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妻が重い産後うつに…社長が“6時間勤務”で家庭を優先した時、ベンチャー企業で起きたこと

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産後うつに苦しむ母親は少なくない。

撮影:今村拓馬

「がんがん前を走り続けないと行けない時期のことでした。トップとして休んだり、時短で働いたりするのはあり得ないと思っていました

こう話すのはフィンテックベンチャーFinatext(フィナテキスト)ホールディングス(HD)の林良太CEO。2019年に第1子を授かった林さんだったが、直後から妻が重い産後うつを発症し、そのサポートは約9カ月間に及んだ。

林さんはこれまでの昼夜問わない働き方を捨て、昼から午後6時頃までの時短勤務の道を選んだ。

冗談を飛ばしながら快活に話す姿が印象的な林さん。語学が堪能で、東大卒業後にドイツ銀行に就職。ヨーロッパの国々で証券のセールスを担当するなど豊富な経験を持つ。

2013年に起業したFinatext(のちにFinatext HD)は、クレディセゾンや大和証券など大手金融を取引先に、フィンテックベンチャーとして頭角を現した。東大卒の経済学博士や、スイス金融大手UBSの投資部門担当者らが役員を務める、実力派集団だ。

2018年にはKDDIなどから60億円という巨額の資金を調達。これまでにグループ累計では90億円を調達し、事業拡大を進めている。

そんな勢いあるベンチャー企業で、トップが自ら家族のために時短勤務を選んだとき、企業はどうなったのか?

明るい性格「うつとは無縁と思っていた」

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Finatextホールディングスの林良太CEO(中央)。約9カ月間、妻の産後うつをサポートした。

撮影:横山耕太郎

林さん夫妻に長男が誕生したのは、2019年6月のこと。出産当時35歳だった妻は、出産後は九州の実家に帰り、新生児の世話をしていたが、異変はすぐに訪れた。

妻から電話で、「ここ数日、一睡もできていない」と打ち明けられたという。

「最初はホルモンバランスの変化によるものだと思っていました。しかし、その後『めちゃくちゃ眠たいのに眠れない』という日が、1週間以上続いた。妻から表情がなくなり、泣くことさえできない状態になってしまいました

出産から約2週間後、心療内科を受診。診断の結果は「産後うつ」。林さんにとってまったく予想していない病気だった。

「もともと妻は活発で、海外留学の経験もある明るい性格。うつ病とはまったく無縁の性格だと思っていましたので驚きました」

頑張ってもどうしようもない病気

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産後うつでは不眠だけでなく、呼吸困難などさまざまな症状に苦しんだという(写真はイメージです)。

Shutterstock

うつ病の治療のために服薬を始めたが、なかなか状況は好転しなかった。

食べ物の味を感じなかったり、動悸(どうき)が続いたり、パニック状態になって呼吸困難になったりと、次々に症状が襲った。

「産後うつの治療は、向精神薬や抗うつ剤、睡眠薬などの薬を服用するのですが、それぞれいろいろな種類があり、どれが効くか分からないし、薬が効くか分かるまでは時間もかかる。

僕が勝負している仕事の世界は、頑張れば結果出せる世界。頑張っても結果が出せない病気の辛さをいっそう感じました。妻にとっては、1日が1年にも感じられる時間だったと思います」

当時東京で暮らしていた林さんは、金曜の夕方から九州に向かい、週末は妻と子どもと過ごし、月曜の朝一番の飛行機で東京に帰る生活をおくっていた。

なかなか症状が安定しなかったこともあり、出産後約1カ月半後には、東京で親子3人での生活を始めた。

「妻の回復を第一に考え、夜の子どもの面倒は僕の母に協力してもらいました。僕は妻が寝つくまで付き添いますが、妻はあまり眠れないので朝の3時、4時には起きてしまいます。僕も一緒に起きて朝ごはんを作って、一緒に散歩して、それから子どもの面倒を見る。

子どもが生まれる前には、8時間は眠るようにしていたのですが、この頃は4時間ぐらいでした

薬の効果が少し出てきたものの、目の前に子どもがいるのに、十分に面倒を見ることができないことから、自分で自分を責めてしまう妻の姿は痛々しかったという。

「なるべく会食は控えていましたが、どうしても行かなくてはいけないときもありました。僕の親に妻と子どもを見てもらっていたときに、電話がかかってきて『妻が呼吸困難になった』と聞いて、すぐに帰ったこともあります

ぎりぎりの睡眠時間で仕事をこなす生活は「まさに地獄だった」という。

産後うつについて調べると、数カ月で回復する人も、中には何十年も続くことがあると書いてありました。この先どうなるのか、当時はまったく考えられませんでした」

トップの重圧「休むとは言えなかった」

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2020年8月、新たな保険サービスを発表した記者会見での林良太CEO。

撮影:横山耕太郎

妻と子どもと3人で生活を始めてから、林さんは時短勤務に切り替えた。昼頃に出社し、6時過ぎには家に帰る生活をしていたが、事情を説明するのは一部の社員に限定していた。

「これまで最前線で走ってきたので、休むとは言えませんでした。一番強い人間が、会社のトップになるべきだと思ってずっとやってきたので。成長の大事な時期にトップがいなくなるなんて、もし自分が部下だったら『あり得ない』と感じるだろうと」

林さんはこれまで、金融マンとして、経営者として、走り続けてきた人生だった。

英語、中国語、上海語、日本語を流暢に話す林さんは、ドイツ銀行に就職後は、ロンドンを拠点に、機関投資家向けの株式のセールス担当として欧州全域を飛び回った。

2013年には日本のヘッジファンドに転職。そこでのちの共同設立者と出会い、主力サービス「あすかぶ!」の原型を開発、2014年には本格的に個人向け金融サービス事業を開始した。

