撮影:今村拓馬、イラスト:Singleline/Shutterstock
今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。今回のテーマは「規制緩和」。日本の成長戦略に深く関わる重点課題ですが、安倍政権時代は十分な改革が進まなかった難題でもあります。規制緩和がなかなか進まない日本の現状を、入山先生はどう見ているのでしょうか?
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菅政権は規制改革を進められるか?
こんにちは、入山章栄です。
菅政権誕生から早くも1カ月強が経ちました。今回は菅政権が取り組もうとしている課題について考えてみたいと思います。
僕は、規制改革については、個人的に強い期待感と課題感を両方抱いています。
前回、安倍さんの7年8カ月という在任期間は決して長くはないという話をしましたが、僕が一国民として安倍政権をどう評価するかというと、おこがましいけれど点数でいえば65点ぐらいだったかなと思います。
安全保障では成果を出したと思うし、何よりあれだけ長く政権を続けられた安定感という意味で素晴らしかった。一方の経済の方は、良かった部分も大きいですが、残念だった部分も大きいという印象です。
みなさん覚えていますか。当時の安倍さんの打ち出した経済政策、いわゆるアベノミクスには「3本の矢」がありました。
1本目は日銀の黒田東彦総裁の名前にちなんだ、「黒田バズーカ」と呼ばれる大規模な金融緩和です。僕は経済学者ではないのでその賛否は専門的には議論できませんが、少なくともあの金融緩和によって日本中にマネーが流れ、それなりに株価も押し上げられた。いろいろな意見があると思いますが、僕は悪くなかったと思っています。
2本目の矢は政府がどんどんお金を出す、財政出動です。「財政が大赤字なのに、こんなことをしていいのか」という議論はあったものの、国のマクロ経済を刺激するという意味では効果があったかもしれません。
問題は3本目の、当時は「構造改革」と言っていた、いわゆる規制改革です。安倍さんは「これがアベノミクスの1丁目1番地だ」と言っていたはずですが、これに関しては十分に踏み込めなかった印象です。
とはいえ官僚の知人から聞いた話によると、内閣府に強い権限を持たせて、今までと比べると省庁横断的にいろいろな改革を進めたというのは事実のようです。しかし最後は、中途半端で終わってしまった印象です。そして、菅さんはこの改革を引き継いでいきたいと思っているわけですね。
僕は規制緩和に個人的には大賛成です。なぜならこれからの時代のビジネスは、イノベーションを起こす必要がある。それには新しいことをどんどんやらなければいけない。しかしそのとき最大の壁になるのが政府の規制だからです。
今、日本でもいろいろなベンチャーが出てきていますが、ベンチャーの多くが突き当たるのが規制の壁です。
オンライン診療が普及しない理由とは
例えば高齢化が著しい日本では、増大する医療費を抑制するためにも、医療制度を変えなければいけないことは明らかです。その点、電話やオンラインによる診療ができたら、高齢者が気軽に医師に相談できるかもしれないし、具合が悪いのに待合室で長時間待つ必要もなくなるし、医療費も抑制できるかもしれない。
ところが日本ではこれまで長らく、オンライン診療は原則禁止でした。なぜか。誤解を恐れず言うと、日本医師会がオンライン診療に反対してきたからです。もっと大胆に言うと、自分たちの持つ既得権益が崩れてしまうことを医師会が恐れたからではないかと、一般には言われている。
もちろん医師会にも言い分はあります。それは「限られた情報しか得られないオンライン診療は危険だ」というものです。それはそれで一理あるでしょう。
しかし、どんどん新しいデジタルテクノロジーが誕生し、それこそデジタル聴診器などもできているこのご時世に、かたくなに規制緩和を拒むだけでは、日本だけが医療のデジタル化に取り残される可能性が出てきます。
幸い、コロナ禍による緊急事態で一時的に規制緩和されたことがきっかけで、政府は10月9日にオンライン診療を原則解禁すると発表しました。一時はコロナが落ち着いたら再び禁止になるとも囁かれていたことを考えれば、今回は良い判断だったと思います。
ただ欲を言えば、日本はもっと規制を緩和して、役立つ技術を積極的に社会に活用していく必要があります。そうしないと日本の競争力はこの先さらに低下することになりかねない。
実際、いま世界的に「リープフロッグ(カエル跳び)現象」というものが起きています。
これは何かというと、新興国など規制がない国のほうが新しい技術を社会に実装しやすいので、結果的に先進国をカエルのように飛び越してしまうというものです。
例えばインドでは、いま「DocsApp(ドックスアップ)」というオンライン診療アプリがすごい勢いで普及しています。
インドで急成長中のオンライン診療アプリ「DocsApp」。
DocsAppのHPより
インドには13億人の人口がいて、しかもまだ貧しい地域が残されている国ですから、医師はデリーやバンガロールなどの大都市にしかおらず、地方には医師が1人もいない無医村も多い。しかしDocsAppがあれば、地方の無医村の人たちと、都会の医師をつなぐことができます。
