ゴールドマン・サックスの顔、キャシー松井さんが退社前に伝えておきたいこと

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「ウーマノミクス(女性と経済)」(1999年)の提唱者として知られる、ゴールドマン・サックス証券のキャシー松井氏。2020年末に退社する。

撮影:今村拓馬

2020年末で、ゴールドマン・サックス証券のチーフ日本株ストラテジスト、キャシー・松井氏が退社する。松井氏といえば「ウーマノミクス(女性と経済)」(1999年)の提唱者として知られ、子どもを育てたり病気を乗り越えたりしながら、同社を代表するストラテジストとして副会長も務めた。

ウーマノミクスから20年あまり。キャシーさんが見つめる日本の女性を取り巻く環境はどう変わったか。

働ける間にもう一つ別の筋肉を使いたい

——なぜこのタイミングで退社を決断されたのですか。

キャシー: 仲間と新しい事業を始めたいからです。ゴールドマン・サックスは大好きな会社なのですが、私自身、今年55歳、働ける間にもう一つ自分の別の“筋肉”を使ってみたいとも思うようになりました。

——キャリアチェンジはいつ頃から考えられたのですか。

キャシー: 数年前からです。別の組織で同じような役割を担うことには全く興味がないのです。両親も起業家ですし。何か自分の力で作りたいという思いは昔からありました。

アジアの途上国の女性リーダーを育てるアジア女性大学の活動は続けますが、新しく始めることは多様性と金融の側面があります。いま言えるのはここまで(笑)。

——キャシーさんが投資家に向けて、日本は「『ウーマノミクス』が買い」というレポートを書かれたのは1999年でした。当時バブル崩壊で停滞していた日本経済や日本企業にとって建設的な解決策は、女性という人材を活用すること。働く女性が増え所得が増えれば、消費が盛り上がり、経済も回復するという内容でしたが、それから約20年。日本企業の中で、女性たちはまだ活躍する場を十分に与えられていないのが現状です。キャシーさんの目にはどう映っていますか?

キャシー:私がこの業界に入ったのは1990年1月。ゴールドマン・サックスの前の会社に入社した直後にバブルは弾け、相場は暴落しました。私の仕事は内外の機関投資家向けに、日本の株式市場や日本経済に投資すべきかをアドバイスすることです。

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少子高齢化が進む日本。「松井さん、日本企業や経済に投資する意味はありますか?」。海外投資家から、何度も聞かれたという。

Reuters/Issei Kato

当時、海外の機関投資家から何十回も、「松井さん、日本企業や経済に投資する意味はありますか?」と聞かれましたが、私は良い答えを出すことはできなかったんです。

成長のドライブとは人材、資本、生産性の3つ。人口が減れば、生産性革命がない限り、国の潜在成長率は下がる。一方で株式の投資は成長が大前提です。人口減少を迎える日本にはそもそも成長という前提に「?」が付いていました。

その後私は1996年に息子を出産して、4カ月後に復職しました。しかし、周りには修士、弁護士、CPA(公認会計士)を持ちながら、フルタイムでの復職がかなわなかった人がかなりいました。経験豊富で能力のある女性たちが仕事に戻りたいけど戻れない。これは単にもったいないというだけでは済まないのではないかと思いました。

当時低かった女性就業率が男性並みになった場合、どれくらい経済効果を期待できるか、それを試算したのが1999年のウーマノミスクレポートです。でも当時の反応は、日本国内では「まあ、面白いけれど、別に」っていう感じでしたね。

日本に起きた3つの進化

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第2次安倍政権ではダイバーシティ、女性の活躍は政府の成長戦略と位置付けられた。

撮影:今村拓馬

——それが第2次安倍政権ではダイバーシティ、女性の活躍は政府の成長戦略と位置付けられました。

キャシー:私が驚きましたね(笑)。私が知る限り、日本政府が多様性、ダイバーシティという概念を成長戦略に加えたのは初めてだったと思います。

多様性重視にシフトした企業・人と、そうでない企業・人に二極化した数年だったとは思いますが、さすがに首相が成長戦略として言及したことで、全体の意識は少しずつ変わったとは思います。日経新聞でさえ1面にピンク色の記事コーナーを設けたりするようになりましたから。

一つの進化は女性の就業率の上昇です。この間、企業業績は回復したけど、(女性がいないという)人材のプールは変わらず、タイトな(需給が逼迫する)労働市場がよりタイトになり、人手不足が深刻になりました。人が必要ということで、女性の就業率は72%くらいにまで上がり、課題はあるものの欧米を大きく上回るようになりました。

もう一つ進化したことは透明性です。企業は長くジェンダーやダイバーシティに関する情報の開示を嫌がっていました。2015年に女性活躍法が成立し、上場企業だけでなく、300人以上の企業は女性に関する情報の開示が義務付けられ、さらに自社の女性登用目標も設定することを求められるようになりました。

GPIF(年金積立金管理運用独立法人)は2016年にESG投資(※)をスタートさせましたが、そのなかにWIN指数(女性活躍指数)を採択したのは、この情報開示があったからです。

