生後2年で、育ての親の家での生活が始まった頃の写真。
提供:長谷部さちこさん
「両親から『あなたは私たちの子供ではない』と言われた時は、頭が真っ白になりました」 —— 。
31歳の時、両親から養子であることを告白された長谷部さちこさん(34)。
長谷部さんは2歳の時、血のつながらない育ての親の家庭に迎えられた。その後、特別養子縁組が成立し、戸籍上でも親子になった。
そして、31歳になるまでは、自分が養子であるとは全く疑わずに生きてきたという。
現在では年間約600件が成立している特別養子縁組。制度が始まったのは1988年で、1986年生まれの長谷部さんは、制度が始まった当初の当事者だ。
養子である事実を知ってから3年。長谷部さんは、戸籍をさかのぼることで、生みの親を探しながら、養子としてどう生きていくべきなのか考え続けてきたという。
自分だけ天然パーマ
長谷部さんは「今思うと、いろいろと思い当たる点がある」と話す(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
長谷部さんは現在、宮城県で夫と二人で暮らしている。
裁判所の記録によると、長谷部さんは2歳8カ月の時、育ての親の家に迎えられ、3人での生活が始まった。
幼い頃は自分が養子であるとは少しも疑わなかったが、当時を振り返ってみると思い当たることもあるという。
「小学校に入学してから、自分の髪の毛が天然パーマだということを意識しました。他の同級生と比べて、自分だけ違うと。両親も直毛だったので、『なんで私だけ髪の毛が違うの?』と聞いたことがあったのですが、『おばあちゃんも天然パーマだから』と言われたのを覚えています」
結婚報告の後、突然の告白
養子であることを伝える「真実告知」。その時、長谷部さんは涙が止まらなかったという。
撮影:今村拓馬
養子の事実を伝えられたのは突然だった。両親が長谷部さんに会いに、宮城県を訪れた時のこと。
「結婚を考えていることを報告した直後だったので、両親から『ちゃんと考えて決めたのか』と小言を言われるのではないか、と身構えていました。
両親が宿泊しているホテルの部屋で、向かい合って座っていたのですが、父から『さちこは私たちの子どもではない』と言われました」
始めは何を言っているのか理解できなかったという。
「頭が真っ白になりました。それでも父から、『実の母親は体が弱く、さちこを育てることが難しかった』と説明されたのは覚えています」
今までの家族の記憶は何だったのか —— 。長谷部さんは混乱した。
養子縁組の理由について、「子どもを授かる事ができなかった」という父の説明を聞きながら、涙がとまらなかった。
結婚に必要だった戸籍謄本
長谷部さんの戸籍謄本。「民法817の2」として特別養子縁組が成立した記載がある。長谷部さんが育ての家で生活を初めてから、数年後に成立している(プライバシーの保護のため写真を加工しています)。
提供:長谷部さん
結婚のタイミングで養子である事を伝えたのは、婚姻届けを提出する際に必要になる戸籍謄本に特別養子縁組に関する記載があるためだ。
「私の場合は本籍地と婚姻届を提出する役所が違ったため、戸籍謄本が必要でした。戸籍謄本を自らで取得するタイミングは、ほかにはパスポートの取得時などで多くはありません。なので養子であることを知らされないまま大人になる当事者も多いといいます。私の場合、大学時代にパスポートを取得しましたが、父が代理申請しました。養子であることを知られたくなかったからだと思います。
両親は養子である事実を『墓場まで持っていこう』と思っていたようですが、31歳の時にちゃんと伝えてくれてよかったと思っています」
養子であることを伝えられてから半年の間は、養子という事実は考えないように過ごした。だが、結婚式をきっかけに、養子であることと向き合おうと考えるようになった。
「結婚式は、普通は『生んでくれて、育ててくれてありがとう』など、親に感謝を伝える場です。でも私の両親は、私を生んだわけではありません。
結婚式の当日は親に感謝の言葉を伝えましたが、生んでくれた親への感謝もしたいなと考えるようになりました」
生みの母の情報を探して
家庭裁判所や乳児院を訪ね、自身のルーツを探したという(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
生みの親はどんな人だったのだろうか?長谷部さんは、一人で手がかりを探し始めた。
最初に育った故郷の児童相談所を訪れたものの、そこでは情報は得られなかった。
その後、特別養子縁組が成立した家庭裁判所で情報が得られる可能性があると聞き、裁判所を訪れ、そこで産みの母の名前を初めて知ったという。戸籍には母の名前しか記載がなく、父について探ることはあきらめたという。
