生命科学に革命をもたらしたゲノム編集の手法「クリスパーキャス9」の生みの親、エマニュエル・シャルパンティエ博士(左)と、ジェニファー・ダウドナ博士(右)。ゲノム編集は、いったい何がすごいのか?
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生物の遺伝子を自由自在に書き換える技術「ゲノム編集」。
ドイツ、マックスプランク研究所のエマニュエル・シャルパンティエ博士と、アメリカ、カリフォルニア大学のジェニファー・ダウドナ博士は、ゲノム編集の新たな手法を見出し、生命科学に革命的な影響を与えたとして、2020年のノーベル化学賞を受賞しました。
この2人の科学者が発見したのは、CRISPER/CAS9(クリスパー・キャスナイン)という、DNAサイズの「小さなハサミ」でした。
このハサミの登場は、生命科学の時計の針を大きく進めることになりました。
ゲノム編集の登場によって、生命科学の世界に何が起きているのでしょうか。そして、ゲノム編集の他にもすでに私たちの社会に広がりつつあるゲノムを応用した取り組みは、未来に何をもたらすのでしょうか?
日本遺伝学会会長、東京大学の小林武彦教授に聞きました。
品種改良とゲノム編集。何が違うの?
「リンゴ」と言っても、色や大きさ、味など品種によってさまざま。これは、品種改良の賜物です。
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「実はおいしいけれど、寒さに弱いリンゴの木」と、「実はおいしくないけれど寒さには強いリンゴの木」を交配すると、どうなるでしょうか。
うまくいけば、「おいしい実をつける寒さに強いリンゴの木」ができるかもしれないし、失敗すれば「実がまずく寒さにも弱いリンゴの木」ができるかもしれません。
リンゴのおいしさを決める遺伝子や、寒さへの耐性に関する遺伝子が次の世代のリンゴに遺伝するかどうかは運次第です。
親と子が、まったく同じ姿形にならないように、あらゆる生物は世代交代を繰り返すことで少しずつ遺伝子が変化していきます。この時、ある特徴を持つ個体同士を選り好みして交配させていくことを繰り返していけば、いずれその特徴が強く現れるようになります。
根気強くこの作業を繰り返し、新たな品種を作っていくことを「品種改良」といいます。
犬種の違いも、品種改良の賜物です。
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一方、ゲノム編集は、特定の遺伝子を簡単に機能しなくしたり、新たな遺伝子を導入して本来その生物が持ち得ない機能を与えたりできる技術です。
つまり、おいしいリンゴをつくるための遺伝子や、寒さへの強さを決める遺伝子が分かっていれば、わざわざ何世代にもわたって交配を繰り返す必要はありません。必要な遺伝子をピンポイントで都合の良いように「編集」することで、簡単に「おいしくて寒さに強いリンゴの木」をつくることができるのです。
また、小林教授は、
「おいしくないけど寒さに強いリンゴと、おいしいけれど寒さに弱いリンゴを掛け合わせて、おいしくて寒さに強いリンゴをつくれたとしても、それはもともとある性質同士の掛け合わせです。リンゴの特徴としてあり得る性質しか現れません。
しかし、ゲノム編集では、人為的な操作によって、自然に存在しない(その生物が本来は持たない)ものを無理やりつくることも可能です」
と話します。
ゲノム編集を使えば、極端な話、リンゴのDNAの中に、ミカンの遺伝子を入れることだってできるのです。
ゲノム編集を用いていても、自然に生じ得るものであれば区別することができないため、表示義務はありません。一方、消費者の中には、新技術に対して選択の余地を求めて表示を希望する声もあります。なお、この図でいう「遺伝子組み換え」は、その生物が本来持っていない遺伝子を、外部から導入する技術を指しています。
出典:消費者庁
国内では、肉厚なマダイや、害虫を寄せ付けない野菜、収穫量の多いイネなど、ゲノム編集を使った養殖技術や品種改良の研究が行われています。
こういった中には、自然に発生しうる性質をゲノム編集によって発現させている例もあれば、自然には起こり得ないような性質を獲得させている例もあります。
なお、このようなゲノム編集を用いた食品は、2019年10月1日から販売が許可されています。
厚生労働省によると、ゲノム編集を利用してつくられた食材でも、従来の品種改良と同じように自然に生じる遺伝子の変化しか起きていないものについては、安全性の審査を経ずに販売することが可能です(厚生労働省への届出は必要)。また、ゲノム編集を使っていることを表示する義務はありません。これは、科学的に品種改良との区別ができないためです。