※ESG投資…財務情報だけでなく、環境(Environment)社会(Social)ガバナンス(Governance)要素も考慮した投資。企業経営のサステナビリティを評価する概念とともに注目されるようになった。

3つ目の進化は育児休業制度がさらに充実したこと。世界で見ても日本の制度はトップランクです。もちろん男性が取得しない問題は残っていますが、制度自体は素晴らしいと思います。

まだ保育園の待機児童問題や配偶者控除制度の問題は依然としてありますが、ウーマノミクス第2フェーズで最も力を入れるべきはリーダー作りです。女性の就業率は上がりましたが、多くは非正規雇用です。リーダーになる確率は低い。

まだ各企業内でチャレンジすべきことは残っていると思います。企業のリーダー作る責任は政府ではなく、それぞれの企業、組織です、ハイポテンシャルの女性の人材をどうミクロレベルで励ますかなど、もっとチャレンジしてほしい。

時間軸での評価は女性にハンディ

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時間軸で評価されることは、女性のライフイベントを考えるとハンディが大きい。

撮影:今村拓馬

——2020年までに政治や経済分野での指導的立場の中に女性の占める割合を30%にする、いわゆる「2030」の目標もあっさり反故にされました。女性のリーダー育成はなぜ進まなかったと思われますか。

キャシー:年功序列という仕組みに原因があると思います。時間軸で評価されることは、女性のライフイベントを考えるとハンディが大きい。時間軸でリーダーになるタイプの女性は男性と一緒に、男性のように働ける人たち。そういう状況を見れば、若い女性たちで育児と仕事の両方にチャレンジしたい人は、上の世代のお手本がいないと思うでしょう。

——日本は2019年のジェンダーギャップ指数で121位と後退しました。進化はしているけど、そのスピードは遅く、他の国の変化の速さについていけず、差は開くばかりだと感じます。

キャシー:すでに女性の登用と企業のパフォーマンスは直接関係しているというエビデンスが世界にはあるにもかかわらず、日本企業の大半はまだ信じていないのです。これは感情的な問題ではなく、事実なのに。

ビジネスの世界に止まらず、科学の世界でもそうです。OECD(経済協力開発機構)のデータでは、日本の女性のサイエンス分野の研究者数は最低ランクです。これは女性に能力がないからではなく、親や教師の影響で理系を目指さないから。意識やマインドセットを変えるには時間はかかりますが、この硬直化したジェンダー意識から変えていく必要があるでしょう。

——日本の組織の中にはまだまだ女性がリーダーシップを取ることへの偏見があります。女性の強いリーダーシップを嫌う男性の反発とどう向き合えばいいのでしょうか。

キャシー:まず会社が仕事の評価を客観的にすることです。この問題は日本だけではないのです。でも、例えば顧客からの評価を点数化するなど客観的な指標にすることで、女性は正当な評価が得られるのではないでしょうか。

そのためには組織としてのチャレンジが必要です。人材がその潜在能力を発揮して初めて組織は成長する。半分の人材が能力を発揮していないということは、資源を活用していないことになるのです。

カルチャーを変えることには時間がかかりますが、変わらなければ、優秀な女性は辞めてしまいます。そのために社内の言動の一つひとつに女性に対する無意識の偏見がないか、チェックすること。どれだけ研修を受けても、偏見をなくすことは難しい。でもそれを放置すればそのままでOKだと思ってしまう。会社の風土を変えるためにも、常にチェックが必要です。

おじさん管理職だけの世界ではリーダー目指さない

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キャシーさんは言う。「女性たちが管理職を目指さないのは、周りにプライベートを楽しめない「おじさん管理職」しかいないからかもしれません」。

撮影:今村拓馬

——女性たち自身はどうですか? キャシーさんは著書『ゴールドマン・サックス流女性社員の育て方、教えます』で「女性に優しくしすぎないで」と書かれていますね。

私自身、前職のアエラでは、両立支援策が整備されている企業を「女性に優しい企業」という表現で何度も報じてきました。結果的に「育児を担うのは女性」と、性別による役割を固定化させてしまったと反省しています。性別役割が固定化した中で、両立支援制度を充実させるほど、女性たちはキャリアのトラックから外れることになる。いわゆるマミートラック問題(※)です。

そして女性たちのマインドセットも残念ながら、リーダーを目指そう、目指したいとはなってないんですよね。

※マミートラック問題…子育てをしながら仕事を続けてはいるものの、負担の少ない補佐的な仕事に従事することで、昇進・昇格を目指さずに働き続ける女性のキャリアコースのことを指す

キャシー:女性たちが管理職を目指さないのは、周りにプライベートを楽しめない「おじさん管理職」しかいないからかもしれません。もう少し違う形でのリーダーのモデル、それもある程度、数がいなければ、女性たちは上を目指そうと思わないでしょう。

