電通を知ったのは、秋田県立能代高校3年のときだ。
同校のある能代市は伝統的にバスケットボールが盛んな地域だ。クドウナオヤ(31)も中高の6年間はバスケットボール部でポジションはポイントガード。部活のかたわら成績は学年トップで医学部を目指していた。臓器や血を見るのが苦手で小児科医か耳鼻科医になりたいと思っていたが、受験直前になって、医学部では小児科や耳鼻科志望でも解剖の実習が避けられないとわかり、方向転換を決めた。
では何をしたいかと考えたとき、子どもの頃から好きだったテレビやテレビCMに関わりたいと思いついた。労働のための仕事ではなく、楽しいことをして報酬が得られる仕事がいい。そしてクドウは電通と博報堂という会社があることをネットで調べ、電通を目指そう!と決心した。
クドウは国立大学の受験先を東京大学の理系に絞った。当時は広告クリエイターというと文系のイメージが強く、まず東大の理系に入学してから文系の学部に転部しようと考えたが、前期試験で東大の合格ラインまで点数が伸びず、断念。
後期を受験する際に、デザイン系の学科のある千葉大学工学部デザイン学科と九州大学芸術工学部を探し当てた。二次試験ではデッサンなど実技があり、美大の受験準備をしていなかったクドウには不利だった。だがもともと美術は得意だったため、無事に突破。2008年、千葉大学工学部デザイン学科に入学した。
その後、大学4年で電通から内定を得たクドウは、高3のときからの憧れを叶えたことになる。
独自で学んだデザイン、総合職として入社
クドウが卒業した千葉大学工学部デザイン学科はトヨタなどの大手自動車メーカー・デザイン部門への就職が強いことで知られるが、広告代理店との相性は必ずしもいい訳ではなかったという。
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ところが、当時「総合職」と「アート職」の2つある電通の採用試験では、デザイン学科出身にもかかわらず、クドウは「総合職」で受験している。
それは工学部デザイン学科の方向性と関わりがある。卒業生の多くがトヨタをはじめ自動車メーカーのデザイン部門に就職するような、工業デザインを中心に教える学科だったのだ。グラフィックデザインやヴィジュアルアートなど、広告のクリエーティブに関わるデザインを学びたかったクドウは、大学の授業に出るかたわら、やむなく映像編集やプログラミングなどを独学した。
卒業制作は「障子」をモチーフにした映像のインスタレーションだ。繊細な光の動きと障子の柔らかさ、独特のストーリー展開は、高い完成度の作品となり、専門メディアで取り上げられた。
だが、アート職に応募するのは、多摩美術大学や武蔵野美術大学などの美大で広告デザインのクリエーティブを学んだ学生が多い。
そこで、「総合職」枠で入社して、クリエーティブ職に配属されることを目指した。同期140人のうち、総合職で入社したのは130人。クリエーティブ職は特に人気だったが、1年目からクリエーティブ職に配属された人はごくわずかだった。
ネット広告を担当するも、「後から考えるとプラスだった」
当時を振り返るクドウの声は、あくまでも明るい。
電通は1901年、日清戦争に従軍していた1人の記者が、現地から国内への正確なニュース報道の必要性に着目し、新聞社にニュースを提供する通信社を発案したことが始まりだ。通信と合わせて新聞社に広告を売ろうと、広告業を起業した。
そうした創業の背景も影響してか、昭和の頃までは新聞広告に重きが置かれた歴史がある。ネット広告を取り扱うダイレクト・マーケティング・ビジネス局は、クドウが入社した2012年、存在が確立されていたとは言いがたい。
思い描いたものとは様相の異なる幕開けだったが、「後から考えるとプラスだったと思えた」とクドウは振り返る。ネット広告に関して経験が少ないという点では先輩も新人も横一線にあるなか、制作から営業まで、ネット広告の制作の現場を知ることができたからだ。
そこではいわゆる「コピーライティング」の位置づけは、従来の広告のコピーとは異なるものだった。
例えば、選び抜いた一つのコピーを使って、ポスター、テレビCM、新聞広告など、メディアを組み合わせて広告キャンペーンを展開するのが従来の広告の手法だとすると、インターネット広告では、1つの商品についてあらかじめ100本ほどコピーを用意し、流していく。どのバナー広告が購買につながったか、データと連動して効果のあるコピーがふるいにかけられていくという仕組みだ。
それは、インターネットメディアの特性に合わせてコピーや広告に求められる役割が変化する分岐点の体験となった。クリエーティブ志望のクドウに上司はコピーの制作を許し、この時期、クドウはコピーライティングから営業まで経験している。
なお、4大広告媒体(新聞、雑誌、テレビ、ラジオ)の広告売上高の減少傾向が進むのと反比例するように、2019年にはネット広告の売り上げは日本の総広告費の3割を占めるまでに成長した。
隙間時間や終業後に取り組んだコンペ挑戦
クドウは隙間時間や終業後に、応募のための作品づくりにいそしんだという(写真はイメージです)。
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ダイレクト・マーケティング・ビジネス局に配属された後、クリエーティブ局の局長に異動の希望を直訴したところ、「1年目で若手の広告賞をとるくらいの実績を出さないとダメだ」と言われた。
そこでクドウはインターネット広告の業務のかたわら、隙間時間や終業後に若手のクリエイターの登竜門とされる懸賞の応募の準備をした。クリエーティブ局に配属された同期は業務時間に仕事として同じコンペの準備をすることが許されている。条件の不平等の悔しさが踏ん張らせた。
カンヌ広告賞の若手国内コンペで2位、朝日新聞主催の朝日広告賞で入賞など、ある程度の結果を出し、クリエーティブの部署への異動がかなったのは2年目の終わりだった。
総合職で入社した130人のうち、クリエーティブ職を希望する同期は数多くいた。だが実際、クリエーティブ職に異動した人はクドウの他に1人か2人だという。他の人たちが異動しなかったのは、配属先で慣れない仕事を覚える日々の慌しさに加えて、それなりに適性を見つけられたからではないかと、クドウは推察した。
クドウがクリエーティブ職に就くまでを振り返ってみると、望んだ方角からズレ落ちそうになるその都度、誰かに頼るというよりは自力で修正をかけている。
大学受験の直前に医者から広告のクリエイターへと志望を変えたことがきっかけで、受験大学を急遽変更した上に第一志望には落ちている。進学した大学では希望していたものとは異なる領域のデザインを学ぶ場所と知り、独学する羽目になった。入社試験こそ突破したものの、配属先はおよそ希望からは程遠かった。
なぜ、クドウはクリエーティブ職への憧れが摩耗しなかったのだろう。
(敬称略・第3回に続く)
(文・三宅玲子、写真・伊藤圭、撮影協力・伊勢丹新宿店本館2階=TOKYOクローゼット)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜14年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」運営。