女性起業家の間で、卵子凍結という選択肢が広がっているという(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
ついに史上最低の86万人となった出生数、過去最低の121位となったとなったジェンダーギャップ指数……。女性の働きやすさ・産みやすさは日本社会の喫緊の課題として立ちはだかっており、菅内閣は「不妊治療の保険適用拡大」を肝入り政策として掲げる。
働く女性にとって、いつ出産・育児をするかという「産みどき」は切迫した問題だが、20代〜30代の働く女性の間で「卵子凍結」の選択をする人が増えているという。それはとりわけ、自分自身で会社を起こし事業を率いる起業家女性で相次いでいると聞き、当事者たちを訪ねた。
夫は共同創業者、子どもはプロダクト
子どもとキャリアの両立に揺れる女性たちの間で、卵子凍結が選択肢のひとつとして浮かび上がっている(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
「家庭って、経営と似ています。会社のメンバーは家族のようなものですし、サービスだって子どもと同じ。家庭も『夫は共同創業者で、子どもはプロダクト』だと考えると、今の会社が育ち切る前に『もう一人』作るのは、難しいかな」
2020年内の卵子凍結を決めたという、女性起業家のAさん(30代前半)は真剣な眼差しでそう語る。
Aさんは数年前に起業。順調にサービスを伸ばし、この数年間で数億円規模の資金調達を達成するなど、今もっとも注目される若手女性起業家のひとりだ。
卵子凍結を考え始めたのは、サービスがグッと成長したここ1〜2年ほどの間だ。その理由を尋ねると、事業が軌道に乗るまでは子どもは産めないから、とシンプルな答えが返ってきた。
「投資家からのプレッシャーはないわけではないですが、やっぱり自分の意思かな。トップライン(売上高)が止まってしまうかもしれない。そこで子どもを言い訳にしたくないんです」
今付き合っているパートナーも経営者の仕事に理解を示してくれている。Aさんにとってこの数年間が勝負だと捉えてくれており、Aさんが苦手な家事も積極的に担う。結婚をなかなか考えられなかったAさんにとって「この人となら」と初めて思えた相手だった。
そんなAさんの悩みどころは、いつ「産む」という決断をするか?だ。
一般的には、起業家としての一つのゴールはIPO(新規株式公開)やM&A(企業買収)によるイグジットだが、IPOを視野に入れると、出産が早くても30代後半になる可能性もある。仮にパートナーが2人目、3人目が欲しい、と願ったら……卵子凍結をしたとしても、考えなければならないことは尽きない。
「20代でも産めないことがあるんだ」
20代で卵子凍結したことがきっかけで起業した女性も(写真はイメージです)。
撮影:今村拓馬
20代で卵子凍結したことがきっかけで起業した女性もいる。
妊活・不妊治療・卵子凍結のクリニック検索サイト「婦人科ラボ」を運営するステルラ社長の西史織さん(29)は、27歳の時に卵子を凍結した。同じ20代の友人が不妊治療で苦労した話を聞き、「20代でも産めないことがあるんだ」という衝撃が、西さんを突き動かした。
「当時パートナーはいなかったのですが、将来好きな人が出てくるかも分からないし、いざ子どもが欲しいとなった時、年齢を理由にパートナー選びを妥協したくない。その余裕を持っておくための保険が欲しかったんです」
「婦人科ラボ」を運営するステルラ社長の西史織さん(29)。自身も27歳で卵子凍結を経験した。
撮影:西山里緒
しかし検討を始めてから、実際に卵子凍結するまでの道のりは簡単ではなかった。未婚女性が卵子凍結できるクリニックが限られること、千差万別の施術方法や価格のどれを選べばいいのか、情報が少ないこと……。
結局、60万円ほどをかけて卵子凍結を済ませたが、生殖医療に関する情報にもっと簡単にアクセスできれば多くの女性を救えるのでは、という想いが事業につながった。
現在はクリニック検索「婦人科ラボ」で不妊治療や卵子凍結ができるクリニックをエリアや条件別にまとめて紹介する他、LINEで妊活相談ができるサービスも展開している。
16人に1人が体外受精ベイビー
11月23日、菅義偉首相は不妊治療の助成について「所得制限を撤廃したい」と明言した。
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女性起業家の間で卵子凍結が密かに広がりを見せている背景には、卵子凍結などの生殖補助医療による妊娠がより広まってきたこともあるだろう。
日本産科婦人科学会が発表したデータによると、2018年に体外受精によって産まれた子どもの数は5万6979人で、過去最多となった。2018年の総出生数である91万8400人(厚生労働省統計より)で割ると、約16人に1人が体外受精で生まれた計算だ。
このうち最も多いのが、受精卵を凍結保存した後に融解して子宮内に移植する手法で、約9割(4万9383人)がこの手法を採っている。
止まらない少子化に歯止めをかけるべく、国は不妊治療への助成を拡充する構えだ。政府は2020年度第3次補正予算に必要な経費を計上する方針だ。
66億円調達の「卵子凍結スタートアップ」も
なお、スタートアップの聖地・シリコンバレーでも、卵子凍結をはじめとする不妊治療ビジネスはトレンドになっている。2014年、フェイスブックとアップルは、女性社員に2万ドル(約207万円)の卵子凍結手当を福利厚生として提供したことで注目を集め、グーグルなどの他のテック企業も追随した。
