Joe Raedle / Getty Images
11月7日、午前11時半ごろ、バイデンの大統領当確速報が流れると、ニューヨークの街ではそこらじゅうから歓声と拍手が起き、1日中クラクションが鳴っていた。2008年にオバマが当選した時の興奮も凄まじかったが、今回は単なる興奮よりも「やっとこれで息ができる」というような安堵感が強かった。
その夜の演説でバイデンとハリスは、各々
「我々は、全ての人の大統領・副大統領になります。私たちに投票してくれた人たちだけでなく、そうでない人たちのためにも力を尽くします」
と強調していた。「癒し」のプロセスがやっと始まる……と安心した人も多かったと思う。
ただ、歴史的に高い投票率を記録した今回の選挙は、バイデン8000万票、トランプが7300万票と、国の分断を明確に示すものだった。
そしてこの分断は、昨日今日始まったものではない。
私たちが今見ている亀裂は、1993-2000年のクリントン時代、2001年からのブッシュ息子の時代、2009年からのオバマ時代、そして過去4年のトランプ時代を経て徐々に深まり、過去4年で劇的に悪化し可視化されたものだと思える。これを修復するのには、4年や8年ではとても無理だろう。
Divided States of Americaという現象
トランプ支持者たちは、バイデン当確が出た後も、「選挙は不正」と訴え続けている。
REUTERS / Tom Brenner
2018年8月の世論調査によると、「民主党と共和党は、政策やその実行方法についてだけでなく、基本的な事実関係についてすら合意できない」という命題に、78%のアメリカ人がイエスと答えている。事実は一つしかないはずなのに、あらゆることが政治化され、客観性をもった議論ができなくなっている。さらにこの4年で、自分たちに都合の悪いことは「フェイクニュース」と言ったり、陰謀論で片付けようとしたりすることが急速に進んでしまった。
民主主義は、異なる意見を持つ者同士の「対話」があって初めて前に進めるシステムだ。
今アメリカでは、その対話が事実上機能しておらず、対立が深まる一方になっている。一つの国の中に二つの全く違うアメリカがあり、互いに徹底的に忌み嫌っている。両者とも「敵は、悪意を持って動いている」と猜疑心を抱き、相手を「Demonize(悪魔のように扱う)」することが当たり前になってしまった。「United States of America ではなくて、Divided States of America だ」と言われることも珍しくなくなった。
しかもこの現象は、アメリカだけでなく、日本も含め多くの社会で同時に進行している。
イデオロギーの違いはいつの時代にもある。過去の人々は、どうやって違いを上手く乗り越えていたのだろうか? ソーシャル・メディアに毒された現代の我々が、リベラルも保守も「Echo Chamber(反響部屋)」やフィルターバブルにより、どんどん独善的に、偏狭になってしまっているだけなのだろうか?
Jefferson-Adams Friendship
Jefferson-Adams Friendshipを象徴するシーン。アメリカの建国に尽くした2人も生涯、愛憎にとらわれていた。
Shutterstock.com / Everett Collection
「政治的信条の異なる相手であっても互いに認め合い、友情を築くことができるか、人として愛することができるか」という命題は、古くて新しい。
アメリカ史上、最も有名で古い「Frenemies (Friend と Enemy の合成語。つまり、敵/ライバルであり、かつ友人でもあるという関係)」は、トマス・ジェファソンとジョン・アダムズという建国の父だ。英語で「Jefferson-Adams Friendship」という言い回しがあるくらい、2人の愛憎関係と生涯にわたる因縁は有名な話だ。
ジョン・アダムズは合衆国第二代大統領、トマス・ジェファソンは第三代大統領だ。彼らは、アメリカ独立宣言を準備するための委員会で一緒に働き、友情を育んだ。性格も見た目も似ても似つかない2人だったが、1780年代には共に欧州で暮らし、家族ぐるみの付き合いをするようになる。ただ、政治的思想は大きく異なっていた。
やがて政敵となった2人は大統領選で醜い争いをし、12年間一言も交わさないほど疎遠になる。しかし晩年、文通を再開し、膨大な数の手紙のやり取りを通して信頼と友情を取り戻す。亡くなる3年前の手紙の中で、ジェファソンは、
「年をとって手が不自由になり、書くのに苦労するようになった。時間もかかる。でも、君に手紙を書いている間は、そのことすら忘れる。若く、健康で、全てが素晴らしく思えた大昔のことを思い出すから」
(“Crippled wrists and fingers make writing slow and laborious,” “But while writing to you, I lose the sense of these things, in the recollection of ancient times, when youth and health made happiness out of every thing.”)
