メドレー代表取締役医師の豊田剛一郎(36)は、精神的にも体力的にも、実にタフだ。
「外の世界から医療課題に取り組みたい」と豊田がマッキンゼー・アンド・カンパニーの筆記試験を受けたのは、日本を発つ5日前。
先にアメリカへの留学が決まっていたのだが、先輩医師の勧めでポッと出てきたアイデアから、「マッキンゼー行き」という選択肢を自ら作り、採用試験のエントリーシートを渡米1カ月前に駆け込みで送っていたのだ。筆記試験の合格の知らせが届いたのは、渡米後だった。
豊田が約1年間の米国留学で出したアウトプットの量は、半端ではない。現地の小児病院で働き、臨床研究で取り組んだ脳研究では国際的な学術誌の表紙を飾る成果を出した。このわずかな期間で、アメリカの医師免許も取得している。
その間に、複数回行われたマッキンゼーの面接も、一つひとつクリアしていった。面接はウェブ会議システムで、マッキンゼーのデトロイトオフィスと東京オフィスをつないで行われた。
「面接も楽しんで受けていました。面接というよりも議論という感じで。毎回、答えのないような課題を出されて30分延々と考える、なんていうのも新鮮でした。
アメリカの臨床医はハードな瞬間はとても忙しいですが、オフの時は地元のサッカーチームでプレイしたり、ゴルフを楽しむ余裕もありました。やるべきことはきちんとやるけど、メリハリをつけながら何でも楽しみたいと思うのが、自分の性格なんだと思います」(豊田)
けもの道にワクワクするタイプ
医師からコンサルタントの世界へ。ビジネスの現場は全てが新鮮だったという。
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豊田は米国留学の翌年、2013年の9月にマッキンゼーに入社した。
「親にも事後報告でした(笑)。せっかく勉強して医者になったのに、それを辞めるなんて、かけた梯子をわざわざ自分で外すようなものだと言われることもあるけれど、潜在的にはどうなるかわからない道を進むのが楽しくて。けもの道を分け入る方が、ワクワクするタイプですね。
逆にある程度、『ここをこうすると、こうなる』が見えてしまう世界にいると、興味を失う。常に新しいことを考えられる場所に立っていたいんです」
ビジネスの現場は、全てが新鮮だった。まず、白衣を脱いでビジネススーツと革靴を履くところから。表計算ソフトのエクセルをまともに触ったこともなかった。KPIという経済用語さえ知らなかった。
それでも、医療なら病気を治す、戦略コンサルなら会社の課題を解決するというミッションがあり、「人のため、社会の課題の解決のために、自分のベストを尽くすというスタンスに共通点があり、働きがいを感じた」という。
医師という働き方しか知らない自分の弱みも見えた。「課題を設定し、解決のための筋道を立てる力」だ。そもそも医師の場合は、「病気や怪我を治す」という究極のミッションがあるから、課題設定で苦労することはない。クライアントと対話を重ねるうちに、相手の立場になって考えることで、おのずと課題が見えてくることもわかってきた。
旧友の殺し文句は「自分の名前で勝負しろ!」
コンサルで課題解決の新しいスキルも身に付けた。しかしここで自分が成し遂げたいことはできるのか……という迷いもあった(写真はイメージです)。
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マッキンゼーでの仕事は刺激的で、海外でのMBAの教育プログラムが用意されるなど、挑戦や修養の場も豊富だった。入社1年ちょっとで昇進も決まった。一方で、医療関連のクライアントは製薬会社や医療機器メーカーが多く、「日本の医療の課題を解決する」という本来の自分の目的は、なかなか果たせそうになかった。
仕事は面白い。だが、このまま会社に居ついてよいものか……。
迷いが生じた頃に、医療とヘルスケアの事業を軸とするメドレー創業社長の瀧口浩平(36)とつながる機会があった。瀧口はもともと小学校時代の“塾友”で、Facebook上で再会した。
瀧口もまた、ユニークなキャリアを歩んでいた。豊田と同じ開成中学に進んだものの、途中からは地元の公立中学に移り、東京学芸大学付属高校に進学。高校在学中の17歳の時に1度目の起業をして、大学には進まず起業家としての道をまっしぐらに進んでいた。
