高橋さん(仮名)は家族帯同ビザを取得し、11月末に日本を出発する(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
国内屈指の大手企業で管理職を務める40代前半の男性・高橋さん(仮名)は、2020年11月から1年以上の長期休職を決めた。
高橋さんの妻は、日本企業の駐在員として、約1年前から東南アジアに2人の子どもと一緒に暮らしている。
高橋さんはこれまで、週末などを利用して現地と日本を往復していたが、新型コロナウイルスの影響で、家族と約10カ月もの間、会えない状況が続いている。
そこで高橋さんが選んだ道が、家族帯同ビザを取得すること。会社を長期休職し、「専業主夫」として東南アジアで家族と暮らす選択だった。
高橋さんは30歳の若さで管理職に就いたエリート社員。そんな高橋さんが、キャリアを中断して「専業主夫」になる決断をした理由は、「今までキャリアを犠牲にしてきた妻を、今後は自分が支えたい」という思いからだった。
育休を取得した妻が子育て
第1子が生まれた時も、第2子が生まれた時も、高橋さんは育休の取得はしなかった。
撮影:今村拓馬
高橋さんは、大学卒業後、総合職として一部上場の大企業に就職。
営業や購買など積極的に多くの職種を経験し、20代後半で第1子を授かった。当時の子育ては、育休を取得した妻が一手に担った。
「当時は『男性で育休を取ろう』という発想すらありませんでした。振り返ってみると、当時は一番仕事が忙しい時期で、出世欲に燃えて働いていました」
午後11時頃に帰宅し、その後も自宅で業務。午前1時に寝て午前6時には起きる生活だったという。
第1子誕生の数年後、第2子を授かった時も、妻がまた産休を取得した。
「妻も大企業に勤めていますが、もともと海外支店での駐在を希望していました。でも、産休・育休で、海外駐在のタイミングを逃していました。
自分だけが、やりたい仕事をして、家族とも過ごせていたので、いつかは妻のキャリアを応援しないといけないと、ひっかかる思いを持っていました」
妻がアジアに駐在。週末に往復する日々
2019年、妻の念願だった海外駐在が始まる。当時は、妻と一緒に海外で暮らすことは考えていなかったという。
撮影:今村拓馬
妻が長く希望していた海外駐在が決まったのは、2019年夏だった。
30代後半という年齢的にも、キャリア的にも、海外駐在の最後のチャンスということもあり、妻は育ち盛りの子ども2人を連れて、東南アジアで駐在員として働くことを決めた。
「子育てしながらの海外駐在は大変なことは妻も分かっていました。ただ彼女はこれまで、育休を挟みながらも、真面目にキャリアを積んできていたので、与えられた機会で結果を残したいという決意が強かった」
コロナ前だった当時は、妻の駐在先で高橋さんも一緒に暮らすことについては、「全く考えていなかった」という。
日本に一人暮らすことになった高橋さんは、少しでも家族との時間を過ごせるように、休日を利用してひんぱんに現地に飛んだ。
金曜の夜行便に乗って、妻と子どもに会いに行き、月曜朝に東京に帰り、そのまま仕事に行く。そんな強行スケジュールを何度も繰り返した。
「航空券代もかかり、日本に帰って来るときにはくたくたになっていました。それでも、家族に会えるのが楽しくて、充実していた日々でした」
コロナで海外渡航が禁止に
新型コロナウイルスの影響で国際線の運航は大幅に制限された(写真はイメージです)。
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しかし、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大で、状況は一変する。
2020年2月以降、コロナの影響で海外渡航が厳しく制限され、日本を離れることが一切できなくなった。
「妻は決して弱音を吐かない人なのですが、直接会えなくなってから半年ほどで、Zoomで見る顔からも明らかに疲れが見えました」
妻は仕事に慣れてきたことや、新型コロナウイルスの影響で、オフィスに来れなくなったメンバーのサポートにも当たったことから仕事量が増加。朝5時には起きて子どものお弁当を作っていたため、睡眠時間は4時間ほどだったという。
「妻は『仕事で精一杯』とは言っていたのですが、『つらい』とは言いませんでした。自分で決断した以上、子どもとの駐在を絶対にやりとげると決めていたからだと思います。
直接会えないので、妻の詳しい現状がつかみにくくなりました。助けたいけど、どうしたらいいのか分からないという状況でした」
長期の休職、課題は収入
妻の収入はあるものの、長期休業による収入の減少が課題だった。
撮影:今村拓馬
家族と会えない生活が、約半年間も続いた2020年8月。
高橋さんは、東南アジアで家族と暮らすことを決断。「家族帯同ビザ」の取得と、長期休業の申請に向けて動き出した。
