、ニッチで高付加価値の素材を供給し、先行して市場の支配力を確保する」というAGC流の事業展開戦略にある。
AGCはこの戦略によって、これまでにさまざまな事業を世界的に展開してきた。
この戦略で鍵となるのが、ある程度の市場規模が見込めるニッチな素材を見つけ出す目利き力だ。
AGCはどのようにして、新たな鉱脈を見つけ出しているのか。副社長・CFOの宮地伸二氏に、同社の投資における考え方を尋ねた。
「何が求められているか」を分析し、技術をぶつける
半導体を製造するためのEUV露光技術に用いられるマスクブランクス。エレクトロニクス事業は、AGCの戦略事業の中でも最も堅調に伸びている。
提供:AGC
「例えば半導体であれば、どの時期にどれくらいのものが必要になりそうかというのはある程度読めます」(宮地氏)
半導体産業は、ロードマップが公開されており、関連する素材や部材ごとにどの時期に何が必要になりそうなのかもある程度決まっている。
一方で、ライフサイエンス(医薬品)、とりわけバイオ医薬品のようなものは全体の流れの中でどんな研究が結実しそうか、そう簡単に分かるものではない。
「将来の産業を見回して、その産業が求める素材としてこういったものが来るはずだ、ということは全て分析しています。あとはそれを実行できるか、そこに技術をどうぶつけるかということです」(宮地氏)
「技術」といっても、単に自分たちの手元にある技術をぶつけることを考えるわけではない。
「むしろ、まず見るべきは『世の中の流れ』です」
それを踏まえた上で、社会ニーズと自分たちの技術をどうぶつけられるか。さらに、自分たちが、今後どこを攻めていくことができそうなのかまで分析を行う。
その中で伸びてきたのが、ライフサイエンス事業をはじめとした戦略事業だという。
「高くても、次の時代のエントリーチケットを」
AGCが買収したアストラゼネカ社のコロラド工場。ここには、動物性細胞を大量培養する際に使えるステンレス製のバイオリアクターがある。
提供:AGC
では、ここ数年で存在感を発揮している、AGCのライフサイエンス事業の投資はどう行われているのか。
AGCのライフサイエンス事業は、製薬企業が開発した原薬の製造などを担う「受託製造・開発事業(CDMO)」という事業形態が中心だ。
宮地氏によると、ライフサイエンス事業における投資の判断基準は2点に絞られる。
1つは、ライフサイエンス事業の既存技術で製造できる売り上げを伸ばすための「キャパシティを確保するための投資」。しかも、それをリーズナブルな価格で手に入れることがポイントとなる。
近年、製薬会社は自社工場を手放すケースが増えている。そこに、手を挙げて、キャパシティを安く確保する流れが、加速している。6月のアストラゼネカの工場買収や、2019年に実施したスペインの工場の買収も、この観点からの投資だ。
撮影:今村拓馬
また、もう1つの基準は「新たな技術」の必要性だ。
「ライフサイエンス事業では、再生医療や遺伝子治療といった次の展開(社会のニーズ)が考えられるため、イタリアのモルメド社の買収に取り組みました。
将来に対する布石を打っておかないと、今の持ち駒(の技術)だけではどこかで成長がなくなっていきますので」(宮地氏)
既存技術の事業を拡大するためにキャパシティを確保しつつ、次の時代の基幹技術をしっかりと手中に収めておく。新たな技術がなければ、次の事業のエントリーチケットを手にすることはできない。
もちろん、全てのエントリーチケットが事業成功の「プラチナチケット」になるわけではない。
しかし、
「高くてもエントリーチケットは手に入れておきたいということで買収したのが、イタリアのモルメド社なんです」
と、宮地氏は語る。
「1兆円だって構わない」危機感から始まった戦略投資
2016年に、中長期的な成長のために、戦略的投資枠として3000億円の資金を用意した。
出典:「AGC2015年度中期経営計画進捗状況と長期戦略について」より
AGCでは、宮地氏がCFOになった後の2016年に、5年間で3000億円を戦略的投資として通常投資とは別枠で用意すると宣言している。
2016年頃からこれまで、矢継ぎ早に行ってきたライフサイエンス事業における買収例も、この流れの中で起きたことだ。