次に長谷部さんは、自分が預けられていた乳児院を訪問。育ての親の家に委託される直前の2歳8カ月の時の写真が見つかるなど、少しずつ自らのルーツにつながる情報が集まってきたという。
しかし2020年6月、取り寄せた情報 を調べていく過程で、予期していなかった事実を知る。
ルーツ探しの過程で知った母の知人の情報から、すでに生みの母はこの世を去っていたことが分かったのだ。
生みの母が亡くなったのは数年前。 長谷部さんが「生みの母がいる事実」を知った時には、すでにこの世にはいなかったことになる。
「生みの母については、一つ分かると、また分からないことが出てくるという繰り返しでした。何を知りたかったのかと聞かれると、答えるのが難しいのですが、どんな人だったのかを知りたかったんだと思います。
生みの母はすでになくなっているので、それも分からないままになりました」
特別養子縁組「より身近に」
撮影:今村拓馬
長谷部さんは数年前、特別養子縁組についての情報を集めたホームページを作成し、自身の体験について情報発信をしてきた。
「自分と同じように不安を抱えている当事者の力になりたい」という思いから始めた取り組みだが、当事者として情報発信することには、育ての親に対する複雑な気持ちもあるという。
「育ててくれた両親には感謝しかありません。ただ、養子であることを伝えらえた後は、両親と養子の話題はタブーになってしまいました。実の親について知りたいと言えば、両親が悲しむことは分かっています。
養子の子どもに知る権利があるのはもちろんですが、同時に育ての親を悲しませたくない、という気持ちを抱える当事者も多い」
長谷部さんが運営するHP「養子専用情報サイト・コムオベーレ」には自身の体験がつづられている。
HPを編集部キャプチャ
葛藤を抱えながらも、当事者として情報を発信してきたのは、「特別養子縁組制度がもっと身近な選択肢になれば」と感じていることも、理由の一つだ。
「私が小学校の時、授業参観に来た母が周りの親より高齢だったのを覚えています。子育てには体力がいります。何年も不妊治療をした後で、特別養子縁組を検討するとなると、どうしても親と子の年齢は離れてしまう」
ただ、不妊治療をする夫婦にとって、特別養子縁組を勧められることは、治療が難しいと言われているように感じるケースもあるという。
「養子の当事者にもいろいろな考え方があり、私の中でも正解が分かりません。私にできることは、私のような家族もいると伝えることだと感じています」
普及目指す厚労省「制度の認知不足」
厚生労働省では特別養子縁組について「年間1000件」の成立を掲げている。
撮影:今村拓馬
特別養子縁組の成立数は、2010年は325件、2017年は616件、2019年は711件と年々増加傾向にあるが、政府目標の「年間1000件」には届いていない。
2020年4月には制度が改正され、対象年齢を「原則6歳未満」から「原則15歳未満」に拡大され、政府は制度の普及を目指している。
厚生労働省の担当者は、制度の認知が進まない理由についてここう説明する。
「特別養子縁組が普及しない理由として、認知不足と斡旋機関の少なさが原因の一つだと思っています。特別養子組は児童相談所が大部分を担っていますが、他の業務もあり民間による斡旋支援も増やす必要があります。また民間団体へと、受け入れる夫婦への金銭的な支援も必要だと感じています」
「養子であること」と向き合う
長谷部さんは「誕生日などの節目の時に、生まれた時のこと、生みの母のことを考えます」と話した(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
長谷部さんはコロナの影響が落ち着いていた2020年秋、生みの母の戸籍に残された本籍地を訪ねた。
生みの母の生家を遠くから眺めると、そこは畑や田んぼに囲まれた古い家で、長谷部さんが育ったような一般的な住宅地に立つ民家とは全く違った。
「この家で育っていたら、私の人生はどうなっていたのかなと考えました。私は大学にも行かせてもらったし、今は結婚もしています。ただ、ふと『これでよかった、と思っていいのか』と考えてしまう時があります」
すでにこの世を去っている生みの母は、どんな人だったのだろうか。そして、私は養子として、どう両親と向かい合っていくべきなのだろうか —— 。
長谷部さんは、これからもその気持ちと向き合っていくという。
「『今が幸せだから、それでいいじゃん』とも、思ってはいます。それでもやっぱり、『生まれた時はどうだったのかな?』と、考えてしまいます。この思いは、きっといつまでも消えないんだと思います」
※編集部より:画像の一部を差し替えました。2020年11月20日16:25
(文・横山耕太郎)