出典:アドビ
年始からの世界的な新型コロナウイルスの流行に伴い、世界中で予定されていたほぼ全ての大規模コンベンションは中止となり、その多くがオンライン開催へと移行した。現在では、オンライン開催の「デジタルのコンベンション」は当たり前になった。
だが、ふと見回せば、オンラインのコンベンションは、明確な成功と失敗に分かれている。
オンライン化する前に比べて数百倍の参加者を集めたイベントがある一方で、せいぜい数倍しか集めることができないイベントと、そのコントラストは残酷なぐらい明白だ。
オンライン開催で、この半年で成功を収めている企業としては、アメリカのソフトウェアベンダー・アドビの事例がある。
彼らのクリエイター向けイベント「Adobe MAX 2020」で仕掛けたことから、今求められる「オンラインイベントを成功させる要因」を紐解いていこう。
リアル開催でのべ1万7000人→オンライン化で「訪問者数200万人」
出典:アドビ
アドビは10月下旬に開いたクリエイター向けの年次イベント「Adobe MAX」において、2019年のリアルイベントの100倍以上の参加者(訪問者数、セッション数)を集めた。従来はフルの参加費で数千ドルというイベントが無料になった効果はあるにせよ、それだけで100倍以上にするのは簡単なことではない。
アドビ エクスペリエンスマーケティング担当副社長のアレックス・アマド氏によると、その成功の鍵は「デジタルでのフェイストゥーフェイス」、「グローバルとローカライゼーション」というキーワードにあったという。
「昨年の11月に開催したリアルイベントでの参加者は1万7000人だった。しかし、今年デジタルで行なわれたイベントでは延べで200万人の参加者(訪問者数)を集めた。Twitterからの流入も多く、基調講演は10万人を超えるユーザーがTwitter経由で視聴していた」(アマド氏)
ちなみにイベントそのものの登録者数は60万人。登録者数ベースで比較しても、大幅な増加と言える。
オンライン版Adobe MAXが成功した背景には、どんな工夫があったのか?
アマド氏に話を聞いていくと、その、その成功の背景には「デジタルでもフェイス to フェイスを実現すること」、「グローバルとローカライゼーション対応」の2つであることが分かってきた。
「デジタルでのフェイス to フェイスの実現」とは何か
アドビ エクスペリエンスマーケティング担当副社長アレックス・アマド氏。取材はアマド氏のホームオフィスと日本をつないで実施した。
オンライン取材を筆者キャプチャー
2019年までのリアルなコンベンションでは「顔をつきあわせる」ということが非常に重視されてきた。というのも、どこの世界でも当たり前の話だが、「同じ釜の飯を食う」ことは共同体の一体感を高めるために、最も効果的な手段の1つだからだ。
学生がサークルの合宿を遠くで行なうことでサークル全体の一体感を高めるのと、同じ効果をリアルなコンベンションは狙っている、
だが、デジタルではこれを実現するのは今の技術では難しい。「Zoom飲み会」のようなデジタル飲み会が結局は主流にはならなかったことで、そうしたことを肌身に感じている人もいるだろう。
アマド氏は、
「そうした対面の食事会などをデジタルでどう再現するかは今後の課題として残ったが、セッション後のQ&Aに関してはセッションが録画だったとしてもライブで行なうように仕様を変更した」
と、まずはやれるところとしてセッション終わりのQ&Aに関してはライブでやるという方式に変更した。
そして、1on1(1対1での幹部取材)や少人数のミーティングなどは、ビデオ会議アプリを利用した会議に置き換えた(実際、我々テックメディアのアドビの重役などへのグループインタビューはビデオ会議で実施された)。
実はアドビが4月に開いたデジタルイベントAdobe Summitでは、「セッションは録画」「ライブのQ&Aはなし」という、少し違った状態で行なわれていた。4月時点では「参加者が担当者に直接質問できる機会」はなかったわけだ。
「3月にAdobe Summitをデジタルで開くと決めてから開催する4月まで、1カ月しか時間がなく、(当時は)デジタル化するだけで精一杯だった。
対して、Adobe MAXでは随分前にデジタル化することを決定したので時間があったし、何よりAdobe Summitをデジタルで開催したという“レッスン”も既にすんでいた。
その中でお客様からのフィードバックで、“ライブこそが重要”と学び、キーノートもロサンゼルスからライブで生放送し、デモなど一部は録画で収録した」
言語の「グローカル化」。日本語化し、加工し、さらに他言語に翻訳
すべてではないながらも、主要セッションの動画には主要な各国語字幕がついた状態で配信されている(もちろん日本語も含まれている)。海外の大型オンラインイベントでは、こうした多言語対応は当たり前になりつつある。