この背景にあるのは、安定していても事業規模が徐々に縮小しつつある状況に陥ってしまうのではないかという危機感だった。
ライフサイエンス事業の拠点。2016年頃から、次々に買収を進めてきた。
提供:AGC
宮地氏は
「実は、2010年に過去最高の業績を記録して以降、2011年から4期連続減益になりました。液晶用ガラスの収益性が急激に悪化したためです。
会社全体のマインドがネガティブになり『こんな案件を提案してもどうせ許可されない』という感じで、大きなM&A案件などがなかなか提案されなくなっていました。そこで、これは変えなければいけないと。そのために、『3000億円くらいは用意するから、面白い案を出してこい』というメッセージを出しました。『極端な話、良い案件なら別に1兆円だって構わないよ』とも言いました」
ライフサイエンス事業の転換点となったCMC Biologicsの買収案は、その中で出てきたものだという。
「当時は、3000億円程度なら財務の健全性を維持しながら用意できました。そういった打ち出し方をしたほうが、社外からも案件が持ち込まれやすくなると考えたんです。
今は、コロナの流行によって財務的に結構厳しい状況にあるため、思い切ったことをやれる限界はもちろんありますけれど」(宮地氏)
「リスクはチャンス」のバランス感覚
モビリティ事業では、車載ガラスアンテナなどの研究を行っている。戦略事業の中で、まだ存在感は薄いが、車のライフスパンを考えると、2025年以降に伸びてくることを想定しているという。
提供:AGC
ガラスや化成品、エレクトロニクスに医薬品。
多様な素材を取り扱うAGCだが、事業の拡大を考える上で、研究開発における投資も欠かせない。ただし、取り扱う素材が多様になり、技術的裾野が広くなった中で、研究開発にかける投資に優先順位をつけることはそう簡単ではない。
「研究開発費用は、だいたい500億円弱くらいあります。
それぞれの事業部の研究開発費に加えて、事業部と切り離して全社(コーポレート)としての研究開発費を一定の割合確保しています。事業部だけの研究開発では、長期的な研究開発テーマがやれなくなる可能性があるからです」(宮地氏)
全体の構造としては、各事業部ごとに必要な研究開発は事業部ごとに取り組み、中長期的な戦略として行いたい研究開発は全社(コーポレート)が担う。
ただし、中には事業部として取り組みたくても、リスクやコストが高く、なかなか手を出しにくいテーマもある。
「でも、そこにチャンスがあるわけです。だから、それを共同オーナーのような格好で事業部の研究をコーポレートがサポートする形で行っています」(宮地氏)
AGCの500億円弱というR&Dの金額は、売上高比だけで考えるとそれほど高いわけではない。
ただし、AGCの事業部の中で、研究開発費のいらない事業の割合もかなり大きい。そういうものを除いて考えると、R&Dの比率はそれなりに高いといえる。
「既存事業の枠の少し外」の技術の重要性
撮影:今村拓馬
AGCのこの研究投資の考え方は、人材採用にも関連する。最終的に、投資を行う研究テーマは、そこにいる人に依存するからだ。
「結局のところ、研究開発は人がいなければできません。人によって研究開発できる範囲や数が決まります」(宮地氏)
今後、研究開発を進めていこうとするなら、いかにその分野の研究ができる人を獲得していくか、あるいは、似たような分野を専門としながら、カバーしている範囲が異なる人材を抱えていけるかが鍵となる。
「戦略事業を攻める上では、現状の人材のケイパビリティだけではできない。だから、研究者のキャリア採用をたくさんしているわけです」
ガラス、化学、電子など現在の核をなしている事業の成長のためには、当然それぞれに特化した人材が必要だ。その一方で、会社としての中長期的な発展を考えるなら、「既存事業の枠の少し外」や「境界」の技術が重要となる。
「新しい戦略分野を伸ばすためには、どうしても必要なんです」(宮地氏)
これまでの数々の成功体験が、技術をベースに事業を広げていく戦略として、この手法の優位性を物語っている。
(聞き手・構成、三ツ村崇志)