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「中国はいつ何が起きてもおかしくないというのが、この国で事業をやっている経営者の共通認識だ」
中国で20年以上製造業を営む日本人経営者が、「コロナ後の中国経済」をテーマにしたオンラインイベントでそう話したのは10月末だった。同氏も、唐突な環境規制に翻弄され、中国内で工場移転を余儀なくされたことがあるという。
この日本人経営者の言葉を聞いた数日後、中国経済で2020年最大のトピックの一つだったアリババの金融子会社「アント・グループ」」の香港・上海同時上場が土壇場で延期となった。
2019年12月に上場したサウジアラムコを抜き、過去最大のIPO案件になる可能性が高かったアント・グループの“悲報”は、中国のメガIT企業と政府との「微妙な関係」の象徴的事例でもある。
上場2日前に当局の指導受け「中止」
至上最大のIPOになるはずだったアントの上場延期は至上に大きな衝撃を与えた。
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アメリカの調査会社が発表するユニコーン(未上場で評価額10億ドル以上のスタートアップ)ランキングではこの数年、ショート動画アプリTikTokを運営するバイトダンス(字節跳動)が1位を維持している。同社の評価額は8月時点で1400億ドル(約15兆円)に達する。
対してアントの評価額は、評価額2800億ドル(約29兆円)。設立が2004年で、アメリカの調査会社の基準では「スタートアップ」の定義から外れているためランキングの対象外だが、中国で発表されるユニコーンランキングでは長きにわたってトップを守っている。
8月、そのアントがついに上場を発表し、株式市場は色めきだった。同社の株式は、アリババ創業者のジャック・マー(馬雲)氏が間接的に約半数を所有しており、アント初期メンバーも多くの株式が付与されているため、上場すれば多数の億万長者が出現する。コロナ禍で世界的にデジタル化が加速する中で、同社はさらなる成長も見込めた。
アントのIPOには個人株主の応募が殺到し、ブルームバーグによると個人株主の応募総額は3兆ドル(約313兆円)に上った。上海市場での当選確率は872倍、香港市場でも400倍に達し、学生やサラリーマンも借り入れなどで資金を捻出し、アント株を手に入れようとした。
だが、上場2日前の11月3日、上海証券取引所が突然、同社の上場手続きを停止すると発表した。中国人民銀行など4つの金融監督当局が前日の2日にジャック・マー氏、アントの井賢棟会長と胡暁明最高経営責任者(CEO)を呼び出し、指導したという。アントは指導を受け、上海だけでなく香港での上場も延期すると発表した。
投資家が払い込んだ資金は利息をつけて返金する方向だが、中国だけでなく、世界的にも至上最大規模になるのが確実だったアントの上場が当局の指導でドタキャンされた衝撃は大きく、さまざまな憶測が広がっている。
米メディアは「ジャック・マーの当局批判に習近平国家主席が激怒し、アントの上場は中止される」と報じた。検閲が入る中国メディアは本件の政治的な背景には触れていないが、アントやアリババの今後への不安は一気に膨らんでいる。
11月13日にはアントが杭州市に27億元で土地を購入し、新本社を建設する計画を「白紙」にしたというニュースが拡散し、杭州市当局が否定するコメントを出す一幕もあった。
メンツ傷つけられた金融当局
2019年、東京大学で盟友の孫正義氏と対談するジャック・マー氏。アリババの経営からは退いたが、アントにはなお影響力を残している。
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アントの上場延期は、10月下旬に開かれた会合でジャック・マー氏が、中国の金融規制が技術革新の足を引っ張っており、銀行は旧態依然とした経営をしているという趣旨のスピーチを行ったことが引き金になったと言われている。この会合には金融監督当局、政府、銀行の幹部も出席しており、当局側はメンツを傷つけられた形となった。
ただ、マー氏自身は1990年代の創業時からデジタル化によって社会システムにイノベーションを起こすビジョンを一貫して掲げている。政府職員を経て起業家に転じた同氏が既得権益や既存制度を批判するのは今に始まったことではない。元々率直な言動で知られるマー氏は、創業からしばらくは「ほら吹き」呼ばわりされ、カリスマ経営者になった最近も時々舌禍事件を起こしている。
これまでマー氏の言動に寛容だった中国当局が、アント上場を差し止めるほど厳しい態度に転じたのは、アントが手掛ける事業が金融分野であったことが大きく関係しているだろう。