と書いている。
1826年7月4日、2人は奇しくも、数時間の時間差で亡くなった。アメリカ独立50周年の独立記念日だった。
バイデンの涙のスピーチ
党派は違っても、お互いを尊敬し合っていたマケイン(左)とバイデン。
Getty Images / William Thomas Cain
ジョン・マケインとジョー・バイデンの友情は、現代版「Jefferson-Adams Friendship」の例として知られ、この大統領選の間にもしばしば話題になった。
2人は1970年代に仕事を通じて出会い、1980年代以降はずっと上院の同僚だった。バイデンは民主党、マケインは共和党。上院のフロアでは、政策についてしょっちゅう激しい舌鋒を戦わせることで知られた。
当時のある同僚は、「2人は、他人が見たら『お互いのことがさぞかし大っ嫌いに違いない』と思うような言い争いをするんです。でも、その夜に2人で夕食を食べていたりするんですよね」と証言している。
この夏、民主党大会で公開された、バイデンを支援するマケイン夫人のビデオは話題を集めたが、その中で彼女が述べていることも上記と重なる。2人はどんなに議論しても仲が良く、ジョークを飛ばし合い、お互いの愛国心を尊敬し合っていた。党派を超えて、国のために協調できる政治家だったと。
ビデオの中には、生前のマケインがバイデンにあてた言葉も含まれている。
「何よりも、君の友情に感謝する。私の人生、それに多くの人々の人生を豊かにしてくれてありがとう」
2018年、マケインの葬儀での、ジョー・バイデンのスピーチもいい。
「私の名前はジョー・バイデン、民主党です」
とバイデンが言うと聴衆は笑う。でも続いての言葉、
「そして、私はジョン・マケインを愛しています」
で静まり返る。バイデンは涙を拭いながら、こう言った。
「私はこれまでずっとジョンのことを兄弟だと思ってきました。しょっちゅう喧嘩をする兄弟」
「私は自分の命を預けられるくらい、全面的にジョンを信頼していました。彼も私に対してそう思っていてくれたはずです」
スピーチの中でバイデンは、党派を超えた彼らの友情が、周囲から珍らしがられること自体がおかしいと語り、
「党派による分裂は、1990年代中盤から始まり、今日に至るまでどんどん悪くなっている」
「政策の本質ではない部分で反対側を攻撃するようになっている。これでは、国を前に進ませることができるわけがない」
と半ば怒りながら訴えていた。
葬儀にトランプを呼ばなかったマケイン
マケインはベトナム戦争で捕虜として捉えられ、長期間の拷問に耐えたことで知られる。祖父、父ともに著名な軍人である彼は、特別に早期解放の可能性を提示されたが、自分だけ解放されることを拒み、5年以上の捕虜生活を送り、帰国後政界に入った。当時負った怪我のせいで、一生体に不自由があった。アメリカでは「War Hero」と呼ばれる存在だった。
トランプは2015年、マケインについて「彼は英雄なんかじゃない。捕虜として捕まったから英雄扱いされているだけじゃないか。私なら、捕まらない人の方がいいと思うけどね」と発言し、共和党議員たちからすらも顰蹙を買った(トランプ自身は、戦争に行ったこともない)。
脳腫瘍と診断され、先が長くないことを知ったマケインは、自分の葬儀について綿密な計画を立てており、招待客も自ら決めていた。トランプは招かないように、というのもその指示の一つだった。マケイン夫人も同じ気持ちだったと述べている。
今回の大統領選では、アリゾナ州で民主党が勝利した。1996年にビル・クリントンが勝ち取って以来、初めてのことだ。
この歴史的なシフトには、人口構成の変化(移民の増加、都市部に若いプロフェッショナルが増えていること)、過去数年間にわたる民主党の草の根努力など複数の理由があると分析されているが、私は、アリゾナ州を地盤とし、長年地元民たちから尊敬されていたマケインに対するトランプの度重なる侮辱、マケイン夫人によるバイデン応援が少なからず影響したのではないかと思った。
喝采を浴びたマケインの敗北宣言
激しい大統領選を戦いながら、お互い敬意を持っていたマケインとオバマ。
Getty Images / Frank Polich-Pool
そのマケインと2008年の大統領選で戦ったオバマとの、互いへの敬意に満ちた関係も、今回の選挙の間しばしば引き合いに出された。特に、トランプ大統領が未だに敗北宣言をしないことに対しての注目が集まるにつれ、2008年のマケインの潔い敗北宣言が話題になった。
冒頭、マケインが
