前回に引き続き、対談相手はデビュー作『世界は贈与でできている』が話題の教育者・哲学研究者の近内悠太さんです。『鬼滅の刃』をはじめ、今売れている作品には誰かを何を贈り、また贈られる「贈与」の物語の要素が必ずあると言います。後編でさらに、その点を深めていきます。
——贈与という何かを贈り、贈られる行為は人を強く結びつける。しかし、贈与には良いもの、良い結びつきを生むものもあれば、悪いもの、悪い結びつきを生むものもある。
一方で、『鬼滅の刃』をはじめ、売れている漫画は良い側面の贈与の物語であることが多いとのことでした。他にも、こうした贈与の物語で思い当たる作品はありますか?
山口周氏(以下、山口):考えてみると、映画も「ものすごくいい映画だったな」とか、売れる・売れた映画は、贈与への気づきがテーマであることが結構ありますね。ちょっと古いけれど、『ニュー・シネマ・パラダイス』なんかそうでしょう。さえない映写技師と映画好きの少年の交友の物語で、最後のシーンは特に贈与の良い効果を思い起こさせます。
少年はすでに大人になって映画監督として成功しているのですが、映写技師が亡くなったという知らせを受けて、お葬式に行くと形見を渡された。当時イタリアではキスシーンが上映できなかったので全部カットしていた。カットしたシーンを集めたものを、主人公は子どもの時に映写技師に「ちょうだい」とお願いしていたのですが、それだったんです。
彼は子ども時代、中身を知らずに映写技師にお願いしたのだけど、「やるけど、俺が預かっている」と言われていた。そしてまさに最後に送られてきた形見が、その膨大な量のキスシーンだけをつなぎ合わせた長いフィルムだった。でも、亡くなってしまっているのでもうお返しはできない。
近内悠太氏(以下、近内):「もうお返しはできない」というのが、まさにやはり贈与的ですよね。
山口:「ごまかされて、結局くれなかったな」と本人も忘れているようなエピソードだったのだけれども、最後の最後で、映写技師として働く人生の間にずっと、彼のためにため続けてくれていたこと、その「贈与」に気づく。あの映画の醍醐味です。
近内さんが言っている「もうお礼はできない」、時制のずれ、気づきの遅れのある贈与。こういう贈与はものすごくエモーショナルで、こうした贈与に人は強くつき動かされる。
——そう考えると、確かに、『世界は贈与でできている』かもしれない……。
資本主義のすきまを埋める、とは?
山口:副題についても教えていただけますか。「資本主義の『すきま』を埋める倫理学」とのことですが、文中でも何回か、資本主義のすきまに触れています。この言葉に込めたメッセージは何ですか? 今、むしろ、資本主義はもうダメだといった本も結構売れています。
近内:僕は普段、知窓学舎という塾で数学を教えていますが、教育を仕事にする中で、そんなに簡単に他者は変化しないし、動かないという思いを持つようになりました。
実際、生徒に何回同じ話をしても聞いていないこととか容易にある。ただ単に言葉や知識を教えるだけでは覚えてくれないのだけど、遠回しでも、まさにすきまを埋めるように物語的な言葉で語ると変わってくれる。自ら考えて行動してくれるようになるという感覚が非常にあります。
社会を何か変化させたいという時も同じで、いきなり資本主義はもうやめろとかダメだとか全部変えようとすると多分失敗する。前編で話した臓器提供の登録と同じで、善の行為であっても強制した途端にディストピアが生まれてしまう。
だからむしろ、すきまを埋めるところから、遠回りなところから始めるべきだ。そういう意味を込めています。
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山口:贈与もあくまで資本主義のすきまを埋めるためのものにとどめないといけない、ということですね。「とてもいいので、贈与させるための仕組みを作りました。みんなができるようにしました。どんどんやっている人が増えています」としてしまうと、非常に危険な全体主義を呼び込む鈴になり得る可能性がある。
近内:そうです。すきまという、暗黙のすごく隠されたところに潜んでいればいい。明示的なものとして語った時に遊び心みたいなものが全部消え失せてしまって、贈与の、もらったことに「気づかない」「気づけなかった」といった最も大事な要素が消えてしまう気がするんです。
教育制度もそうかなと思うのですが、授業の終わりに生徒から「はい、じゃあ今日いくらです」とお金を集めたりは普通はしませんよね。
当然、親などを通してお金はもらっているのですが、いったん学校や塾に支払われたものが教師や講師に支払われ、教師らは「あの授業のこの部分がこのお金だな」とかはあまり思わない。そこは通常は隠されていて、生徒に対峙している時は、金銭についてほぼ考えずにいられる。これは資本主義だからできていること。市場経済の中でやっているから、こういう場を立ち上げられるんだと思います。
実際は、極めて交換的なもののやり取りをしているけれど、いったんそれがなかったことにされている。学校など実際、さまざまな形を我々はすでにつくってきたはずです。
受け取っていたことに気づくことはできる
——資本主義も決して悪いことばかりではなかったのかもしれませんね。
近内:大事なのは、受け取っていたこと、贈与に気づくという能力は万人に等しく与えられているということ。今、自分は与えられていないと思っている人が多くて、それがいろいろな分断を生んでいる。「私は受け取っていない」と思ったり、言ったりしがちですが、「でも何かは受け取った経験があるんじゃないか」と。そこに気づくことだけは誰にでもできるはずです。その気づきで社会が良くなっていくんじゃないかと思うんです。
山口:次の作品、今もう何か書いているんですか?
近内:やはり人と人の間のこと、「我と汝」の話だったり、コミュニケーションだったり、自由意志の問題だったり。結局どうすれば僕らは甘えたりできるんだろうねということを書きたいんです。
『鬼滅の刃』ではないですけれど、どうすれば弱さというものを何とか認めながら人間らしく振る舞うことができるか、ということはずっと考えています。
リーダーであるほど「助けてください」と言える
山口:「助けてください」と、いかに言えるようになるかですね。これ、リーダーシップ論でもよく言われるんですけど、実はリーダーであればあるほど適切な時に「助けてください」と言えるんですよ。
近内:面白いですね。その判断がちゃんとできるというのがリーダーの条件だということですね。
私はこれまで塾で数学を教えてきたのですが、大学受験とか入試のために何かを教えるというのは、もうそろそろいいのかなと思ってます。それと関係なく「マルクスって何がすげえかというと、こういうことで……」とか、「フロイトっていうのはね」とか、大学1~2年生が大学で学ぶ教養講座みたいなものが、なぜ一般向けにないのだろうと思うんです。
どこそこの偉い先生が出てきてというのは、今でもカルチャーセンターなどではありますが、もうちょっと若い世代に語れる場があればいい。大学とかではなく市場経済の中で勝手にやっていけばいいかなというのは、ちょっと思っています。
山口:それは、ぜひお願いしたい。楽しみです。
(構成・三木いずみ、写真・伊藤圭、デザイン・星野美緒)
山口周:1970年生まれ。独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。World Economic Forum Global Future Council メンバー。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了後、電通、ボストン・コンサルティング・グループなどで経営戦略策定、組織開発に従事した。主な著書に『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』など。
近内悠太:1985年生まれ。教育者・哲学研究者。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。『世界は贈与でできている』はデビュー著作。