日本特有の、多様で柔軟なキャリア選択を難しくする特殊な要因とは。
撮影:今村拓馬
「ゆくゆくは転職したいけど、職場の人に相談するわけにもいかないし、頼りにできる社外の話し相手もいないんです」
仕事にも将来のキャリアにも真摯な若手女性に、キャリアの悩みを聞いたことがあります。予想外だったのは、悩みがキャリアそのものというより、これからの仕事や人生について相談できる人がいない、そんな場もないという「キャリアの孤立」にかかわる問題だったことです。
コロナ禍によって、働き方も組織と個人の関係性も変化しつつある今、これからのキャリア選択に悩む人が増えています。ですが、日本には、多様で柔軟なキャリア選択を難しくする特殊な要因があります。
30年たっても実現していないこととは……
バブル経済が崩壊して以降、働く個人がキャリアの主導権をにぎり、選択する「キャリアの自立」の必要性が叫ばれてきました。
そして今、その声はますます大きくなっています。デジタルトランスフォーメーション(DX)の流れやコロナ禍の影響を受けて、企業は業務プロセスの見直しや事業戦略の転換を急いでいます。
事業で必要とされる知識も大きく変化していくため、個人がこれからの人生や仕事に向き合い、新たなスキル形成やキャリア転換に踏み出す必要が高まっているというのです。
ですが、この指摘には落とし穴があります。
すでに述べたように、キャリアの自立の必要性については長く指摘がされてきましたが、リクルートワークス研究所「全国就業実態パネル調査(2020)」の最新データによれば、25〜64歳の就業者のうち、仕事に関わる自己啓発を行っている人は約3割と、自発的に学び備える人は多くありません。
キャリアの展望が開けている人も15%と少数派です。ただ「キャリアの自立」を叫ぶだけでは、その実現は難しいことは明らかです。
キャリアの孤立が、自立を妨げる
日本では働く人のキャリア選択を支える環境が整っておらず、多くの人が「キャリアの孤立」に陥っている。
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なぜキャリアの自立は進まないのでしょうか。その一因に、日本では働く人のキャリア選択を支える環境が整っておらず、多くの人が「キャリアの孤立」に陥っていることがあると考えています。
このように書くと、違和感がある人もいるかもしれません。日本ではいまだに、企業が個人の生活やキャリアを支えてくれるという考えが色濃く残っているからです。
たしかにこれまで、企業が提供する安定した雇用や賃金、企業主導で職種や勤務地が決まる人事慣行は、働く人の生活とキャリアを支えてきました。
キャリアの語源は、ラテン語で車輪のついた乗り物が通った後(わだち)を意味する「carrus」から来たと言われますが、そのメインルートは1つの組織でできるだけ長く働き、その組織で求められる知識と経験を積み、昇進していくことでした。
しかし今、このような状況は大きく崩れています。人材の流動化が進み、就業者の約7割は過去に転職を経験しています。
経団連が日本型雇用の見直しを主張したように、企業側も従業員の生涯の生活やキャリアに対する責任を手ばなそうとしています。
こうした状況にもかかわらず、企業の外で個人のキャリアを支える仕組みは十分とは言えません。
例えば、経済協力開発機構(OECD)の統計で、失業時の生活やキャリアチェンジを支える公的な支援(失業手当や公的職業訓練・公的職業紹介などの再就職支援)の規模をGDPに対する比率でみると、OECD加盟国の平均は1.1%であるのに対し、日本は0.3%と約3分の1の水準にあります。
キャリアの支え合いも不足している
今の居場所を超えて、次の一歩を後押ししてもらえるような関係性を持つ人が少ない。
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自助努力と公的支援の間にあるキャリアの支え合い、すなわち共助も不足しています。私が所属するリクルートワークス研究所では、多様なキャリア選択を支える社会のカタチを考える研究プロジェクトに取り組んでいます。
このプロジェクトが2020年9月に行った調査によれば、家族や会社を除いて、人生やキャリアについていつでも相談できる人や組織・団体との関わりがある人は2割程度、キャリアの新たな挑戦を後押ししてくれる人や組織・団体との関わりがある人は1割程度にとどまりました。
今の居場所を超えて、次の一歩を後押ししてもらえるような関係性を持つ人は、本当に少ないのです。
不安になるほど、しがみつかざるを得ない
政治学者のヤシャ・モンクは、経済学や心理学の知見に基づいて、人が自分への責任を果たせるのは、自分の力である程度は自分の未来を作りあげられると思えるからだと言います。
自分で未来を切り開けると思えなければ、人は今あるものにしがみついてしまう。だからこそ、個人の選択を自己責任に追いやるのではなく、選択に対する周囲からの支えが大事だというのです。