「オバマ上院議員にさっき電話をしました。私たち2人が愛するこの国の次期大統領になる彼に祝福を述べるためです」
と言うと、聴衆はブーイングをする。マケインはそれを手で制しながら、オバマの非凡さを称え、この選挙がアフリカ系アメリカ人にとってどれほど特別な意味を持つか、これがアメリカという国にとってもいかに祝福すべき歴史的な出来事であるかを雄弁に述べた。
「今回の選挙戦は、長く困難な戦いでした。その中で彼が見せた能力、忍耐力に支えられた成功には敬意を払わざるを得ません。しかし、何より賞賛すべきなのは、彼が何百万人ものアメリカ人、特に、『大統領選なんて自分とは関係ない』と思い込んでいた人々をインスパイアし、彼らに希望を与えることによって、この度の勝利を成し遂げたことです」
(In a contest as long and difficult as this campaign has been, his success alone commands my respect for his ability and perseverance. But that he managed to do so by inspiring the hopes of so many millions of Americans, who had once wrongly believed that they had little at stake or little influence in the election of an American president, is something I deeply admire and commend him for achieving.)
最初ブーイングしていた聴衆がマケインの言葉に徐々に動かされ、最後には喝采を送る。この演説には、マケインの価値観、公正さ、愛国心がよく表れており、聞く者の心を打つパワーがあった。使われている言葉も格調高く、普遍的な理想について語っている。「敗北宣言は、政治家にとって最も重要な演説」と言われる。その人の本質が露わになるからだ。過去の敗北宣言には名演説が数多いが、マケインのこれは特に歴史に残るべきスピーチだろう。
オバマへの中傷否定したマケイン
アメリカに住む多くの人々は、このマケインの演説を聞きながら、その数カ月前に起きたある出来事、その時の彼の姿を重ねて思い出していたと思う。
キャンペーン中、あるマケインの集会で、質問に立った支持者の1人が「オバマは信用できない。彼はアラブ人だから」と言った。マケインは彼女のマイクを取り上げて、
「いいえ、違います。彼は立派な、家族を大切にするアメリカ国民です。たまたま彼とは私は、基本的な問題について考えが合わないだけです」
と、毅然とした態度でオバマを擁護した。正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、姑息な戦い方はしない、というマケインの姿勢が垣間見られた一瞬だった。
このエピソードについてオバマは、
「ありがたいことだとは思ったが、ジョンはそういう風に筋の通った人だと知っていたので、私はこの話を聞いても特に驚かなかった」
と述べている。
また、選挙直前に開催されたチャリティ・ディナーで、オバマとマケインがそれぞれのスピーチの中で相手を貶すジョークを飛ばし合い、大笑いしている姿も今では懐かしい。
このディナーの席で、マケインがオバマに贈った言葉も印象的だった。
「大きな声では言えないことですが、私のライバルであるオバマ氏は、多くの意味において卓越した人物です。政敵という立場にいると、相手のいいところを素直に認め合うのが難しかったりするものです。私はこれまでに彼の素晴らしさのごく一部を垣間見たに過ぎませんけれども、その能力、エネルギー、意志の強さに敬意を抱いています。」
(I don't want it getting out of this room but my opponent is an impressive fellow in many ways. Political opponents can have a little trouble seeing the best in each other. But I have had a few glimpses of this man at his best. And I admire his great skill, energy, and determination.)
