CRM(顧客関係管理)のクラウドサービスで世界的に有名なセールスフォース・ドットコム(以下、セールスフォース)は12月2日、ビジネスコミュニケーションツール「Slack」を運営するSlack Technologies, Inc.(以下、Slack)を277億ドル(約2.9兆円)もの巨額で買収すると発表しました。
Slackはコロナ禍の影響を受けて着実に売上を伸ばしているとはいえ、直近の四半期では6800万ドルの赤字、直近の1年では3.1億ドルの赤字です。
年間300億円以上の赤字を垂れ流しているSlackを、3兆円近くで買収しようとしているセールスフォースの思惑はいったい何なのでしょうか?
前回はこの疑問を出発点にして、PBR(Price Book Ratio:株価純資産倍率)とPSR(Price Sales Ratio:株価売上高倍率)という2つの指標を使って分析を試みました。
結果、セールスフォースによる買収額277億ドルは、PBRでもPSRでも破格の「33倍」。買収額2.9兆円という絶対額だけでなく、PBRやPSRの倍率で見ても業界平均より相当に高い数字だということが分かりました。
そこで本稿では、Slackの直近の第3四半期のP/Lを手がかりに、セールスフォースが赤字続きのSlackをなぜこれほど高く評価するのか、その理由を突き止めていくことにします。
赤字のSlackになぜここまで高い評価がつくのか?
図表2は、2021年1月期の第3四半期のSlackのP/Lを滝チャートで示したものです。
売上高2.35億ドルに対して、原価、研究開発費用、セールス及びマーケティング費用、一般管理費の合計は3億ドル。その結果、四半期で6600万ドルの純損失を計上しています。
これら費用のうち40%もの割合を占めるのが、セールス及びマーケティング費用(約1.2億ドル)です。Slackは、売上高のなんと50%を販売とマーケティングにつぎ込んでいるのです。
仮にセールス及びマーケティング費用を一切かけなければ、Slackは純損失どころか5300万ドルの利益を出せる計算になります。では、利益の確保を犠牲にしてまで販売とマーケティングに1.2億ドルを投じた結果、Slackは有料顧客をどれだけ獲得できたのでしょうか?
以降では、SaaSというビジネスの構造を理解するうえでぜひ覚えておきたい4つの用語とともに解説していきます。
CAC:1顧客あたりの獲得コスト
図表3のとおり、Slackは2021年1月期の第3四半期の3カ月間で、新規有料顧客を1万2000社獲得しています。
セールス及びマーケティング費用は約1.2億ドルですから、1社あたりの獲得費用は1万ドル(約104万円)になります。このように、顧客1社を獲得するのに必要な費用を「CAC(Customer Acquisition Cost)」と言います。
MRR:継続的に積み上がる売上高
では、今度は顧客単価を確認してみましょう。
Slackの直近四半期の売上高は3カ月で2.35億ドルでした。これを1カ月に直すと7800万ドルです。
SaaSのビジネスにおいて、サブスクリプションによって継続的に積み上がる売上高のことを「MRR(Monthly Recurring Revenue)」と呼びます。Slackの場合、基本的にはサブスクリプションからの売上しかないため、必然的に月の売上がMRRとなります。
筆者作成
Slackの2020年10月末時点(2021年第3四半期)の取引社数は14万2000社ですから、1社あたりの平均MRRは550ドル(5.7万円)になります。
つまりSlackは、1顧客を獲得するに1万ドルかかり、その顧客から毎月550ドルの収益を獲得しているということになります。
LTV:顧客1社から生涯にわたって獲得できる収入
では、顧客獲得費用である1万ドルを回収するためには、何カ月継続してサービスを利用してもらう必要があるでしょうか?
顧客獲得費用(1万ドル)をMRR(550ドル)で割ると、18.2。つまり、顧客1社につき18.2カ月以上サービスを継続してもらえれば、顧客獲得費用の1万ドルを回収できることになります。
このように、1社あたりの顧客から生涯にわたって獲得できる収入を「LTV(Life Time Value)」と言います。
LTVは次のように計算されます。
筆者作成
そして、LTVがCACを上回るなら、将来的には1顧客あたりの経済性(これを「ユニットエコノミクス」と言います)はプラスになることから、積極的に顧客を獲得したほうがいいことになります。
チャーンレート:解約率
ただし、顧客がどのくらい継続してサービスを使い続けてくれるかを知るのはけっこう難しいものです。まともに検証していたのでは、3年継続することが分かるためには3年もの時間がかかってしまうからです。
そこで実務上では多くの場合、チャーンレート(解約率)を使って次のようにLTVを計算します。
筆者作成
例えば、1顧客あたりの収入が550ドル、毎月のチャーンレートが10%だとすると、LTVは550ドル÷チャーンレート10%=5500ドルです。
しかし先ほど計算したようにSlackのCACは1万ドルでしたから、LTVが5500ドルでは元が取れませんね。1万ドルを回収するためには、18.2カ月以上継続して利用し続けてもらい、かつ、サブスクリプション(月額課金)のチャーンレートを5.6%以下に抑える必要があります(※1)。逆にこの基準をクリアできれば、Slackは長期的には利益を生み出せるということです。
では、実際のSlackのチャーンレートはどのくらいでしょうか?