「現地で一緒に暮らしたいと妻に打ち明けた時は、『それはすごく助かるけれど、休職して本当に生活できるの?』と、言われました。日本の自宅の家賃や、子どもたちの養育費もかかるのに、休職して本当に生活できるのかと心配されまた」
妻の収入に頼らざるを得なくなる休職期間について、高橋さんは妻と収支のシミュレーションを重ねた。その結果、毎月の貯蓄額を減らし、その上で生活費を節約すれば、休職期間も乗り切れると判断した。
「これまでは貯金やローン返済など先々のことを考えてきました。ただ、今回のコロナのように計画通りにいかないこともあります。将来のことだけでなく、今大切なことは何かと考えた時、これまでと同じような生活はできなくなるけれど、『家族で一緒にいられること』を優先しようと夫婦で決めました」
ビザは申請から発効までに数カ月かかったものの、無事に取得。高橋さんの現地行きが確実となったことで、妻にも変化があった。
「妻は『家族一緒にいられるのは、本当にうれしい』と言っていました。パソコンの画面越しの妻の様子も、何だかほっとしているように見えますし、やはり一人で多くの負担を抱えてるんだと思います」
「若い時はキャリアに固執していました」
長期休業を決めた時、職場の上司らの反応は意外なものだった。
撮影:今村拓馬
休職という決断には、キャリア面での不安もあった。
「妻が駐在を終えるまでは休職し、東南アジアで暮らそうと思っています。妻の駐在が長引く可能性があるので、いつ帰って来られるのかは未定です。
日本に戻ってきたとき、会社に自分のポストがあるかは、正直分かりません」
そんな不安を抱えながらも、「家族のための休職」という判断ができた理由は、キャリア観の変化もあったという。
「20代の頃は、キャリア志向が強く、出世したいと思っていました。とにかくいろいろな経験を積みたいと。休むことでチャンスがなくなると思っていましたね」
高橋さんは大企業の総合職として、率先して異動を申し出て、さまざまな職種を経験しキャリアを積んできた。社内では出世競争も激しく、常に多くの転職組の社員ともポスト争いを続けてきた。
「若い時はキャリアに固執していましたが、年齢を重ねるうちに、出世だけが人生じゃないと思うようになりました。あれもこれもは、手に入らない。どこかで何かを手放さないといけないと。
今までの人生では仕事の割合が高かったのですが、僕はやっぱり子どもが大好きなので、一緒にいる時間をできるだけ増やしたいと思うようになりました。キャリアの選択は、きっと正解はないこと。自分の決定を信じようと思っています」
前例のない「妻に帯同する休職」
高橋さんは2020年11月末に東南アジアに渡航。約10カ月ぶりに家族と面会する。
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高橋さんの会社にはもともと長期の休職制度があったものの、利用されるのは病気の療養などが主な理由だという。
「女性社員が休職して夫の駐在に同行する例はありますが、私のように休職して妻の駐在について行く例は聞いたことがありません」
職場では、高橋さんの休職について、否定的な意見はまったく聞かなかったという。
「同僚の社員からは僕の決定について、『勇気づけられた』と言ってもらえました。また上司からは、『俺も同じ立場だったらそうすると思う』とか、『子どもはすぐ大きくなるから、できる限り一緒にいろ』と言ってくれました」
約10カ月ぶりに家族と面会する高橋さん。これから、一番したいことは「普通の生活」だという。
「これまで当たり前にできていたことをしたい。一緒にご飯を食べて、一緒に遊んで、一緒にふろに入って。これからは『専業主夫』になるので、朝はお弁当を作って、子どもを学校に行かせて、夜は子どもの勉強を見て、夜ご飯を作りたいと思います。
育児や家事が中心の生活は、初めての経験なので」
もともと、家事や子育てに苦手意識はないという高橋さんは、明るく話す。
育児の負担が母親に
日本では男性の育児参画が遅れている。
撮影:今村拓馬
日本では男性が、育児のために休業するのはまだまだ一般的ではない。
育休取得について、明治安田生命が2020年6月に実施したアンケート(1100人が回答)では、男性の育休取得は「0日」が66.5%。取得した人でも「1日以上1週間未満」が13.9%で最も多く、育休を取得しても短期間なのが実情だ。
一方で女性が「夫に取得してほしい日数」の平均は約3カ月で、育児の負担が女性に偏っていることが分かる。
「男性が休職するケースはまだまだ少ない。女性が家にいて家事育児を当たり前にするのは時代遅れですし、僕の行動で励まされる人がいるならうれしい」
東南アジアへの出発前、さまざまな事務続きに追われていた高橋さんにこれからの人生について聞いたところ、彼はきっぱりとこう語った。
「今回の長期休業は、役職や収入面だけ見れば、マイナスになるかもしれません。でも、人生の価値は、総合的に考えたいとも思っています。大事なことがぶれないこと。僕にとってそれは、家族と過ごす時間です」
(文・横山耕太郎)