「彼が、自分の党内とそれ以外も含めた多くの人々をインスパイアしてきたということ自体、注目すべきことです。オバマ上院議員は、『歴史を作る』と語っていますが、彼は既に相当な歴史を作りました。我が国には、アフリカ系アメリカ人市民をホワイトハウスでの食事に招待するだけでスキャンダル扱いされるような時代がありました。今日の世界は、そのような残酷で高慢な差別主義とはほど遠いものになりました。そんな卑劣な伝統は、なくなるべくしてなくなったのです。」
(It's not for nothing that he has inspired so many folks in his own party and beyond. Senator Obama talks about making history and he has made quite a bit of it already. There was a time when the mere invitation of an African-American citizen to dine at the White House was taken as an outrage and an insult in many corridors. Today is a world away from the cruel and prideful bigotry of that time and good riddance.)
マケインとオバマは、ホワイトハウスで2人きりで語り合う時間をしばしばもっていたそうだ。政策についての考え方の違いは常にあったものの、家族の話や人生の話をし、よく笑い合ったという。マケインの葬儀で、オバマはこう語っていた。
「ジョンと私は、ありとあらゆる種類の外交問題について違う意見を持っていた。しかし、アメリカという国の役割についての考え方は一致していた。アメリカは、世界になくてはならない、代わりのない国であると。そして共に、大きな力と恵まれた地位にある者たちには、大きな責任が伴うのだと信じていた。」
(“… while John and I disagreed on all kinds of foreign-policy issues, we stood together on America’s role as the one indispensable nation, believing that with great power and great blessings comes great responsibilities…")
「我々は決して、相手の真摯さや愛国心を疑うことはなかった。さまざまなことで意見が異なり、もめたとしても、究極的には自分たちは同じチームで戦っているのだと知っていた。そのことを疑うことは絶対になかった。どんなに違いがあっても、我々は、同じ理想への忠誠心を共有していた。我々の先人であるアメリカ人たちがそのためにマーチし、戦い、犠牲を払い、生命まで差し出してきたその理想への忠誠心を。」
(“We never doubted the other man's sincerity or the other man’s patriotism, or that when all was said and done, we were on the same team. We never doubted we were on the same team. For all of our differences, we shared a fidelity to the ideals for which generations of Americans have marched and fought and sacrificed and given their lives.”)
全文:Barack Obama’s Eulogy for John McCain (The Atlantic)
ビデオ:Watch Obama’s Full Eulogy for McCain(The New York Times)
クリントンは「腹違いの兄弟」
クリントンとブッシュ父、災害の支援活動などを通じて深く付き合い、家族ぐるみでの親交が続いたという。
Getty Images / Spencer Platt
大統領選で激しく戦ったものの、その後、生涯にわたる深い友情を築いたコンビとして今日最も有名なのは、ブッシュ父とビル・クリントンだ。2人はよく一緒にゴルフを楽しみ、クリントンはしばしばメイン州にあるブッシュ邸に泊まりがけで遊びに行っていた。
2人の仲の良さはブッシュ家でも面白がられており、ブッシュ息子も、クリントンのことを今では「腹違いの兄弟」と呼ぶほどに親しい。クリントンがある手術を受けた時、ブッシュ父がしょっちゅう電話をかけてきては、こうしろああしろと心配していたという話もよく知られている。
その時のことを振り返って、ブッシュ息子は、スピーチでこう言っている。
「手術の後、ビルが目を覚ますと、愛する人々に囲まれていました:ヒラリー、チェルシー……そして私の父」
ブッシュ父とクリントンが2004年の東南アジアの津波、2005年のハリケーン・カトリーナの際、チームを組んで、資金調達に奔走し、被災地を訪れていた姿を覚えている人も多いだろう。これは、そもそもブッシュ息子のアイデアだったというが、これを機に、この2人は強く結ばれることになった。