2018年にはKDDI、ジャフコ、未来創生ファンドなどから60億円を調達。「あすかぶ!」を含む投資教育系アプリのユーザー数は累計200万ダウンロードを超えている。

まさにこれから、というタイミング。それでも、林さんは時短勤務で家族を支えながら働く道を選んだ。

「妻を愛しているので、妻を支えるのは当然だと思っています。それでも自分が戦線に立てなくなることで、社員に与える影響を考えると不安でたまらなかった」

「妻の産後うつ」社員に打ち明ける

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林さんは家で妻のサポートをを行っていることを、なかなか言い出せなかったという。

撮影:今村拓馬

社員に説明しないまま、時短勤務を始めてから約1カ月。きちんと説明することを進言したのは、Finatext HD CFOの伊藤祐一郎さんだった。伊藤さんはこう語る。

「社員には『林はリモートワークをしている』とぼやかしながらやってきたのですが、林にいつ連絡すれば迷惑にならないのか分からず、相談ができないまま意思決定が延び延びになってしまうことが何度かありました。これではよくない。

我々のようなベンチャーが成長するには、迅速なコミュニケーションと、スピーディーな意思決定は欠かせません。だからこそ、午前中と夜は仕事をしない、その代わり昼は全力で仕事をすると、はっきり決めてくれたほうがいいと思いました」

林さんは全社員が集まる月1回の集会の場で、家族の現状を打ち明けた。

妻が産後うつになり、今はどうしてもサポートが必要だと説明しました。あと、仕事できない分の役員報酬を減額することも伝えました。僕なりにけじめをつけたいとの思いが強かった」(林さん)

社員が感じた覚悟

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林CEOの不在により、最初は周囲も不安を感じたという(写真はイメージです)。

GettyImages

「社員と仲がいい林が、みんなの前で辛そうに話す様子を見て、林の覚悟を感じた人も多かったと思います」

Finatextグループでデータ分析を手がけるナウキャストで、CEOを務める辻中仁士さんはそう話す。

これまでは林さんと並んで営業を行うことが多かったため、実際は「めちゃめちゃ不安でした」と振り返る。

ナウキャストの顧客の8割は海外ですが、英語での交渉に関しては、林は圧倒的に経験値がありました。不安とは言え、やるしかないし、一番苦しんでいるのは林です。

林からは『この期間で俺もレベルアップするから』と言われて、1日数時間しか眠れていないのに、トップとしての思いを感じました」

林さんも、育児の合間の勉強は欠かさなかった。約300社の決算書を分析したり、月5冊以上は本を読んでまとめたりと、インプットに時間を使ったという。

産後うつの経験、ビジネスにも生きる

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林さんに社員への説明をすすめたFinatext HD CFOの伊藤さん(右)と、ナウキャストCEOの辻中さん(左)。

撮影:横山耕太郎

「制約がポジティブに働いた面も大きいと思っています。これまでは誰よりも打率のいい4番バッターであろうとしていましたが、監督になった感じですね。結果的には、辻中も一人で営業していたし、経営への問題はなかった

そう、林さんは振り返る。

また会社にとってもいい前例になったと、前出のCFO伊藤さんは言う。

「実際に小さい子どもを育てているメンバーも多く、林の働き方を見て、自由な時間に働く社員も増えました。早めに家に帰ると宣言して、子どもを風呂に入れた後でもう一度、家で仕事をする働き方もできると、林自身が示してくれた

林さんの経験は、ビジネスにもつながった。2020年8月に販売を開始した母子に特化した「母子保険はぐ」は、妊娠から出産後まで、それぞれの時期に応じた保障を受けられる商品。

産後うつも保険の対象に含まれる点も特徴で、林さんの体験からサービス内容に組み込まれたという。

「Finatextグループではこの保険を福利厚生に導入しています。育児と仕事が両立できる環境を整えたいと思っています」(伊藤さん)

日本の男性育休、取得はわずか7%

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男性の育休取得は低迷している。

撮影:今村拓馬

日本では男性の育児参画が遅れており、2019年度の男性育休の取得率は約7.48%にとどまっている。

父親のサポートが手薄な上、コロナ禍による移動や面会の制限で、出産後の母親はさらに孤立しがちになり、産後うつのリスクが高まっているとの指摘もある。

日本で男性育休が広がらない背景には、新入社員の8割が育休取得を希望しているとのデータ(日本生産性本部)がある一方で、「上司が育休をとっていない」「言い出せる空気ではない」という声もあがる。

林さんのケースを見ると、過重労働になりがちなベンチャー企業、重責を担う立場であっても、家族のサポートをしながら仕事をすることは不可能でないことがわかる。

林さんのように家庭を優先する働き方を体現したことは、「育休を取りたいけれど、会社に言い出せない」という、日本の課題への大事な解決方法と言える。

林さんは当時を振り返り、こう語る。

妻から『生きているのが辛い』という言葉が出ることもあり、妻も僕ももう一歩のところまで追い込まれていました。何とか切り抜けることができたのは、家族はもちろん、社員の理解を得られた結果だと思います

産後うつのリスクは、決して他人ごとではない。柔軟な働き方を認める組織であることは、プライベートと仕事の危機を救うことに直結する。低迷する男性育休だが、その価値を本気で考える時期に来ている。

(文・横山耕太郎

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