ここ数年、電通を発端に社会問題となった出来事が続いた。逆風の中で、それでも電通に所属していないとできない仕事があるとクドウナオヤ(31)はいう。しかし、社会の電通に対する視線が厳しくなったことで、クリエーティブの現場では表現に影響はなかったのだろうか。
—— 電通に対する視線が厳しくなりました。そのことでクリエーティブの表現に影響を受けた点はありますか?
「何か強い表現をしようとしたときに、そのことによって嫌な気持ちになる人がいないだろうかと、いろんなリスクを考えるように視点は変わったような気がします」
—— それは良いことですか?
「良いことだと思います。これまでにも表現する側のリテラシーの問題として、自分が気づかなかったために、あるいは、知らなかったために使った表現が、センシティブな問題を含んでいて誰かを傷つけてしまったというような、無知ゆえの失敗は起こり得ます。
インパクトのある魅力的な表現のために選んだ手段が、一方で誰かを傷つけてしまうことも起こりかねないということをわきまえれば、もっと日頃から勉強しておかないといけないことがあると気づく。現在の会社に対する風向きになってから、このことについてより考えるようになりました」
—— 広告という仕事への若い人たちの関心が以前よりは下がっています。
「僕は広告に憧れてこの業界に入りましたし、若い人たちに憧れられる仕事でありたいという気持ちはあります。そのためには、電通という会社に属しながらも、ひとりひとりが黒子ではなく、バイネームでの市場価値を高め、責任を持ちながらいい仕事をしていくことが大事だと思います」
メジャーな表現にこそ、生い立ちが活きた
クドウには忘れられない失敗の思い出がある。
クリエーティブ局に異動して初めて自分が関わったと言える仕事ができたときのことだ。嬉しくてSNSで紹介した内容に関して、クライアントから問題があると指摘を受け、謝りに行くことになった。2015年当時はまだ社員が個人SNSで業務に関する発信をすることは禁じられていた。また、SNSの影響力が今ほどには浸透していなかった時期だった。
クドウが忘れられないのは、失敗したことよりも、そのとき上司にかけられた言葉だ。上司はこれから先、SNSは必ず重要になってくるだろうから、当面はクライアントにその都度了解をとってでも、その姿勢は続けるようにとクドウに話したという。クドウの発信の拙さはあったとしても、頭ごなしにダメだというのではなく、SNSを活用する意味を理解し、認めた上司に今も感謝している。
以前はクリエーティブの先端表現に挑みたいという気持ちが強かったが、最近は、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんでもわかるような、わかりやすくてメジャーで面白い表現こそが、世の中に向けた広告のど真ん中の戦い方だなと思うようになった。
電通にいるからできる仕事をと考えると、一見すると、時代の流れに逆行しているように見えるかもしれないが、テレビCMや新聞広告など、「大ナタ」なメディアを使って一石を投じるような表現に挑みたいと、クドウは話した。
昨年からはふるさと秋田や家族をテーマにした表現が大きな注目を集めた。
「ここはなんてつまらない地元なんだ」と思って東京に出てきたクドウが、“シルテツ”や父の退職を労う新聞広告をつくったことで、自身の表現のオリジナリティの根源に、あれだけ好きでなかった田舎や仲よくもなかった家族があることに気づかされた。そこにはクドウにも驚きがある。
クドウは電通で働く面白さを一言で言うならば、とこう表現した。
「アイデアの仕事だからだと思います。僕らはクライアントから国家プロジェクトまで、アイデアを提供することが仕事になる。それはとても面白いです」
本心かどうか、自分でもわからないときがある
取材の終わりがけにクドウがよく行くというゴールデン街で撮影し、“シルテツ”の作品展が行われている伊勢丹新宿店本館まで戻りながら話した。
コンプレックスは表現のエネルギーとなると言われているが、地方の小さな町の出身であることも、公務員一家の真面目な家風を打ち破ろうともがいたこともネタにしてしまったクドウは、どこまでしたたかで、どこまで天真爛漫なのか、境界が見えにくい。
思いがけない言葉が聞かれたのは、別れ際。いったい屈折感ってあるんですか?と聞いたときのことだ。
すごくあります、と即答したクドウが、続けてこんな言葉を漏らした。
「相手がしっかりと思いやりのある言葉を返してくれていても、それが本心で言っていることなのかどうかわからないと思ってしまうことがあるんです」
それで、どうするんですか?
尋ねると、クドウはこう続けた。
「そう考えてみると、僕も、自分が本心で言っているのか、今相手がそういう言葉を求めているから正解と思って言っているのか、わからないときがあります」
相手から出たやさしい言葉でさえ本意をつい勘ぐってしまうクドウは、同時に自分の発する言葉が相手の期待に応えてのものなのか、自分の心からの思いなのか、わからなくなる。そこに自身の屈折を見るというのである。
それが「大人の期待に応えるイヤラシイ子ども時代」の後遺症なのか、それとも、広告という虚像とリアル、仕事とプライベートの境目なく、おもしろいことや楽しいことを追求する日々で身についた思考回路なのかはわからない。
「ゆらりゆらり、揺れるのが人生」と言ったのは絵本作家の五味太郎だ。ゆらゆら揺れる思いを屈折と表現してみせるクドウの言葉もまた、電通社員と個人のクリエイターのあわいに立つクドウナオヤらしいことのように思えた。
(敬称略・完)
(文・三宅玲子、写真・伊藤圭、撮影協力・伊勢丹新宿店本館2階=TOKYOクローゼット)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜14年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」運営。