一方、自然には起こり得ない、別の生物の遺伝子を取り込ませるようなゲノム編集を行った場合は、安全性の審査はもちろん、遺伝子を改変していることを表示する義務が生じます。
ゲノム編集の「ヒトへの応用」は未知数
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ゲノム編集は、食品の開発だけではなく、医療分野への貢献も注目されています。
例えば、筋肉の機能が徐々に衰えていく遺伝性の疾患「筋ジストロフィー」に対して、動物実験レベルではありますがゲノム編集を利用した治療方法が検討されています。
筋ジストロフィーの症状を持つ実験動物の細胞からiPS細胞をつくり、ゲノム編集を用いて原因となる遺伝子を正常に編集。このiPS細胞を筋肉へと変化させてから、体に移植することで機能が回復できるのではないかというのです。
また逆に、ゲノム編集でわざと異常を持つ細胞をつくることで、病気のメカニズムの研究や、薬の効果の検証実験も、以前に比べて行いやすくなりました。これも、ゲノム編集がもたらした大きなメリットだといえるでしょう。
ただし、ゲノム編集をヒトに対して使う試みは、慎重に考えなければならない問題です。
いくら「精度よくゲノムを編集できる」とはいえ、大なり小なり不確定な部分があるからです。
「ゲノム編集技術の発展は大きな進歩ですが、医療分野ではまだ難しい問題を抱えています。『オフ・ターゲット』といって、ゲノム編集を行ったときに、狙った領域以外の遺伝子を壊してしまう可能性があります。
そういった効果はゲノム編集では必ず起きているのですが、実験では目的の遺伝子を壊せて、ほかの重要な部分が大丈夫なら良しとされているんです。ただ、医療で使う場合は、そんないい加減というわけにはいきません」(小林教授)
加えて、前回の記事で紹介したように、人のDNAの中には、未だに機能がよく分かっていない領域も存在します。ゲノム編集を使って遺伝子を改変した結果、「人にとって実は重要だった遺伝子を破壊してしまった」となっては、取り返しがつきません。
体外受精、人工授精などをした後に、ゲノム編集を使って受精卵の遺伝子を「デザイン」することも現実的には可能です。ただし、そのリスクがどの程度あるのか、現状では判然としていません。
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現状の技術を使えば、ヒトの受精卵にゲノム編集を施すことで、遺伝子をデザインされた子ども「デザイナーベビー」をつくり出すことも可能です。とりわけ、受精卵にゲノム編集を施すことで、遺伝性疾患のリスクを取り除くことに対する一定の期待が高まっています。
しかし、ヒトの受精卵に手を加えることに対する倫理的な問題が十分に議論されていないことはもちろんのこと、仮に受精卵にゲノム編集を行ったとしても、それによってどんな影響が現れるのか、まだまだ分からないことが多いというのが実情です。
ヒトにゲノム編集を施したと発表した、中国・南方科技大学の賀准教授。賀教授はその後、中国政府から研究の停止を命じられ、2019年には懲役3年の実刑判決を受けました。
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2018年11月には、中国でゲノム編集を施された双子が誕生したことが発表されました。当時、中国内はもちろんのこと、世界中から非難の声が挙がりました。
その後、研究を主導した賀准教授らは中国政府から研究停止が命じられ、その後、3年の実刑判決を受けるに至りました。
ヨーロッパでは、ゲノム編集を施した受精卵を使った妊娠、出産を法律で禁止している国もあります。一方、日本では、日本学術会議やから政府に対して、受精卵にゲノム編集を施す行為に関する法整備が求められていますが、現時点で法規制はなく、厚生労働省からの指針で禁止されているだけの状況です。
分子サイズの「ハサミ」が生命科学にもたらした革命
ダウドナ博士らが開発したゲノム編集の手法では、CAS9というタンパク質を用います。実は、CASタンパク質には、CAS12などのほかのタンパク質も存在します。
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品種改良や医療など、実社会での活用例がイメージしやすいゲノム編集ですが、ダウドナ博士らがノーベル賞を受賞した理由の一つに、生命科学への多大な貢献が挙げられます。