1992年の大統領選は激しい戦いで、ブッシュとクリントンは、お互いを猛烈に攻撃し合った。当時46歳だったクリントンは、ブッシュの年齢について繰り返し発言し、「年寄り」と呼んだ。ブッシュもクリントンの経験の浅さを批判し、「うちの犬の方が、クリントンよりもよっぽど外交について知っている」とまで言った。アメリカ人の多くはいまだにこの応酬を覚えている。
「正直な議論は民主主義を強くする」
大っぴらにお互いを傷つけあった後、なぜそんなに仲良くなれたのか。クリントンは、ブッシュ父の努力によるところが大きいと言っている。自分を負かせた若いライバルに手を差し伸べるために、年長者のブッシュは、自分のプライドを脇に置かなくてはならなかっただろうし、それは誰にでもできることではないと。生前、ブッシュ父は、「ビル・クリントンは現代のアメリカにおいて最も才能ある政治家のうちの一人だ」とまで言っている。
Inside the Surprising Friendship Between George H.W. Bush and Bill Clinton(TIME)
2018年、ブッシュ父が亡くなった翌日、12月1日のワシントン・ポストにビル・クリントンがブッシュの死を悼む文章を寄稿し、アメリカでは大変話題になった。
冒頭には、ブッシュ父が激しい大統領選から2カ月後の1993年1月、次期大統領として着任するクリントンのために、机の上に残した手紙について語られている(写真も掲載されている)。退任する大統領が次期大統領に手紙を残すというこの伝統は、レーガンが1989年に始め、ブッシュ父が引き継ぎ、今日まで続いているが、歴代の大統領の手紙の中でも、ブッシュ父のそれは特に伝説になっている。
その手書きの手紙は、シンプルながらとても温かく、ブッシュの人間としての賢さ、謙虚さが表れた文章になっている。
▼ブッシュがクリントンに宛てた手紙(1993年)
「Dear Bill,
When I walked into this office just now I felt the same sense of wonder and respect that I felt four years ago. I know you will feel that, too.
I wish you great happiness here. I never felt the loneliness some Presidents have described.
There will be very tough times, made even more difficult by criticism you may not think is fair. I’m not a very good one to give advice; but just don’t let the critics discourage you or push you off course.
You will be our President when you read this note. I wish you well. I wish your family well.
Your success now is our country’s success. I am rooting hard for you.
Good Luck — George」
(親愛なるビルへ、
たった今このオフィスに入ってきた時、4年前ここに足を踏み入れた時に感じたのと同じ驚嘆の思いと、このオフィスに対する畏敬の念を感じた。君も同じことを感じるだろう。
君がこのオフィスで素晴らしい幸せを得られることを願う。何人かの大統領たちは孤独について語っているが、私はここで孤独を感じたことは決してなかった。
非常に難しい時もあるだろう。そしてそれは、周囲の批判によってより一層難しいものに感じられるだろうし、君はそれらの批判を不公平だと感じるかもしれない。私はいいアドバイスができる立場にはないが、これだけは言っておこう。君を批判する人たちがいても、それによって意気消沈したり、自分の道から外れてはいけない。
この手紙を読む時、君は「我々の」大統領だ。君の幸せを祈る。君のご家族の幸せも。
これからは、君の成功が我が国の成功だ。私は君のことを一生懸命応援しているよ。
幸運を祈って、ジョージ)
クリントンは、こうも書いている。
「我々の親しさについては、多くの人が訝しがっていた。かつては政敵だったのにと。確かに我々2人にはかなりの違いがあった。でも、私は彼の大統領としての多くの功績を尊敬していた」
「ブッシュ元大統領と一緒に仕事ができたことは、私の人生の中でも最も名誉なことの一つだ」
「そしてさらに重要なことがある。ブッシュ元大統領は、政治的な戦いにおいてはキツい相手だったが、それはいつも正しい理由のためだった。政治よりも常に人を尊重し、党派政治よりも愛国心を大切にしていた。我々は『全てについて合意することはありえないけれども、違う意見でも良いのだ』という点では合意していた。正直な議論は、民主主義を強くするものだから」
(Even more important, though he could be tough in a political fight, he was in it for the right reasons: People always came before politics, patriotism before partisanship. To the end, we knew we would never agree on everything, and we agreed that was okay. Honest debate strengthens democracy.)
