菅首相は「解散」に踏み切るのか。戦後、任期満了による衆院選挙は1度しか無いが…。
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衆議院の任期満了まで、10月21日で残り1年となりました。菅義偉首相が「解散総選挙」にいつ打ってでるか、政権発足当初から注目されています。
衆院の解散は「伝家の宝刀」とも呼ばれ、好機を図れば多数の議席を獲得し政策の実行力となる反面、タイミングを誤れば政権へのダメージは必至。政権の座を追われることもあります。
戦後の日本国憲法の下では、任期満了による総選挙が行われたのは、たった一度だけです。そして、この時は自民党が結党以来初めて過半数を割り込む惨敗を喫しています。
一体、何があったのか。当時を振り返りつつ、2020年の現状を分析します。
解散できなかった首相、その名は「三木武夫」
1976年1月、日本外国特派員協会で会見する三木武夫氏。
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「日本国憲法下で、たった一度の任期満了総選挙」——。それは1976年12月、三木武夫内閣の下で実施されました。
三木はもともと田中角栄内閣の副首相でした。1974年12月、政治資金の調達をめぐる「金権政治」問題で田中が首相の座を追われると、その後任として自民党総裁、そして首相に就きました。
田中の後任には、正反対の「清廉(クリーン)」なイメージの三木が適当——。当時の椎名悦三郎副総裁が、「神に祈る気持ち」で考えたという裁定(いわゆる「椎名裁定」)によるものでした。
三木自身は戦前(1937年)に最年少で当選以来、衆院で議席を保持。「議会の子」という呼称でも知られ、保守の自民党内では「左」となるハト派の一人でした。
戦前、アメリカに留学した経験もあり、従来の自民党の政治家とは異なり、利権まみれではない民主政治を重んじる理想を持っていたと評されます。反面、自民党結党前は少数党を率いて政界を渡り歩いたり、策略に長けたことから「バルカン政治家」という異名もありました。
三木もまた派閥の領袖でした。ただ、その勢力は弱小。これは「派閥の論理」で動く自民党内では弱点となりました。
「改革」目指すも、自民党内から反発
陸上自衛隊を観閲する三木首相。
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「対話の政治」を重んじた三木は、政治資金規正法の改正など政治改革を目指しました。防衛費をGNP(国民総生産)の1%以内に抑える方針も三木内閣が閣議決定しています。
ところが、急速な改革には田中派や大平派など他の派閥が抵抗。党内の反発を生み、三木の目論見通りには進みませんでした。
政治学者の若月秀和・北海学園大学教授は、三木の議会運営の“拙さ”についてこう記しています。
「『議会の子』と呼ばれるほどの長い政治経歴を持つ三木であったが、その割には、首相としての政権運営には拙い面が目立った。三木の派閥メンバーも、政治的な根回し能力に長けた人材が乏しかった。
さりながら、従来の保守政治に飽き足らぬものを感じる三木が、本来自身の支持基盤たる自民党の嫌がる政策を追求するという根本的な矛盾が、三木政権下の絶えざる混乱の根本原因であった」
(若月秀和、2020、「第17講 田中角栄の時代」筒井清忠編『昭和史講義』【戦後編】[下] 、太字は編集部による)
1976年、日本は「ロッキード事件」に揺れた。
1973年、訪英時の田中角栄首相(右)。車に同乗するのは長女の田中眞紀子氏。眞紀子氏も後に自民党の政治家に。小泉内閣で外相などを歴任した後離党。民主党政権で文科相も務めた。
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だが、そんな三木首相にもチャンスが訪れます。1976年2月、戦後最大の政界疑獄「ロッキード事件」の発覚です。
「金権政治」への批判を是とする三木は、事件の真相究明に前向きでした。その脳裏には、田中角栄の顔が浮かんでいたことでしょう。
しかし、ロッキード事件の真相を追及しようとする三木の姿勢を嫌う党内からは、三木を辞任に追い込もうとする「三木おろし」の動きが加速します。
7月、ついに田中が収賄容疑で逮捕されます。首相経験者の逮捕は、日本社会に大きな衝撃を与えました。ところが自民党内では、政権の生みの親でもある椎名副総裁をはじめ「三木おろし」の動きが激しさを増していきます。
ロッキード事件は、三木の首相としてのパワーを強める反面、自民党内の反三木派の動きに拍車をかける構図を生みました。
福田赳夫や大平正芳など、他派閥の領袖からの退陣要求を受けつつも、三木は持ち前の「粘り腰」でこれに応戦。衆院の解散に持ち込むことで反転攻勢の機会を狙い続けます。
ところが、その思惑は外れました。三木内閣でも複数の閣僚が解散に反対したからです。
「55年体制」と呼ばれた当時の自民党政権下では、首相個人よりも党内の「派閥の論理」が強かった。解散に反対した閣僚もまた、各派閥の影響下にありました。
運命の「1976年12月5日」 選挙結果は“惨敗”