出典:アドビ
そしてもう1つアマド氏が熱心に取り組んだのは、「グローバルとローカライゼーション」という、相対する命題への対応だ。グローバルをうたうイベントでも頻繁にみられる課題として、
- 地球は回っているので地域によって時差があるということ
- 必ずしも英語を理解できる参加者だけではない
この当たり前の事実を、人は忘れてしまいがちだ。
もちろん、リアルイベントでは物理的な制約があるため、時差問題はある意味でしょうがない。けれども、録画収録も可能なオンラインイベントであれば、「時差の制約の解決」は十分検討事項になりうる。
そして言語の壁も大きな課題だ。
ビジネスで使う外国語は英語であり、英語が話せれば海外とビジネスをするのに役に立つ。それでも、外国語が苦手なのは日本人だけではない。
アドビは今回こうしたニーズに対しては大胆な施策を打った。
そもそもAdobe MAXは「米国時間の朝に始まって、米国時間の夕方に終わるというスケジュール」ではなかった。
始まるのは米国時間の朝(午前9時)だが、終わるのも3日後の午前9時、つまり56時間ぶっ通しで放送することにした。最初の基調講演こそ、米国時間の朝に行なわれるが、日本向けには同日の午後1時にストリーミングが開始された。
Adobe MAX 2020のスケジュール。日本向けスケジュールをみると、夜中に放送していた基調講演(キーノート)が昼に再度日本向けとして放送するスケジュール。各国向けの時間のローカライズの1つ。
撮影:伊藤有
ユニークなことに、このAdobe MAXの基調講演は、米国で午前1時に放送された基調講演の内容と、日本のアドビが独自に作成したデモの動画を組み合わせたものになった。
「従来は本国のAdobe MAXと日本のAdobe MAXとは、ある程度内容が同期していたが、それでも別の内容として実施してきた。今回は同じ時期に実施するということで、Adobe MAXの本イベントの中に“日本語のコンテンツがある”という形にした。
そして、その日本のコンテンツは日本参加者だけが見ることができたのではなく、翻訳をつけて他の地域の参加者も見ることができるようにした」
つまり、コンテンツローカライズと同時に、そのローカライズの逆に「ローカルコンテンツのグローバル化」もした。これは珍しい例ではないだろうか。
ただし、課題も見えてきた。翻訳が人力作業にする他、なかったことだ。
マシンラーニング(機械学習)を利用したAIの翻訳ではないため、リアルタイムに提供することが難しかったという。
「マシンラーニングによる翻訳はある環境では優れているが、我々のようにクリエイティブ向けとすると、十分ではなかった。
そこで今回は人間による翻訳を利用することにした。将来的には、マシンラーニングを利用した翻訳が進めば、そうした形を提供していきたい」(アマド氏)
リアルイベントより「低コスト」で「100倍」の接触
Adobe MAX 2019の様子。リアルイベントだからこその「ライブ感がもつ価値」とは何か、をオンラインイベントでは問い直すことになる。
撮影:小林優多郎
イベントを仕掛ける多くの企業の担当者が気になる「コスト」についても、アマド氏はヒントを語った。
「具体的な額や詳細に関しては言えないが、昨年のリアルイベントに比べてトータルコストは減っている。その最大の要因は、リアルイベントでは必要になるフードやドリンク、会場やホテルの利用利金などの物理コストがなくなっているからだ」(アマド氏)
前述のとおり、2019年までのAdobe MAXはフルカンファレンスで参加費が数千ドルという高価な有料イベントだった。
今回は「無料」なので、全体収支上の直接比較はできないが、より少ないコストで同社のフラッグシップ製品である「Creative Cloud」のプロモーションができたのなら、アドビとしても満足度は高いだろう。
「今年のデジタルイベントでは、とにかく2つの事に注力してきた。1つは何よりも“イベントをデジタルであっても続ける”という継続性であり、2つめが“デジタルならではの、より良い体験”だ。
前者に関してはかなりの事が実現できたと考えているので、来年もこの状況が続きデジタルイベントであるとするならば、来年はもっと素晴らしい体験を顧客に提供できる」(アマド氏)
来年は。訪問者数200万人、登録者数60万人を上回る参加者を集めるためにどんな施策を打ってくるのか。
いま、アドビのイベントは同社の顧客だけでなく、コンベンション界隈からも大きな注目を集めるイベントとなりつつあると感じる出来事だ。
(文・笠原一輝)
笠原一輝:フリーランスのテクニカルライター。CPU、GPU、SoCなどのコンピューティング系の半導体を取材して世界を回っている。PCやスマートフォン、ADAS/自動運転などの半導体を利用したアプリケーションもプラットフォームの観点から見た記事を執筆することが多い。