Facebookのリブラとの共通点
2004年に生まれた決済システムアリペイのユーザー数は10億人を超える。
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11月14日、中国人民政治協商会議常任委員で、中国銀行行監督管理委員会元主席の尚福林氏は財経フォーラムに登壇し、「伝統的な金融業態であろうが、アントのような金融業態であろうが、金融業のルールを遵守しなければならない。市場効率を高めつつ、リスクを防ぐ必要がある」と発言した。
目論見書より作成
尚福林氏の発言は、2019年6月にフェイスブックがデジタル通貨リブラ(Libra)構想を発表したときの欧米政府や金融当局の反応を思い起こさせる。
リブラは「既存の金融機関にアクセスできない人々の新たな選択肢になる」「消費者を決済コストを下げ、効率を高める」理念を掲げたが、規制当局やトランプ大統領は「テック企業であっても金融領域に入るなら、銀行法の規制が適用されるべきだ」と猛反発。リブラは2020年前半のローンチを目指していたが、今も膠着したままだ。
目論見書より作成
アントも同じ構図だが、リブラと違うのは、規制当局がアクションを起こす前に既に消費者の間で普及し、肥大化している点だ(中国のイノベーションは常に、実装の後にルール整備や規制が行われる)。以前紹介した通り、QRコード決済アプリ「アリペイ(支付宝)」は10億ユーザーを擁し、アントはアリペイの残高を利用した投資商品、融資商品も提供している。また、既存の金融機関に融資判断などを支援するAI・ビッグデータサービスも手掛けており、既に消費者の銀行離れが進んでいる。
共産党員であるマー氏と政治との距離感
習近平国家主席(前列左から6人目)が2015年に経済関係者とともに訪米した際には、ジャック・マー氏(同4人目)も同行した。
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これまで銀行からの借り入れが難しかった零細事業者や個人に融資の道を開くなど、アントの貢献は大きく、リブラが目指しているファイナンシャル・インクルージョン(金融包摂)を中国で推し進めている。
一方で、金融は数ある業界の中でも規制が厳しく、政府がコントロールしたい分野であり、アリババがこれまで手掛けてきた小売りや流通、物流に比べてより敏感な業界だ。
アリペイとテンセントが手掛けるWeChat Pay(微信支付)でキャッシュレス社会が進行し、金融当局がお金の流れを追いにくくなったことが、デジタル人民元開発のきっかけにもなっており、アントも圧力を意識してか、2020年9月に社名を「アント・フィナンシャル」から「アント・グループ」に変更し、「フィンテック」ではなく「テックフィン」企業だと自社を定義づけた。
マー氏は米中貿易摩擦、世界的な金融当局のテック企業に対する締め付けの渦中という微妙な時期に、いつも通り奔放な発言をし、想定外の結果を招いてしまったと言える。
ファーウェイ(華為技術)、バイトダンスはトランプ政権ににらまれ、事業存続の危機にある。製品やサービスが国境を超えて受け入れられると、「中国政府のスパイ」として政治リスクにさらされるのは、中国の起業家やIT企業のジレンマでもある。
だが、中国企業を翻弄する政治リスクは、アメリカだけでなく中国にも歴然と存在する。
ジャック・マー氏は共産党員でもあり、創業時から同氏なりに政府との関係には気を遣ってきた。杭州市をIT都市に変貌させ、多くの雇用を生み出した立役者とあって、地元政府にとってはなくてはならない存在だ。それでも今回、政府の意向一つで、上場延期に追い込まれた。
トランプ政権から「中国のスパイ」扱いされているファーウェイも、民営企業であることから政府に長く冷遇され、生き残りのためにアフリカに進出しグローバル展開に踏み出した過去を持つが、今は中国の製造業や次世代技術を底上げする存在として、中国経済の「顔」的な役割を担う。
ファーウェイの社員は、アント上場延期を受けて、こんな本音を漏らした。
「中国のIT企業は、中国政府とは常に微妙な関係なんです」
浦上早苗: 経済ジャーナリスト、法政大学MBA実務家講師、英語・中国語翻訳者。早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社(12年半)を経て、中国・大連に国費博士留学(経営学)および少数民族向けの大学で講師のため6年滞在。最新刊「新型コロナ VS 中国14億人」。未婚の母歴13年、42歳にして子連れ初婚。