「代表取締役医師」という、一風変わった肩書きから察しがつくように、メドレーの顔、豊田剛一郎(36)のキャリアは、医師がスタートラインだ。
父親は、旧大蔵省の大臣官房企画官を務めた後、衆議院議員を2期務めた豊田潤多郎。祖父は宮崎県の病院の創立者で、豊田が生まれる前に他界している。祖母が病院の理事長を引き継いだ(現在は潤多郎が理事長に就任)。医師一家で、父親は官僚から代議士に転じた経験を持つが、2人の姉がいる末っ子の豊田には、必ずしも医師や政治家へ、というレールが敷かれていたわけではなかったという。
「親からも、『医学部に行け』とは一切言われたことはなかった。
父親の選挙区は京都でしたが、政治家の仕事を東京の家には持ち帰らなかった。テレビの選挙特番を観た記憶は残っていますが、政治との接点はそのくらいでした。私の今に通じるのは、『日本のため』といった世の中の課題を大きく捉える視点ですね。父親の背中をみて、なんとなく刷り込みがあったのかもしれないなと、まあ、後付けで思うところはあります」(豊田)
病院の「住人」だった研修医時代
外科医時代の豊田さん。当時の激務エピソードは尽きない。
提供:メドレー
医療への道は、脳への興味が入り口になった。高3のとき、受験勉強のかたわらで『海馬』(池谷裕二、糸井重里著)を読んで、脳の世界に魅了された。この時は、医療そのものというより、生理学的な興味が勝っていた。
通っていた開成高校では医学部を受験する人も多く、
「絶対に医者になるという決定打はなかったけれど、どうせ目指すなら一番難しいところを狙って頑張ってみようという感じでした」
東京大学の医学部に進んだ後、2年間の初期臨床研修は聖隷浜松病院へ。「職住接近」で病院から徒歩2分の場所に住み、
「寮には寝に帰るだけ。おそらく年間340日ぐらいは病院に行っていた。研修医はレジデント(住人)と呼ばれるんですが、当時の私は文字通り『住人』になって、がむしゃらに働いていました」
月に10数回当直していた頃は洗濯さえままならず、時間の節約でパンツはコンビニで買っていた。業務の合間に食べる食事でラーメンの出前を頼むと必ず急患が来るというジンクスがあり、実際、長い手術の後にノビノビになった無惨な麺が待っていた。気を失うぐらいクタクタな時、寝落ちして椅子から転げ落ちて頭を強打した……。
こんな風に、「激務ながらも、合宿みたいな日常」のエピソードは、尽きることがない。それでも豊田は、できるだけ学びの多い職場で自分を鍛えようという自らの意思で研修場所を選んだため、ハードワーク自体は「これはこれで、乗り切れる」という感覚でいた。
だが途中から気になり始めたのが、病院というシステムが乗っている土台としての日本の医療の問題点だ。その違和感は日に日に膨れ上がっていった。
「いずれ破綻するのは目に見えている」
いつでも対応してくれる日本の医療機関だが、いつ崩壊してもおかしくないほど現場には課題が多かった(写真はイメージです)。
RunPhoto / Getty Images
初期研修で抱いた「違和感」とは、例えば日本の医療の需給バランスについて。アクセスフリーな国民皆保険制度に守られて、私たちはいつでも、どこでも医療機関にかかることができる。地域間の医療格差の問題もあり、多くの病院では常に医師不足の悩みを抱えている。
それなのに、検査や治療など求められればいくらでも医療を提供でき、患者が押し寄せても、日本の仕組み上は基本的に医療を「提供しない」という選択肢は取れない、もしくは取りづらい。
「私自身の労働環境の問題ではなく、日本の医療のデフォルトがこれなの?と。蛇口をひねると水が出るのと同じ感覚で、医療は『当たり前』のものになりすぎている。このシステムでいくと、いずれ破綻するのは目に見えているな、まずいなとずっと思っていました」
超高齢化社会へと突き進む日本にとって、医療の問題はまさに「ど真ん中」な課題ではある。
とはいえ、社会システムを変えていくような国レベルの難題であり、個人の手には余る。ただでさえ、日本の医師たちは忙しい。もちろん豊田も手一杯であることに変わりはなかったが、現状をただやり過ごすのではなく、「違和感」は心の奥に引っ掛けておいた。
「この時の違和感が、今の仕事の原点になっていますね。長期的にみたら日本はこのままじゃダメだとか、医療の形自体を変えていけば、もっと上手くできそうなのにとか、葛藤をずっと抱えながら働いていたんだと思います。考えれば考えるほど、つらくなるんですけれどね。自分個人じゃ絶対変えられない、スケールの大きな課題なので」