残念なことに今の日本では、未来を自分で動かせると思えている人は多くありません。下の図表は、世界価値観調査より「これからの人生に選択の自由とコントロールがある」と考える人の割合を見たものです。これによると日本は44%と、ほかの国と比べてひときわ低い傾向にあります。
つまり、自分のこれからの人生やキャリアを主体的に選択する「キャリアの自立」以前に、自分で未来を動かすことはできないと諦めている問題があるのです。
世界価値観調査では、「これからの人生に対して、どれくらい選択の自由とコントロールがあると思いますか」という質問に、「1.まったくない」から「10.非常にある」まで10段階で回答する項目がある。自由とコントロール
出所:World Values Survey Data analysisを基に作成(データは世界価値観調査WAVE7のもの)
失業時の所得保障と再就職支援が5倍
働くことへの公的な支援が大きい国でも小さい国でも、個人のキャリアは自己責任(自助)か公的支援(公助)かの二者択一ではなく、職業や地域での支えあいがある。
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日本以外の状況を見ると、キャリアの孤立は決して当たり前ではありません。例えば、雇用が流動的なスウェーデンでは、失業時の所得保障や再就職支援の規模はGDP比で1.6%と日本の5倍の規模です。
しかしそれだけではなく、労使の合意に基づいて設立された職域別の非営利組織があり、失業中の所得補てんや再就職までの伴走を行っています。
また、オランダでは労働条件を維持しながら働く時間を変更できる制度、キャリアチェンジに失敗しても路頭に迷わずにすむセーフティネットや公営住宅があり、人々の多様な選択を支えています。
それに加えて、人々が地域の人や学生時代からの知人と生き方を頻繁に参照しあい、自分らしい人生の組み合わせを実現していることが指摘されています。
一方、アメリカの失業時の所得保障や再就職支援に対する公的な支援の規模は、コロナ禍以前の平時だった2019年にGDP比0.3%と、日本と同じくらいでした。
「キャリア選択=自己責任」は世界の非常識
しかし、労働政策研究・研修機構の2014年の研究報告によれば、労働市場の不安定化が進んでいることへの対抗として、働くことに関わる支え合いが広がっています。
労働組合の全国組織は、組合員かどうかに関わらず、働く人を広く支える方針に切り替えて、地域のさまざまな労働組織と手をつなぐ方向に大きく舵を切っています。
さらに雇用関連の活動や地域の就労支援を行う非営利団体がきわめて多く存在し、地域の利害関係を調整しながら活動しています。
もちろん、スウェーデンやオランダ、アメリカに、仕事やキャリアの問題がまったくないわけではありません。また、海外の仕組みをそのまま日本に持ってくるのも、とうてい無理な話です。
しかし、働くことへの公的な支援が大きい国でも小さい国でも、個人のキャリアは自己責任(自助)か公的支援(公助)かの二者択一ではなく、職業や地域での支えあいがあることは、もっと日本で注目されていいと思います。
キャリアの孤立から抜け出すために
企業横断的なコミュニティ、就業形態や職業別に学びや支えあいを行うコミュニティなどをもっと政策的に支えていくべきだ。
撮影:今村拓馬
過去30年間の日本は、キャリアを自己責任とみることで失敗を重ねてきたとも言えます。バブル経済崩壊後には、企業が新卒採用を大きく抑制し、不安定な仕事に就く若者が増加しました。
しかし2000年頃まで、これは若者のキャリア観の変化によるものだという論調があり、初の省庁横断的な対策が講じられたのは、若者の雇用が不安定化し始めてから10年近くたった2003年のことでした。
また夫の賃金低下により、再就職を希望する女性が増えていたにも関わらず、政府が結婚・出産等で離職した女性の学び直しや再就職支援に乗り出したのもここ数年のことです。
これまでの失敗を繰り返さないためには、キャリアの孤立を解消するための環境整備が重要です。
日本でも企業横断的なコミュニティ、就業形態や職業別に学びや支えあいを行うコミュニティなど、萌芽的な事例が増え始めていますが、それらをもっと政策的に支えていくべきだと思います。
とはいえ個人としては、政策が動くのを待っているわけにはいきません。まずは、「キャリアは一人でつくるもの」と思い込んでいないか、振り返ってみることが大事です。
その上で、会社を超えてこれからの仕事について話し合える知人を探してみたり、仕事やキャリアについて情報交換をしたり、刺激しあえる場やコミュニティを探していく必要があるのです。
(文・大嶋寧子)
大嶋寧子:リクルートワークス研究所主任研究員。金融系シンクタンク、外務省経済局勤務を経て現職。一人ひとりが生き生きと働ける社会をテーマに、雇用政策やキャリアに関わる研究を行う。主な著書に『雇用断層の研究』(共著)、『不安家族 働けない転落社会を克服せよ』(単著)、『30代の働く地図』(共著)など。