実は、ダウドナ博士らがノーベル賞を受賞するきっかけとなった「クリスパーキャス9」という手法を提案する以前から、ゲノム編集自体は、別の物質(ZFNやTALENと呼ばれるタンパク質)を使うことで実現されていました。
しかし、DNAサイズのハサミの取り扱いは非常に難しい上、コストもそれなりにかかっていました。
ダウドナ博士らが見出したクリスパーキャス9は、それまでに知られていたゲノム編集の手法に比べて、はるかに簡単かつ低コストで、精度良く遺伝子を改変できる技術だったのです。
そのため、クリスパーキャス9の手法に関する論文が2012年に公開されると、当時はまだ知る人ぞ知る技術だったゲノム編集が、あっという間に生命科学の研究者たちの間に普及していきました。
生命科学の時計の針を進めた「ゲノム編集」
染色体はDNAが密になることでその姿を形作っています。また、DNAは、その構造の内側で、アデニンとチミン、グアニンとシトシンという塩基が必ずペアになっています。この塩基の配列が遺伝情報の正体でした。
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では、ゲノム編集は生命科学にどんな貢献を果たしてきたのでしょうか。
「ゲノム編集の何がすごいかというと、DNA上の狙った構造を壊すことができるところです。
今までは、(特定の種類の生物を調べる時に)たまたま得られた特徴や遺伝子(※塩基の配列)を見比べて、どの遺伝子がどんな機能を持っているのかを1つずつ調べていました」(小林教授)
※遺伝情報は、DNA上に存在する、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という4種類の塩基の並び方によって決まります。DNA上では、アデニンはチミン、グアニンはシトシンと必ずペアになっています(前編参照)。
例えば、ゲノム編集が登場する前に、ある生物の特徴に関係する遺伝子を調べようと思うと、まずはその生物をたくさん集めて、調べたい特徴を持っている個体と持たない個体の遺伝子の違いを見つけ出す必要がありました。
ゲノム編集の導入によって、実験に最適な実験動物を簡単に用意することができるようにもなりました。
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ただし、私たち人間1人ひとりがそうであるように、同じ種類の生物でも遺伝子はいくつも異なります。ある特徴の原因となる遺伝子を見つけ出すには、多数の個体の遺伝子をしらみつぶしに調査して、共通している遺伝子を見出さなければなりません。
これは非常に労力のかかる作業です。
しかし、ゲノム編集を使えば、機能が分からない遺伝子でも塩基配列さえ分かっていれば、狙って破壊することができます。つまり、遺伝子を破壊する前後の比較をすることで、機能が分からなかった遺伝子の機能を、簡単に調べることができるようになったのです。
これは、遺伝子の研究を進める上で、革命的でした。
また、前回の記事で、人のゲノムでは、約98.5%がタンパク質をつくらない「非コード領域」であることを紹介しました。小林教授は、この「機能がよく分かっていない非コード領域の研究」において、ゲノム編集が非常に重要であると話します。
「例えば、全然意味が分からない(非コード領域の)配列をごっそり取ってしまうこともできます。そうすれば、何か(違い)が得られるかも知れません。遺伝子ではない部分(非コード領域)について、この手法を用いて解析が行われ始めています」(小林教授)
現代はゲノム時代
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ゲノムに関する技術は、ゲノム編集以外にも近年よく耳にするようになりました。
自分自身の遺伝子を解析する「遺伝子検査」は、すでに国内でもいくつもの企業がサービスとして提供しています。また、妊娠中に胎児の遺伝子を調べる「出生前診断」も、議論の末に実施されるようになりました。2019年からは、がん遺伝子パネル検査といったがんの検査手法も一部が保険適用が始まっています。
ヒトゲノムの解読から約20年しか経過していないとはいえ、遺伝子やゲノムについて理解が進むことで、できることは確実に増えています。
ゲノムに関する技術が社会に実装されていく過渡期。
そして、このスピードは、ゲノム編集によってさらに遺伝子に関する理解が深まることで、より一層加速していくことになるでしょう。
(文・三ツ村崇志、編集協力・笹谷由佳)