2010年代後半に入ってからは「卵子凍結スタートアップ」の盛り上がりが顕著だ。不妊治療や卵子凍結サービスを提供するニューヨーク発の「Kindbody」は2018年の設立後に急成長を遂げ、2020年の時点で、GV(旧グーグル・ベンチャーズ)を含む投資家から総額6400万ドル(約66億4000万円)を調達している。
2016年に創業した、社員向けに不妊治療の支援サービスを提供する「Carrot」は累計で4000万ドル(約41億5000万円)以上を調達。Slack、Box、FourSquareなど約100社が導入しているという。
クーリエ・ジャポンによると、こうしたサービスの特徴としてユーザーが若年化していることがあり、多くのサービスのターゲットが20代から30代前半の女性だという。
前出のステルラ社長の西さんも、企業の福利厚生で不妊治療や卵子凍結のサポートをするサービスを構想中だ。しかし受け入れ先企業の反応から、日本ではまだまだハードルが高いという現状も明かす。
「オスにならなきゃ」という強迫観念
「健康な女性の未受精卵の凍結」の是非については、専門家の間でも意見が分かれている(写真はイメージです)。
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20代〜30代の出産適齢期に組織のトップとして働かなければならない女性たちにとって、卵子凍結は救いの一つとなるのだろうか —— 。30代後半になって受精卵での凍結を完了した連続起業家のBさんは「経営をしていた時は、妊娠・出産のことはとても考えられなかった」と語る。
20代でスタートアップの経営層となったBさんはがむしゃらに働き、会社を数十億円規模でM&A(イグジット)することに成功した。
当時を知る人が今の自分を見たらその変わりように驚くだろうな、と苦笑しつつ、ほんの10年ほど前のスタートアップ業界での“常識”を、Bさんはこう振り返る。
「経営をしていた時は、すごくピリピリしていて、常に『“オス”にならなきゃ』という強迫観念がありました。子どもについて悩まなくていい男性っていいよねと、女であることを呪ったりもしました。男性社会で戦う上では、妊娠や出産について考えることが“弱さ”になってしまう。そう思い込むうちに、子どもが欲しいという思いを、封印してしまっていたんです」
子どもについて考え始めたのは、企業売却を経て落ち着いてきた35歳頃のこと。
「友人で不妊治療をする人が増えてきて、卵子も老化するんだ、とハッとしたんです。30代後半になって、危機感が急に出始めて。そこで体外受精で妊娠した友人から『検討してるならすぐにしたほうがいい』と勧められたんです」
すぐに出産へ踏み切ることもできたが、起業や経営で多忙で想いを封印していた分、本当に子どもが欲しいのかをきちんと自分自身に問いたかった —— とBさんは語る。
友人から体外受精で有名な都内の病院を紹介してもらい、何度かの通院を経て2020年の春先、パートナーと受精卵での凍結を完了した。
「35歳までの自然妊娠」阻むのは?
「35歳までの自然妊娠」を阻む大きな要因の1つとして、“産んだ後の仕事との両立”に対しての不安が挙げられる。
撮影:今村拓馬
なお、健康な女性による未受精卵の凍結の是非については、専門家の間でも意見が分かれている。
日本生殖医学会は2013年に初めて、健康な未婚女性の受精していない卵子の凍結に関するガイドラインを提示した。対して日本産科婦人科学会は、母体へのリスクなどを考えると35歳までの自然妊娠が望ましいという考えから「推奨しない」という見解を崩していない。
母体の健康リスク、女性の「産む自由」、生の商業化……。テクノロジーによって生殖医療は進化を続けているが、出産までの「時間稼ぎ」については、国内外で慎重な議論が続けられている。
しかしそもそも、今回話を聞いた女性起業家たちのように、早期にキャリアをバリバリと積みたい人が卵子凍結の選択をせず、出産・子育てをすることは不可能なのだろうか。
日本産科婦人科学会で「望ましい」とされる「35歳までの自然妊娠」ではなく、今回取材に応じてもらった女性たちのように「生殖医療を使って、産む決断に時間の猶予を得る」。この選択をする人たちの、本当の理由はなんだろうか。
一つの要因として考えられるのは、仕事での成長を重視する女性が直面する、「産んだ後の仕事との両立」の問題だ。
「男性社会で戦う上では、妊娠や出産について考えることが“弱さ”になってしまう」と、前出の起業家女性のBさんの言葉が指し示すのは、「妊娠」だけの問題ではないだろう。
総務省の「社会生活基本調査(2016年)」によると、6歳未満の子どものいる世帯で妻の1日当たりの「家事・育児関連時間」は454分で、時間で測ると家事や育児の85%を妻が担っている計算だ(夫は83分)。
女性に不均衡な家事負担が重たくのしかかっており、女性が「産みやすい」そして「育てやすい」環境を作るためには「男性の家庭進出」が並行して必要であることは、疑いの余地がない。
取材が終わり、記事を書いている途中、受精卵凍結を済ませたBさんから、SNSでメッセージが届いた。
「来年、受精卵を戻すことに決めました。落ち着いてじっくり自分の心に問うてみたら、やっぱり子どもが欲しい、という結論だったので」
(文・西山里緒)