そして女性たちももっと自分をアピールすることをした方がいい。女性は、与えられた仕事だけを一生懸命やれば、魔法の手が降りてきて自分を吊り上げてくれると考えがちですが、自分がやったことをきちんと宣伝することも大切です。そして会社は女性たち、自分がやったことを上司や組織内に伝えましたか、アピールしましたか、という教育をすべきです。

——キャシーさんはリーダーの仕事の醍醐味は何だと思っていますか。

キャシー:リーダーになると、より経営層に近くなる。組織の方向性も感じられ、(新たな知識や情報を)インプットできる回数も多くなります。人間関係に広がりが出て(関係者に対し)パッとメールを出して、すぐに意見を求めることもできます。

ゴールドマン・サックスは2008年に「1万人の女性プログラム」という、途上国の女性起業家を支援するプログラムを作りました。彼女たちにビジネスやマネジメントに関する教育機会を提供し、経済成長を促進させるのが目的です。女性の活躍が経済成長につながるという自分のアイデアがグローバルの取り組みにつながったのがすごく嬉しかったです。この取り組みもウーマノミクスレポートがあったおかげで実現されました。

——つまりリーダーになれば、よりダイナミックに仕事ができるということですね?

そうですね。あとリーダーになることで他の世界の人とのつながりが広がります。他の業界のリーダーと知り合ったり、いろいろな審議会や勉強会に入ったり。自分が勉強できるチャンスも広がりました。

会社はセカンドファミリーだった

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GSで初の女性パートナー、子ども2人に恵まれて"nothing can go wrong"の時、乳がんが発覚した。

撮影:今村拓馬

——成長機会も増えると。25年のゴールドマン・サックスのキャリアの中で、一番印象的だった出来事は?

キャシー:今20歳の長女が生まれた直後に乳がんと診断されたことです。その直前には、日本のゴールドマン・サックスで初の女性パートナーになり、アナリストランキングで1位になり、2人目の子どももできてnothing can go wrongという感じだったんです。母と祖母も乳がんだったので覚悟はしていましたが、ショックだったのは年齢ですね。

当時私は36歳でした。その年齢で死に直面すると、自分の中の価値観が一変しました。アメリカに帰って大手術、抗がん剤や放射線治療など、あらゆる治療をやりましたが、悩んだのは8カ月の休職の後、仕事に復帰すべきかどうかでした。当時、子どもたちは5歳と1歳。私には金融以外のスキルがない。専業主婦になるかゴールドマン・サックスに戻るかしか選択肢はありませんでした。

私は困った時に相談する家族や友人たちを「パーソナル取締役会議」と呼んでいるのですが、そのメンバーに相談しても、誰もこうしなさいとは言ってくれませんでした。

GS

Reuters/Brendan McDermid

最後に私の義理の母に相談しました。彼女は3人の子育てのために医者の仕事を辞めた経験があるので。

「自分のことは自分で決めるしかないけど、一つだけ教えて。日曜日の夜8時になるとどんな気持ち?」

「子どもがやっと寝て、すごく疲れているけど、明日は出社できるからハッピー」と言ったら、

「それがヒントかもしれない。あなたが不幸であれば、その不幸は子どもたちに絶対伝わるわよ」と。

確かに私は仕事をしていないと1週間でイライラしてしまう。それが子どもに伝わっていいのか。それで復帰を決意しました。私にとって仕事はある意味治療でもあったのです。頭を切り替えてルーティン(日常)に戻り、お客さんと話しているとほとんど病気のことを考えずにすみました。

会社のサポートもありがたかった。治療のためにアメリカに帰る前に、(当時ゴードマン・サックス会長兼CEOだった)ヘンリー・ポールソンから「治るまで会社は待つし、安心して、元気になるまで治療を頑張ってください」。その言葉が治療中の8カ月間、励みになりました。

人事部はがんに関しての論文を探してくれたりと、サポートしてくれました。26年間、この会社が私のセカンドファミリーのような気持ちでした。

日本企業もやらざるを得ない日がやってくる

——最後に。キャシーさんは日本で女性たちが自分のやりたい仕事や、望んだポジションに就ける日が近い将来くると思いますか。

キャシー:私がオプティミスト(楽観主義者)ということもあり、楽観的です。

理由は2つ。一つは若い世代の意識の変化です。特に男性がもう男性だけが働く、というような価値観を持っていないこと。

そしてもう一つは、世界のESG投資が加速しており、これはすでに元には戻らないと思うからです。コーポレートガバナンスという概念がなかった日本でも定着したように、ダイバーシティを促進しなければ投資家から見向きもされなくなる日が来る。そうなれば、やらざるを得ないと思っています。


キャシー松井:1965年生まれ。ハーバード大学卒業、ジョンズ・ホプキンス大学大学院修了。バークレイズ証券を経て、1994年ゴールドマン・サックス証券に入社。1999年に「ウーマノミクス」を発表。チーフ日本株ストラテジストとして活躍する一方、アジア女子大学の理事会のメンバーも務める。

(聞き手・浜田敬子、滝川麻衣子、構成・浜田敬子)

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