「正直な議論は、民主主義を強くする」
これこそがまさに今のアメリカに欠けているものでもある。トランプは「Make America Great Again(アメリカを再び偉大な国にしよう」と言ったが、実際のところ、アメリカはこの4年で弱くなった。特に、民主主義のクオリティという意味で。
ミシェル・オバマとブッシュ息子のハグ
2016年9月、トランプが大統領に当選する2カ月前、ある1枚の写真がメディアに大きく取り上げられ、SNSでも爆発的に拡散された。National Museum of African American History and Culture(国立アフリカン・アメリカン歴史・文化博物館)の開館セレモニーで、いかにも仲良さそうにハグして微笑むジョージ・W・ブッシュとミシェル・オバマの姿だ。
USA Today:First lady Michelle Obama's hug shows 'genuine affection' for George W. Bush
NYT:Michelle and George: The Embrace Seen Around the World
この頃のアメリカでは、相手が誰であろうと人格的に攻撃し、市民の危機感や差別意識を煽り、憎悪を駆り立てるようなトランプ式キャンペーンがメディアを賑わせていた。そんな時に、ブッシュ息子とミシェルという、政治的にはどう考えても相容れなさそうな2人が、とても演技とは思えない親しさを公の前で見せたことは、新鮮で、心和むエピソードとして広く報道された。
ブッシュ父の葬儀には、歴代大統領が出席した。
REUTERS / Alex Brandon
2018年にはマケインの葬儀、ブッシュ父の葬儀の二つの席で、ミシェル・オバマにのど飴を渡すブッシュ息子の姿がカメラに映り、これも親しさを象徴する微笑ましい場面として話題になった。
「政党は我々を分断するものではない」
ミシェルは当時、こう言っている。
「正直、あれほどの反響があったことに驚きました。でも、良かったとも思っています。今の世界はあまりにも分断ばかりがクローズアップされていて、人々は、あんなちょっとした行為さえも新鮮に感じるようになっている。
そのくらい、政治を超えた人間同士の温かさや親切さの表現というものに人々が飢えているということだと思います」
ブッシュは2017年のインタビューでミシェルとの関係について聞かれ、
「今の社会はすごく変なことになっている。『政治的意見が対極にある人同士が、お互いを好きになるなんて、そんなことはあり得ない』って驚かれるんだから」
と答えている。
ミシェル・オバマもブッシュについて、こう述べている。
「私は彼のことが大好きなんです。彼は素晴らしい人、楽しい人です」
「政党は我々を分断するものではないと思います。肌の色、性別が我々を分断するものではないのと同じように」
「ブッシュ氏と私の基本的な価値観は同じです。私たちは個々の政策については違う考えを持っています。でも、人間として大切なもの、愛とか憐みの心などについては考えを共にしています」
彼女は分断の時代だからこそ、ブッシュや自分のような立場の大人が、若い世代に対して身をもって、分断を超えるメッセージを伝えていくことが大事だという。
「政治に対してはいろいろな考え方があっていい。でも、国を愛するなら、国をより良くするために、考えの違う人たちとも協力する道を見出さなくては」
ミシェルはローラ・ブッシュと、退役軍人や軍人の家族をサポートするプロジェクトに一緒に取り組んできた。2018年、トランプ政権による政策で、メキシコとの国境で多数の子ども達が親から引き離された時、ローラ・ブッシュはワシントン・ポストに寄稿し、「これは非人道的で許されない行いである」と強く批判したことがあった。
ミシェルはこの記事を取り上げ、「Sometimes truth transcends party.(時として真実は政党を超える)」というコメントとともにリツイートしている。
オバマ政権の間、ブッシュは、その政策について公に批判することを一切しなかった。
一緒にオペラに出演したRBGとスカリア
保守派の重鎮で知られたスカリア(前列左から2番目)とリベラルの代表的存在だったRBG(前列右側)も、信頼し合っていた。
REUTERS/Larry Downing
2020年9月に亡くなった最高裁判事ルース・ベイダー・ギンズバーグ(RBG)は両性の平等、マイノリティの人権のために貢献したリベラル派のアイコン的存在だった。