豊田は瀧口の芯のところにある想いに注目した。瀧口は、身内のがん闘病で日本の医療への問題意識を高め、「患者やその家族が納得できる医療」の実現を目指していた。「医療を変えたい」「患者さんを中心に考えたい」という2人の想いも共鳴した。
ただ2014年秋に、瀧口から「メドレーに来てほしい」とオファーされた時には、コンサルの仕事に未練がないでもなかった。豊田を動かしたのは、瀧口のストレートな言葉だった。
「豊田が持っている医療に対する危機感と熱い想いを、しっかり世の中に伝えるべき」
「豊田には、自分の名前で勝負してほしい」
豊田は瀧口の言葉で覚悟を決めたという。
「なんと言っても、瀧口は5年もかけて育ててきた自分の会社に事業会社経験もない私を引っ張って、共同代表にしようと言ってるわけで。瀧口が社長だけど、『豊田は自分と同等か、それより上のポジションにしたいから代表取締役医師という肩書きがいいんじゃないか』とか。
『自分の名前で勝負しろ』は、コンサルという裏方ではなく、表舞台に出て自分の志を全うしてくれというメッセージだと受け取りました」
「医者がつくるWikipedia」は泥くさい仕事から
最初にリリースしたオンライン医療事典「MEDLEY」(スタート時の名称は「オンライン病気事典」)。
『MEDLEY』公式サイトより
2015年2月、豊田はメドレーの共同経営者に就任した。当時は医療介護の求人サイト「ジョブメドレー」の運営が柱で、医療系の事業開発をぽつぽつと始めた段階。具体的な新事業の構想があったわけではない。
豊田の入社とともにリリースしようと決めたのは、患者自身が医療リテラシーを高められる場としてのオンライン事業だった。健康医療を自分ごと化し、患者が適切な情報に辿りつけるために、「医者がつくるWikipediaを作ろう」というのがコンセプト。現在のオンライン医療事典「MEDLEY」の出発点だ。
とはいえ、テクノロジーに強いスタートアップに飛び込んだといっても、豊田自身はコードを書けるわけでもないし、人手も余っていない。今では700を超える医師の協力によって成り立っているが、当時は地道に探していかねばならない段階だった。
「誰かがやらなきゃいけない。だったら自分かなと」
最初は「病気事典」と銘打ってのスタートだったため、「そう名乗るなら、病気全体をカバーしていなければ意味がない」と、豊田は2週間、徹夜を重ねながら100個の病気の基礎知識を作成して、リリースに漕ぎ着けた。そこからは、SNSの発信に加え、知り合いのツテを頼って、専門領域の病気について執筆してくれる人に協力を取り付けていった。
「だいぶ泥臭い仕事ですよね(笑)。私はずっと運動部にいたこともあり体育会系なのか、やると決めてしまえばそういう仕事も平気です。医療にとって必要な環境を創れるなら、できることは何でもやる」
撮影:伊藤圭
豊田がそこまでやりきるのは、医療現場に身を置いた経験から、切実なニーズが見えているからだ。
例えば脳外科では、せめぎ合う命の選択の難しさを思い知った。手術は成功したとしても、患者に重い脳障害が残ることもある。意識や呼吸などを司る脳幹がダメージを受けていなければ、手厚いケアで長期にわたって命をつなげられる可能性はある。
だが、それが必ずしも患者や家族に取り幸福につながるとは限らない。CTもMRIも備えられ、薬や治療法が豊富にある時代だからこその葛藤でもある。尽くす医療と患者の生活の質との間で、医師たちは「医療の目的とは何だろう?」と考え込む。医療の選択は重いものだし、医師の勧めに従っているだけでいいというものでもない。
「選択肢が多い時代だからこそ、患者さんが普段から主体的に医療と向き合う環境が欠かせません。命やその後の人生に一生関わる治療の選択を迫られることの多い脳外科を選んでいなかったら、今のような仕事に結びついていたかどうか。毎日死生観と向き合うことは、私にとって貴重な経験でした」
と豊田はしみじみと言う。
(敬称略、明日に続く)
(文・古川雅子、写真・伊藤圭)
古川雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(社会学者の平山亮との共著)がある。