さらにDocsAppが革新的なのは、普通なら医師が「今日はどうしました?」と尋ねる「問診」を、人間ではなくチャットボット、つまりAIが行うことです。実は医療行為の中で最もコスト(時間的な意味でも、金額換算的な意味でも)が高いのは、問診の部分と言われます。そのコストがかかる問診を全部AIに代行させる。
「AIが診察するなんて、大丈夫かな」と思うかもしれませんが、もともと医師が問診で聞くことはだいたい決まっています。
DocsAppでは患者が「私は体調が悪いです」というメッセージを送ると、AIが「体温を測ってください、何度ですか」「顔色はどうですか」「お腹は痛くないですか」「胸の動悸はどうですか」などと聞いてくるので、それに答えていくと疑われる病気が絞られていき、結果的にかなりの精度で正しい診断が下せる。
そしてAIが「あなたはおそらくこういう病気で、こういう処方箋が必要です」と診断を下したところで、ようやく医師が出てきて、AIの判断が正しいかどうかを確認する。医師が「これで正しいですよ」と画面をタップしたら、その瞬間、医師にお金がチャリンと払われるという仕組みです。
このように問診をAIが行うことで、医師は診療の時間を劇的に短縮できるので、短い時間で小遣い稼ぎができる。患者のほうもAIだけでは不安だけれど、最後の判断を生身の医師がしてくれるなら安心だし、もし何かあったときは医師の責任も問える。
何より、DocsAppは問診をAIにやらせるために、医師にかかる費用が劇的に下げられる。だから貧しい無医村の方も使える。この理由でDocsAppはいまインドですごい勢いで伸びているのです。
僕はインドのバンガロールでDocsAppの創業社長からこの話を聞き、ぜひこのアプリを日本に持ち帰りたいと思いました。日本でも過疎の村や、医師の足りないところは多いですから。
でも、日本では問診を絶対に医師がしなければいけないルールになっています。だからAIが問診を代行するなんてとんでもないし、少し前までは、オンライン診療も禁止で、診療はすべて対面でなければいけなかったのが現状です。
民主主義のジレンマ
医療制度だけでなく、日本には非常に規制が多い。教育もそうですし、交通インフラ関係もそうです。そういったものを可能な限り緩和することで、生活も便利になるし、経済も活性化していくのは間違いありません。
ただ一方で、規制緩和は一筋縄ではいかない問題でもあります。結局、安倍政権がアベノミクスの3本目の矢を完遂できなかった理由はおそらく、政権維持のためには既得権益層に気を使わざるをえなかったからでしょう。これが民主主義の難しいところです。
つまり規制緩和で得られる我々のメリットは、例えばオンライン診療ができたらちょっと便利になるな、ぐらいのことです。しかし規制が緩和されれば、既得権益層の一部の人々は職を失って食いっぱぐれるかもしれない。そうなれば必死で抵抗するわけです。これは悪い意味ではなく、人として当然のことでしょう。
つまり規制緩和をすると、我々全体が利益を得られるけれど、1人ひとりが得られる効果は薄い。一方、規制を崩されることで既得権益層は大きな痛手を被る。だから改革をさせないように圧力をかけることもある。これが、安倍政権でも規制緩和を十分に進められなかった理由のひとつだと理解しています。
僕は安倍さんのさまざまな政策は全体的に良かった部分も多いと思いますが、ただ一方で個人的な評価としては、「長期政権自体を目的にしてしまった」ところがあるようにも思います。そして長期政権を実現するには何が必要かというと、一言で言えば「敵をつくらないこと」です。
特定の団体や業界を潰すような行為に走ると、そこから反対が起こって、もしかしたら政権が危ぶまれるかもしれない。だから、なかなか規制改革というものができないのです。
撮影:今村拓馬
これが中国のように民主主義でない国ならばトップダウンでの大胆な規制緩和も可能ですが、日本は民主主義国家で、特に議院内閣制をとっているから、いつ首相がクビになるか分からない。まさに「民主主義のジレンマ」です。僕は民主主義が悪いと言っているのではありません。むしろ強く民主主義を信じています。でもだからこそ、このジレンマがある。
新しく首相になった菅さんは、周囲の評判を聞く限り、比較的空気を読まずにトップダウンで決めたことをやり抜くタイプのようです。なるべく既得権益層にいる方々の理解を得ながら、少しずつでいいから規制を緩めていってほしい。
ただしこれは、口で言うほど簡単なことではありません。今の日本が民主主義という仕組みをとっている以上、先のような根本的なジレンマがありますから、困難な仕事であるのは間違いない。
だからこそ僕は、前回も言ったように、メディアの役割が非常に大きいと思っています。民主主義は結局、最後は世論、民意です。そして民意に影響を与えるのはメディアです。メディアのみなさんには、ぜひ本当に日本や世界のためになる報道を期待したいものです。
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(構成:長山清子、撮影:今村拓馬、連載ロゴデザイン:星野美緒、編集:常盤亜由子、音声編集:イー・サムソン)
入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。