12月2日、セールスフォース・ドットコム(以下、セールスフォース)によるSlack Technologies, Inc.(以下、Slack)の買収が発表されました(※1)。
セールスフォースといえば、クラウドで顧客管理(CRM)ツールや営業支援ツールなどのプラットフォームを提供する企業。BtoBビジネスなのでその社名にあまり馴染みのない方もいるかもしれませんが、時価総額は本稿執筆時点で約2018億ドル(約21兆円)と、Netflix(ネットフリックス)やインテルと肩を並べるほどの規模を持つ、世界トップクラスの会社です。
そのセールスフォースがSlackを買収した。しかもその額なんと277億ドル(約2.9兆円)(※2)。この金額は、マイクロソフトによるSkypeの買収(85億ドル)やLinkedInの買収(262億ドル)、そしてフェイスブックによるWhat’s Appの買収(190億ドル)をも超える額です。
買収金額だけを見れば「高い!」の一言ですが、セールスフォースはいったいどんな思惑があってこの買収額をはじき出したのでしょうか? セールスフォースに買収されることでSlackの経営はどう変わるのでしょうか? 今回は前後編の2回にわたり、これらの疑問についてファイナンスの視点から考察していきます。
Slackの売上高は急成長中だが…
まずはSlackの四半期の売上高と純利益の推移を概観しておきましょう。
(出所)Slack Technologies, Inc., 10-Q filed on 12/3/2020 Quarterly Reportより筆者作成。
売上高に関しては、直近の四半期は2.35億ドル(約244億円)で、前年比で40%成長をしています。直近1年での売上高は8.34億ドル(約867億円)と、年でも46%もの成長をしています。
では利益についてはどうでしょうか。2019年第1四半期から直近までの推移を見てみると——。
(出所)Slack Technologies, Inc., 10-Q filed on 12/3/2020 Quarterly Reportより筆者作成。
ご覧のとおり、どの四半期も軒並みマイナス。直近の四半期では6800万ドルの赤字で、直近の1年では3.1億ドルの赤字です。売上高で見れば急成長中のSlackではありますが、利益はまだ出ておらず、純損失の状態が続いています(※3)。
これらから分かる事実としては、セールスフォースは年間300億円以上の赤字を垂れ流しているSlackを、3兆円近くで買収しようとしているということです。
これを見るかぎり「セールスフォースは正気なのか?」と疑いたくなりますね。こんな大金を積んでしまって、本当に大丈夫なのでしょうか?
セールスフォースの買収価格は高い?
前々回のおさらいになりますが、「会社の値段」は貸借対照表(B/S)の「純資産」に表れます。純資産という言葉は会計用語ですが、ファイナンス用語では「時価総額」「株主価値」などとも表現します。
Slackの2020年10月期のB/Sは図表3のとおりです。セールスフォースはこのSlackの純資産の簿価8.5億ドルに対して、なんと277億ドルの株主価値があると判断して買収を持ちかけたのです。
筆者作成
会計上の純資産8.5億ドルに対して買収額277億ドルということは、実に33倍。このように、純資産に対して時価総額(株主価値)が何倍かを示す指標をPBR(Price Book Ratio:株価純資産倍率)と言います(連載第3回を参照)。
筆者作成
PBRが1倍とは「純資産=時価総額」の状態。ということはPBRが1倍以上なら、理論上は、総資産をすべて売却したうえで負債を全部返済したとしても純資産に儲けがあるということです。
PBRは1を超えているかどうかがひとつの判断基準になりますが、この値が33倍とは文字通りケタ違いです。額面が1万円のものを33万円で買うようなものですから、いかにセールスフォースがSlackを高く評価しているかが分かります。
では今度は、セールスフォースが買収する以前、株式市場はSlackをどう評価していたのかを確認しておきしょう。
過去3カ月のSlackの平均株価から時価総額を計算すると、171.7億ドルになります(※4)。この過去3カ月平均の株から求めた時価総額をベースに考えると、PBRは20倍です。
過去3カ月平均の株式市場の株価による時価総額を、セールスフォースによるSlackの評価額277億ドルと比べると、セールスフォースは株式市場の評価より60%も高い金額でSlackを買収したことになります。このように、市場価格よりも高い値付け部分を「プレミアム」と言います。
通常、買収によるプレミアムは30〜40%ほどと言われています。それと比べると、60%のプレミアムを上乗せするというセールスフォースの提案は、まさに「破格」です。
(出所)Slack Technologies, Inc. 10-Q filed on 12/3/2020 Quarterly Reportより作成およびYahoo!ファイナンスより筆者作成。
Slackの収益性は?
ここまでは、SlackのB/Sとセールスフォースの買収価格を比較してきました。では今度は、Slackの損益計算書(P/L)とセールスフォースによる買収価格を比較してみることにしましょう。
時価総額とP/Lを比べる際、よく使われるのは「PER(Price Earnings Ratio:株価収益率)です。PERは、時価総額が利益の何倍かを見る指標です。
筆者作成
しかし今回のSlackのように、利益がマイナスだとPERは計算できません。そこで代わりに、時価総額が売上高の何倍かを見る「PSR(Price Sales Ratio:株価売上高倍率)」という指標を使うことにしましょう。
なお、PSRはどのような企業にも使われるわけではなく(※5)、主にSaaS(Software as a Service)のような成長著しい企業を分析する際に使われる指標です。
SaaS(Software as a Service)とは、クラウド経由で利用するソフトウェアサービスのこと。代表的なものとしては、マイクロソフトのOffice365が挙げられます。以前のOfficeは、買い切りでダウンロードする販売形態でした。この場合、ダウンロードしたOfficeは自動ではアップデートされず、Officeが新しくなると買い換える必要がありました。
ですが、OfficeがSaaSで提供されるようになってからは、ユーザーは月額課金をすることでいつでも最新のOfficeを使えます。このようにSaaSは多くの場合、月額課金のサブスクリプションという販売形態をとります。
Officeの他にも、Adobe、Dropbox、Evernote、Spotify、Netflix、Zoom……などなど、私たちにも馴染みのあるサービスの多くがSaaSでビジネスを展開しています。もちろんSlackやセールスフォースも、月額課金のサブスクリプション型という典型的なSaaSです。
筆者作成
話を戻して、SlackのPSRを計算してみましょう。セールスフォースの買収額は277億ドル。これに対してSlackの直近1年の売上高は8.34億ドルですから、PSRは33倍となります。
33倍という数字は果たして高いのか低いのか……アメリカにおけるSaaS企業の平均的なPSRはだいたいどのくらいなのでしょうか?