総選挙敗北の責任をとった三木。後任には福田赳夫(右)が選ばれた。「三角大福中」と呼ばれた自民党総裁候補、そして首相候補の一人だった。
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結局、三木は解散に反対した閣僚たちをクビ(罷免)にできず、はたまた解散に打って出ることもできず、衆院は任期満了を迎えます。
1976年12月5日、自民党は内紛を抱えたまま総選挙に突入。ロッキード事件の逆風もあり、獲得できたのは全511議席中249議席。結党以来、初めて過半数を下回る惨敗でした。
皮肉なことにロッキード事件で起訴・保釈中だった田中角栄は、地元新潟4区でトップ当選を飾ります。
結局、三木は敗北の責任をとるかたちで首相を辞任。後継には、三木と同じく田中角栄のライバルだった福田赳夫が選ばれました。
失意の三木でしたが、総理・総裁を退くにあたって、密室政治の打破へとつながる党改革を提起しました。全ての自民党員が参加できる首相公選制の導入などです。これは現在の総裁選における予備選の導入へと至ります。
これが現在まで戦後唯一、任期満了による衆院総選挙の顛末(てんまつ)です。
晩年、三木は超党派の国際軍縮促進議連の会長として軍縮問題に取り組むなど、政界・自民党の最長老として尊敬を集めました。1986年、脳内出血で病床の人となり、1988年11月、急性心不全で死去。
三木の死去を受けて、田中角栄は「あくなき政治の理想追求に打ち込まれた青年のごとき熱情に敬意を表す」と追悼しました。
それから約2か月後に昭和天皇が崩御。元号は「昭和」から「平成」へと改まりました。
早期解散はなくなった?「年内は見送り」報道も
安倍前首相の後継として総理・総裁となった菅首相。
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ひるがえって2020年の政界を見てみましょう。
安倍前首相の後継となった菅首相ですが、自民党総裁選では派閥出身ではないことをアピールしました。ところが、実際は二階派(47人)を始め、最大派閥の細田派(98人)・麻生派(54人)・竹下派(54人)・石原派(11人)の5派閥の支持を取り付けた、まさに「派閥の論理」で選ばれた面もあります。
9月の菅政権発足当初、永田町では「菅氏を担いだ派閥領袖は、支援のバーターとして早期解散を要求した」「10月25日投開票」などの説が出ていました。
ところが、日本学術会議の任命拒否問題などで混乱が生じ、「ハネムーン(政権発足当初の高支持率)を背景とした解散総選挙は難しくなったように思う」(与党関係者)という声も出ています。
毎日新聞は10月20日、「菅義偉首相は新型コロナウイルス対策を優先するため、年内の衆院解散は見送る方針だ」と伝えており、「早期解散はなさそう」という観測が強まっています。
年明けから政治日程が山積み。「解散」はあるのか、それとも……
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かといって、来年に解散タイミングがあるか……というと、年明け以降の政治日程は山積み。なかなか機会を図るのは難しそうです。
まず1月には通常国会が召集され、3月末には予算案が成立する見通し。6〜7月には連立与党の公明党が重視する都議会議員選挙が予定されています。
そして夏には東京五輪・パラリンピック(7月23日〜9月5日)も。この頃までに新型コロナ禍が収束しているのか、その行方も不透明です。
加えて、菅氏の自民党総裁としての任期問題もあります。
菅氏は、任期途中で辞任した安倍前首相の任期を引き継いでいます。党規約上、来年9月末には改めて自民党総裁選が開かれることになります。
こうしてみると、状況次第では菅政権がわずか1年の短命政権となる可能性もあるわけです。
菅氏自身は自民党総裁選に勝利した直後に「仕事がしたい」と述べるなど、早期解散を否定する発言もあります。
ただ、党内からは解散時期を逃した「追い込まれ解散」を警戒する声もある一方、コロナ禍の最中に「解散」を政局に用いるのは国民の理解を得られないのではないかと不安視する向きも。
むしろ、新型コロナ禍への対応こそ「“解散しない”大義」になるのでは……という分析もあります。当の菅氏自身も、新型コロナ禍への対応を重視すべきという姿勢を示しています。
解散があるにしろ、任期満了になるにしろ、1年以内に衆院総選挙は必ず実施されます。菅政権にとって初めてとなるであろう国政選挙は、どんな結果になるのでしょうか。
私たちとしては、投票用紙に向き合うその日まで、各政党の政策と政治家の“熱情”を見極めることが大切になりそうです。
<参考文献>
- 新川敏光、1995、「三木武夫―理念と世論による政治」渡邉昭夫編『戦後日本の宰相たち』(中央公論社)
- 若月秀和、2020、「第17講 田中角栄の時代」筒井清忠編『昭和史講義』【戦後編】[下] (ちくま新書)
- 北岡伸一、1995、『自民党——政権党の38年』(読売新聞社)
- 朝日新聞、1988年11月14日夕刊・東京本社版
(文・吉川慧)