「マッキンゼー行き」という新たな選択肢
まるで沈みゆく豪華客船のような日本の医療を、何とかしたい。そんな思いを募らせる豊田は、ホップ、ステップと、「2段階のジャンプ」を一気にすることになる。
ホップは、日本での専門医取得のキャリアコースから離れ、アメリカへ留学すること。
ステップは、医療現場の外に踏み出し、外から医療を変えること。
留学時代の豊田さん。アメリカ行きの決断は、キャリア上大きなものだったという。
提供:メドレー
ホップのアメリカ行きは、医学部生の頃からの希望で、当直の合間に英語やアメリカの医師国家試験の勉強もして準備を進めていた。脳神経外科の後期研修に入って1年半後の2012年、アメリカのChildren's Hospital of Michigan(ミシガン小児病院)へ留学する。
そして留学後にマッキンゼー・アンド・カンパニーへの入社が決まるのだが、豊田が戦略コンサルという「医療の外」の世界に踏み出す決断をしたのは、後期研修で世話になった2人の恩師との対話がきっかけだった。
まず、目から鱗だったのが、当時働いていたNTT東日本関東病院脳神経外科の上司だった木村俊運(現・日本赤十字社医療センター第一脳神経外科副部長)から何気ない会話の中で言われた一言だ。
「マッキンゼーを受けてみたら?」
当時の豊田にとって、マッキンゼーの名は、ビジネス書で見かけたことがある程度だったが、この一言で「医療現場を離れるという選択肢っていうのも、ありなのかもしれない」と視野が広がった。それを機に、戦略コンサルの本を読み、医療の外の世界にも目を向けるようになった。
「木村先生は医師でありながらビジネス書も普通に読むような、守備範囲が広い大きな思考の持ち主。お兄ちゃん的な存在であり、師匠みたいな感じでもあり。普段の対話の中で、自分が医療に対するモヤモヤを抱えていることも話していたし、疑問があればそれをぶつけてもいた。
木村先生がいなかったら、私はマッキンゼーには絶対に行っていなかった」
「外」から医療の課題を変える決断
それでも、医療の外の世界に踏み出すには勇気が要る。木村は豊田にこう言葉をかけた。
「医療現場を離れるなら、十字架を背負う前がいい」
脳外科は、専門医の資格を取得するまでに10年近くかかる。修行期間を経て手術の責任を担う執刀医の立場になれば、いつかは、助けることのできなかった患者への無念を胸に抱くことも出てくるだろう。その頃になって責任を投げ出して新たな挑戦をするのは無責任であり、到底無理だ——。そう感じた豊田は、次第に決意を固めていく。「今、動かなければ」と。
もう一人の恩師、当時、NTT東日本関東病院脳神経外科の部長だった森田明夫(現・日本医科大学脳神経外科部長)の言葉にも、背中を押された。
アメリカ行きを応援してくれていた上司だけに、せっかく得た留学の切符を反故にするような、しかも医師のキャリアコースから外れるような話を切り出すのは勇気が要った。外の世界から日本の医療課題に向き合いたいと思いを真っ直ぐに伝えた。
すると反対どころか、こう励まされた。
「患者を救う医師は私たちがいるから、豊田は『医療を救う医師』になりなさい」
医師を辞めてマッキンゼーに行くというのは、キャリア上の決断としては重い。なぜ踏み切れたのか?
撮影:伊藤圭
「アメリカの病院へ行くと決めたことが1回目のジャンプ。通常のキャリアコースを外れることで、誰もが反対するような決断でしたから、その壁を超えたところが結構大きくて。大事なのは、自分のやりたいことの選択肢を作ることです。選択肢があれば、決断もできます。ひとたび突破してしまえば、『選択癖』がついて、大きな決断もできるようになる」
他人と同じ道ではなく、自分のやりたいと思ったことに誠実でいること。選択肢を自分で作ること。しかも、「モーメント(惰性)では決していかない方向のチョイス」(豊田)をすること。この一連の踏み出しが、今の豊田のキャリアを形作っているのだという。
かくして豊田は、広い世界から医療の課題に向き合う「けもの道のキャリア」を歩み始める。
(敬称略、明日に続く)
(文・古川雅子、写真・伊藤圭)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。