学生時代に起業し、名刺の力をまざまざと見せつけられた小国士朗(41)。
NHKでは、その名刺の力によって、入れない場所に入り、普通は見ることができない光景を見ることもできた。
名刺に書かれた肩書きの強さ、便利さを、誰よりも享受してきた一人でもある。
しかし、独立に際して小国は、「肩書きのない名刺」を選んだ。小国の名刺に書かれているのは名前だけ。裏を返すと、これまで手がけてきたプロジェクト名が示されている。
「NHKの名刺を渡すと、みんなホッとした顔をするんです。ああ、この人はまっとうな人だろうな、と(笑)。僕、まっとうに見えないところがあるから、NHKの名刺に助けられてきたところもありました。
でも、いつも思っていたんですよね。『NHKのディレクターの小国です』って言えば、相手もわかったような気持ちになってくれる。でも、わかったつもりになって、本当は、わかっていないことっていっぱいあるなって」
だから、と小国は言う。
「名刺に肩書きを入れて、わかってもらったつもりになるのはやめよう。そのかわり、15分いただいて、自己紹介をしよう。そこでちゃんとコミュニケーションをしようと決めたんです」
「15分、時間をいただいていいですか?」
小国の名刺には、本当に肩書きがない。裏面には、プロジェクト名が並ぶ。
その言葉を聞いて思い出したことがある。
実は筆者は、この取材の7カ月前、ひょんなことから小国とZoom越しに話す機会があった。
あるイベントのアイデア出しをしていたとき、主催者が突然「そうだ! 小国さんを呼ぼう」と言い出したのだ。
「小国さんって、どんな方ですか?」
と尋ねる私に、その主催者は
「うーん、ひとことでは言い表せない人なんだよね。ま、本人と話してみればわかるよ。とても素敵な人」
と、言う。よくわからないまま、Zoom会議に呼ばれた私は、小国さんにこう言われた。
「15分、時間をいただいていいですか?」
そう言って、Zoomの画面の向こうでにっこり笑った小国さんは「自分が何者か」「これまで何をしてきたか」を、ゆっくりと、でも静かな熱を帯びた口調で語り始めた。
15分後、彼が見たいと思っている、あたたかく柔らかい世界の姿に、すっかり魅了されていたのは、言うまでもない。
肩書きがあると、枠に囚われる
企画した「プロフェッショナル 仕事の流儀」の登場人物になりきれるアプリ。以前は、実際に自己紹介にも使っていた。
提供:小国士朗
肩書きがない代わりに、15分で自分のことを話していいかと尋ねた小国との出会いは強烈だった。
「僕はプロジェクトが名刺だと思っているんです。だから、『NHKの小国さん』が、『プロフェッショナルのアプリの小国さん』に変わったときは嬉しかったし、『注文をまちがえる料理店の小国さん』と言ってもらえるのも嬉しかった。
そうやって、何か外に生み出していったものが、どんどん僕の名刺に加わっていくと、説明がいらなくなってくる。自由度が増していく気がするんです」
「NHKの小国さん」と呼ばれていたときは、「NHKが上で、自分が下」という感覚があったという。今は、「このプロジェクトをプロデュースした小国士朗」という意識を持つことができる。
「確かに、NHKのディレクターという肩書きは安心かもしれません。でもどこかで、やっぱり番組を作る人でしょ? 本丸は映像でしょ? といった枠に押し込められる。でも、名刺に肩書きがなければ、そういった枠に囚われることなく、どこまでも発想を飛ばすことができるんですよね」
「テレビジョン」を届けたい
テレビジョンという言葉は、テレビという箱の中に流れる番組だけを指すのではないと小国は言う。
makisuke / Getty Images
そういえば、15分の自己紹介の中で、小国は「テレビジョン」の語源について話をしてくれた。
「テレ・ビジョン」とは「遠くのものを(テレ)・見えるようにする(ビジョン)」という意味で、これがテレビの語源だそうだ。だから、テレビクルーはヒマラヤに行くし、マリアナ海溝にも宇宙にも行く。
「テレ=遠くのもの」は、物理的な距離だけを指すのではない。企業の内部にも入るし、福祉の現場にも足を運び、人々が触れたことのない価値を届けるのも、テレビジョンの役割だ。
自分は、この「テレビジョン」の考えに共感していると、話していた。
「NHKのディレクターだから、番組を作る。あの箱の中に流す映像を作る。『テレビジョン』とは、そんな狭い言葉ではないではないんです」
と小国は語る。
今まで「自分がやりたいことは、ない」と、ずっと言い続けてきた小国の真意が、ここにきてわかったような気がする。
小国自身が率先して取り組みたいテーマや分野は、特にないのだろう。肩書を持たないのも、自由でいたいからだろう。
それなのに、彼がここまでさまざまなプロジェクトを、熱意を持って牽引できるのは、きっと、この「テレビジョン」の実践が根っこにあるからなのだと思う。
小国は言う。
「これは誰も見たことがない光景だぞ、と思うと、心の底からわくわくする。そのわくわくに、自分のモンスターを放つ。そんな感覚なんです」
いまここにある複数の課題を、一気に解決するとき、そこには売り手も買い手も自分も幸せになる新しい光景が広がる。
その、まだ見ぬ世界を、みんなに届けたい。
小国の「テレビジョン」の精神と、それを必ずや良き場所に着地させるという「モンスター」のパワーが、あらゆるプロジェクトのエネルギーとなっている。
(敬称略・第5回に続く)
(文・佐藤友美、写真・伊藤圭)
佐藤友美(さとう・ゆみ): 書籍ライター。コラムニスト。年間10冊ほど担当する書籍ライターとして活動。ビジネス書から実用書、自己啓発書からノンフィクションまで、幅広いジャンルの著者の著書の執筆を行う。また、書評・ライフスタイル分野のコラムも多数執筆。 自著に『女の運命は髪で変わる』のほか、ビジネスノンフィクション『道を継ぐ』など。