彼女が1980年代以来「私の一番の仲良し」と呼び続けてきたのは、最高裁の中でも筋金入りの保守として知られる判事、アントニン・スカリアだった。2人は法律的な思想では、真逆と言ってもいい。
しかし2人は30年以上、毎年家族ぐるみで年越しをするほど仲が良かった。RBGの机の上には、スカリアと一緒に行ったインド旅行の写真が飾られ、2人の関係を題材にしたコメディのオペラがあるほど友情の強さは有名だった。
2人は1980年代にワシントンの連邦控訴裁判所で同僚だった頃に親しくなった。ともにニューヨーク出身、年齢も近く、「アウトサイダー」(スカリアはイタリア系カトリック、RBGはユダヤ系の女性)。オペラ、ワイン、旅行が共通の趣味で、仲良く並んで観劇に出かけるのみならず、揃ってオペラにゲスト出演したことすらある。子どもたちによれば、2人は法律的な思想は違っても、非常に相性が良く、RBGはいつもスカリアのジョークを面白がっていたという。
スカリアはレーガンによって、RBGはクリントンによって最高裁判事に指名された。1993年、誰を指名しようか迷っていたクリントンがスカリアにこう聞いた。
「もし無人島に他の判事と2人で取り残されるとしたら、どの判事がいいか?」。スカリアは、躊躇なく、「ルース・ベイダー・ギンズバーグ」と答えた……と、RBG自身がのちに話している。
2016年にスカリアが亡くなった時、また今年RBGが亡くなった時、子どもたちは2人の特別な友情について数多くのインタビューを受けていた。スカリアの息子クリスはこの9月、ワシントン・ポストに「ギンズバーグ判事と私の父アントニン・スカリアの友情から私たちは何を学べるか」と題した寄稿をしている。
この中で彼は「2人の友情を不思議がる人々は少なくないが、多くの友情がそうであるように、実はシンプルな話だったのではないか」と述べている。
2人は人としてお互いが好きだったし、共通の趣味を持ち、互いと過ごす時間を楽しんでいた。克服し難い思想の違いについては重々承知していたので、法廷を出たら法律の話はしなかった。
ただ、お互いの違いをリスペクトしてもいた。スカリアはRBGが成し遂げた功績や、女性でありながら司法の頂点まで上り詰めたその経験を深く尊敬しており、彼女の意見に(同意できずとも)耳を傾けることが、法律のプロである自分にとって必要な学びになると知っていた。
また互いが自分の議論をより高めてくれる相手だったのだろうとクリスは指摘している。人工中絶、同性婚、銃規制など重要な問題について正反対の意見を持ち、意見を変えることはなかった。ただ、2人は真摯に議論し、反対側の論理について学ぶことで、自分自身の法律の解釈がより精度の高いものに磨かれるのだと信じていた。
スカリアは亡くなる直前、RBGの誕生日に、自分の部下に、「ギンズバーグ判事に2ダースの薔薇を持っていってくれないか」と頼んだ。部下は、「なんでそこまでするんですか? 彼女はいつも法廷であなたに反対するじゃありませんか」とからかった。スカリアは、「そんなことよりもずっと大事なことがあるんだよ」と言ったそうだ。
2016年のスカリアの死は、上院における共和党と民主党の戦いを激化させた(共和党は、オバマの選んだガーランド判事の承認プロセスを遅らせ、結果的にトランプが後任判事を任命した)。それから4年、2020年の大統領選直前のRBGの死を機に、再び上院で党派間の闘いが繰り広げられ、トランプの任命したバレットが強引なやり方で承認された(承認を支持したのは、共和党の議員のみ)。
スカリアやRBGがこの顛末を知ったら、「アメリカはそんなお粗末な国になってしまったのか」とがっかりするに違いない。
投票日翌日のツイートへの反響
バイデン当確の翌日11月8日に、民主党大統領候補の1人だったピート・ブーティジェッジがこんなツイートをした。
「もしあなたの愛している人、大切な人が、『反対側』に投票したのなら、今日、その人たちに声をかけてみるといいでしょう。政治の話をするためではありません。そうではなくて、なぜあなたが彼らのことを愛し大切に思うのか、そのことを彼らに(そしてあなた自身に)思い出させるような事柄について話すのです。」
(If someone you love and care about voted the other way, today might be a good day to reach out. Not to talk politics, but to talk about things that will remind them (and yourself) why you love and care about them.)