「米国企業を中心とした株式投資に役立つ情報マガジン」では、アメリカのSaaS企業94社のPSRを計算しています(※6)。これらの中から90社のPSRの中央値(※7)、平均値、2020年10月19日時点のSlackのPSR、そしてセールスフォースによる買収価格のPSRをそれぞれ比較すると、図表5のようになります。
(出所)米国企業を中心とした株式投資に役立つ情報マガジン「米国SaaS企業94社のバリュエーション」。様々な指標から成長余地のあるSaaS銘柄を探す。SaaS企業の各指標データのダウンロードも可能。【2020年10月19日データ更新】」(2020年9月19日)を参考に筆者作成。
このように、アメリカのSaaSビジネスにおけるPSRは中央値で16倍。これはつまり、年間の売上高の16倍が時価総額に相当するということです。
この数字だけではピンとこないかもしれないので、こんな仮定で考えてみましょう。
仮に利益率を10%(=売上高の10分の1が純利益)と仮定すると、「PSR 16倍」というのは「PER 160倍」を意味します。つまりこの場合、時価総額は160年分の利益に相当するということです。S&P500の企業のPERは20倍程度ですから、これと比べると、SaaS企業が株式市場からいかに高く評価されているかがイメージできるでしょう。
PSRが16倍(中央値)というだけでもこうなのですから、今回のセールスフォースの買収価額で計算した「PSR 33倍」がいかに高い評価であるかは、言うまでもありません。
ここまでで、Slackの純資産に対しても売上高に対しても、セールスフォースは相当高い評価をしていることが嫌というほどよく分かりました。
それにしてもなぜ、セールスフォースは赤字続きのSlackをこれほど高く評価しているのでしょうか? 次回、Slackの直近の第3四半期のP/Lからこの謎を解明していくことにしましょう。
※1 本稿執筆時点では、セールスフォースとSlackのそれぞれの取締役会で、すでに買収取引が承認されています。また、Slackの取締役会では、Slackの株主が買収取引を承認し、合併契約を採用するように推奨しています。今回の買収取引につき、Slackの株主による承認、必要な規制当局の承認の取得、およびその他の慣習的な買収完了条件を前提として、セールスフォースの2022会計年度の第2四半期に完了する見込みです。
※2 277億ドルという金額は2020年11月30日時点のセールスフォースの株価の終値を基準としています。というのも、セールスフォースによるSlackの買収は、Slack株1株あたり26.79ドルとセールスフォース株0.0776株の交換によって行われるためです。そのため、M&Aが完了するまでにセールスフォースの株価が上がれば買収額も上がり、株価が下がれば買収額も下がることになります。
※3 2020年第2四半期の純損失額は突出しています。明確な理由は不明ですが、おそらく上場後初の四半期決算ということで、知名度向上も兼ねて戦略的にセールスマーケティング費用をはじめ多くの費用計上をしたと思われます。
※4 2020年10月末時点でSlackは合計約5.8億株の株式を発行しています。この株式にコンバーティブルノートと言われる新株予約権付社債を通じて、新たに新株2780万株が発行されたと予想されます。結果、合計約6億株に3カ月平均の株価28.4円をかけることで、時価総額は171.7億円としています。
※5 どの企業であってもPSRを計算すること自体はできますが、利益率を無視して売上高の何倍の時価総額かを計算する指標である点には注意が必要です。PSRが、テック系スタートアップ企業のように利益は出ていないものの成長著しい企業に限って用いられるのはそのためです。逆に、飲食、ホテル、製造など昔からある業界ではPSRは低く出る傾向(1〜2倍など)にあるため、指標としてはまず用いられることはありません。
※6 「米国企業を中心とした株式投資に役立つ情報マガジン」では、アメリカのSaaS企業94社のPSRを、時価総額(2020年10月19日時点)÷(直近の四半期の売上高×4)で計算しています。この94社の中には、今回の分析対象企業となっているSlackやセールスフォースはもちろん、Adobe、Paypal、Zoomなど日本でも馴染みのある企業も含まれています。
※7 中央値とは、データを順番に並べたときにちょうど真ん中にくる値のことを言います。例えばサンプルの値の中に異常値のような巨大な値がある場合、平均値は大きく出る傾向にありますが、中央値はこのようなバイアスを受けないという特徴があります。
(執筆協力・伊藤達也、連載ロゴデザイン・星野美緒、編集・常盤亜由子)
村上 茂久:1980年生まれ。経済学研究科の大学院(修士課程)を修了後、金融機関でストラクチャードファイナンス業務を中心に、証券化、不動産投資、不良債権投資、プロジェクトファイナンス、ファンド投資業務等に従事する。2018年9月よりGOB Incubation Partners株式会社のCFOとして大手企業や地方の新規事業の開発及び起業の支援等をしている。加えて、複数のスタートアップ企業等の財務や法務等の支援も実施している。