このツイートについているコメントの多くは「そんなの無理」「今回の選挙で争われたのは、単なる政治的違いという次元の話ではない」というものだった。
「政治的な考え方、政策についての意見の違いなら、乗り越えられる。でも、基本的な価値観の問題は、それとは違う。自分以外の人々をどう扱うかという問題は、政治以前の話です」
私自身、本当に親しい友人の中には、トランプを大っぴらに支持している人は1人もいない。つまり私も、結局は自分と似た考え方の人としか付き合っていないということだ。
ただ、トランプを支持した7300万人全員が人種差別主義者で性差別主義者なわけでもない。税金や健康保険制度の問題、宗教や価値観、経済はじめ、さまざまな理由でトランプに投票した人たちがいる。人はそれぞれ立っている場所によって、見えている景色が違う。体験も違う。そうなれば何を重要と考えるかも異なるのが当然だ。
自分とは違う場所に立っている誰かが見ている景色を想像するには、意識的な努力を要する。それをしないなら、私たちは、自分と似た人としか付き合うことのできない集団になってしまうのではないだろうか。それは、エンパシーのない人々の集団とも言えると思う。
Black Lives Matterは人種や世代を超えうねりとなった。
Getty Images/ Spencer Platt
エンパシーについて、イギリス在住の作家、ブレディみかこさんが『ぼくはイエローでホワイト、ちょっとブルー』で書かれていたことが印象に残っている。
「シンパシー」も「エンパシー」も日本語では「同情の心」とか「共感」と訳されがちだが、2つのニュアンスはかなり違う。
ブレディさんは、「シンパシーは共感や同情といった感情の動き」であるのに対し、「エンパシーとは、自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力」だと上手に説明している。「別にかわいそうだとは思えない立場の人々」という部分がキーだ。かたや、彼女の息子さんは「誰かの靴を履いてみること」だと言う。その通りだ。
ブーティジェッジはこの「エンパシー」に加えて人間としての「Decency(品位)」をもって、「反対側」の人たちに接することが大切だと言いたかったんだと思う。
これは上記で述べた、政治を超えて友情を築いた人たち全てに共通することでもある。自分と同じ考えを持たない相手に対しても敬意を持って接すること、その人がどうしてそういう考え方に至ったかを知ろうと努力してみること、その人生を想像してみること。相手の思想を理解できなかったとしても、相手と自分の共通点を探そうとしてみること、まっさらな人間としてともかく付き合ってみること、尊敬できる、好きになれる部分を探してみること。
そう考えると、結局のところ、現在社会に起きている分断は、我々の心に余裕がなく、エンパシーに乏しくなってきているから起きているのではないかと思えてくる。
誰も、自分以外の人がどんな履き心地の靴を履き、どんなものを背負いながら歩いているか、どんな景色を見ているのかはわからない。ただ「自分にはわからないけど、この人がこう考えるに至ったには、何か理由があるんだろう」と想像してみる努力はできる。できるはずだと思いたい。自分と同じ考えをしない人たちがすべて「敵」なのではないし、そうである必要もないのだ。(敬称略)
(文・渡邊裕子)
渡邊裕子:ニューヨーク在住。ハーバード大学ケネディ・スクール大学院修了。ニューヨークのジャパン・ソサエティーで各種シンポジウム、人物交流などを企画運営。地政学リスク分析の米コンサルティング会社ユーラシア・グループで日本担当ディレクターを務める。2017年7月退社、11月までアドバイザー。約1年間の自主休業(サバティカル)を経て、2019年、中東北アフリカ諸国の政治情勢がビジネスに与える影響の分析を専門とするコンサルティング会社、HSWジャパン を設立。複数の企業の日本戦略アドバイザー、執筆活動も行う。Twitterは YukoWatanabe @ywny