図表7を見てもお分かりのように、Slackは既存の有料顧客をネットで増やし、新規顧客も着実に獲得しています。
図表8は売上継続率(NDR:Net Dollar Retention Rate)を示しています。これは、1年前に獲得した既存顧客の売上をどれだけ維持できているかを見る指標で、100%を切ると解約が発生していることになります。
ご覧ください、Slackの売上継続率はどの四半期も100%以上。前年に比べてチャーン(解約)があるどころか、むしろ契約を拡大しています。
Slackは組織で使うサービスですから、従業員が増えることで契約数を増やしたり、組織の一部だけが使っていたものを他の部門にも導入したりすることで、既存顧客から得る収益はむしろ上がります。つまり、ネガティブチャーン(負の解約率。つまり契約の増加)が発生しているということです。
このことを分かりやすく示しているのが、図表9です。これはSlackの年間経常収益(ARR:Annual Recurring Revenue)のコホート図。MRRはサブスクリプションから得られる月次の経常収益のことでしたが、ARRは年次での経常収益を意味します。
図中、例えば紫色は、FY2015に獲得した顧客企業から得られる収益を表しています。FY2015にSlackと契約した企業なので、その数は今後減ることはあっても増えることは絶対にありません。にもかかわらず、紫色の面積は年を経るごとに広くなっています。
これはつまり、FY2015年にSlackを使い始めた企業が利用するアカウント数を増やしたりアップグレードしたりして、年々支払いを増やしているということです。
Slackに関するこれらの事実を踏まえると、LTVの計算式における「収入×継続月数」は、収入面で見ても継続月数で見ても今後まだまだ伸びる可能性が十分にあります。時間が経過すれば、顧客の獲得にかかる1万ドルのコストなんてすぐに回収できてしまうでしょう。
ここまで理解できれば、Slackがなぜ売上の50%もの資金をセールス及びマーケティング費用に投じているかがお分かりいただけるはずです。
仮にセールス及びマーケティング費用を今の4割ほどに減らすだけで、Slackは黒字を達成できます。でもそうはせずに、顧客1社あたりに1万ドルのコストをかけて積極的にユーザーを獲得しにいっているのは、そのほうが長期的にはSlackの収益に貢献することが分かっているからです。
SlackのP/Lを見ればどの四半期も赤字ですが、実は経済性としてはちゃんと回っている。つまり、Slackの赤字は圧倒的な「攻めの赤字」だということです(「攻めの赤字」については連載第6回を参照)。
このことを評価して株式市場はSlackの株価に高値をつけていますし、セールスフォースはそれをも上回る評価をもってSlackを買収しようとしているわけです。これこそが、セールスフォースが277億ドルもの買収額を提示した根拠のひとつです。
Slackがこれほどスピーディーに意思決定できた理由
ところで、今回の買収劇は比較的短期間のうちに意思決定がなされたようです(※2)。事前に大株主の合意をとりつける必要があることなどを考えると、通常ならば買収に合意するまでにはもっと時間を要しそうなものです。それなのになぜ、Slackはこれほど迅速に意思決定ができたのでしょうか?
Slackの株主価値は、当たり前ですが株式から構成されています。ただし日本ではあまり報じられていませんが、実はSlackの株式にはclass Aとclass Bという2種類が存在します。
class Aとclass Bではそれぞれ、議決権が異なります。このように、権利の違う2種類の株式を発行する仕組みのことを「dual class stock(デュアルクラス株式)」と言います。Slackのケースでは、class Bはclass Aの株式の10倍もの議決権があります。
デュアルクラス株式は日本ではまだ馴染みが薄く、サイバーダインなど一部の企業がデュアルクラス株式と同等の効果を持つ株式を発行しているのみですが、アメリカではグーグル、フェイスブック、バークシャーハサウェイなど、名だたる企業が採用しています。
ではなぜこのように議決権に差をつけているのでしょうか?
通常、株式を多く発行すればするほど希釈化(希薄化)していき、議決権の持ち分は減っていきます。
しかしデュアルクラス株式なら、たとえ希薄化が起こったとしても、10倍の議決権を持つclass Bの株式の保有者は依然として会社をコントロールすることができます。
実際、Slackが発行しているclass Bの株式は2020年10月末現在、全体の15%程度でしかないのに、議決権の割合で見るとなんと63.6%にも及びます。
Slackの株式が上場されているニューヨーク証券取引所で一般の投資家が売買できるのはclass Aのみで、class Bは主にSlackの経営陣によって保有されています。さらに言えば、SlackはCEO兼共同創業者であるスチュワート・バターフィールドに議決権が多く集まるような契約が一部の株主間で結ばれているそうです。
持分をこのような仕組みにしているからこそ、Slackは多くの議決権を有する一部の経営陣の手によって、今回の買収案件に対して素早く意思決定できたわけです。
買収されるとSlackの経営はどう変わる?
読者のみなさんの中にはSlackユーザーも多いことでしょう。私もご多分に漏れずで、普段の仕事で使う頻度はメールよりも圧倒的にSlackです。
それほど愛用するSlackがセールスフォースに買収されることで、今後Slackの機能や使い勝手が変わってしまう……なんてことはあるのでしょうか?
今回の買収により、Slackはセールスフォースの一部門として事業を行うことになる予定です。ただし、SlackのバターフィールドCEOが引き続き事業を牽引するとのこと。その上で、事業の拡大とSlackのミッションである「皆さんのビジネスライフをよりシンプルに・より快適に・より有意義に」のさらなる実現を目指していくことになります。
セールスフォースとしても当然、バターフィールドらSlack経営陣の力を借りる必要がありますから、M&Aの契約の中にはおそらく「キーマン条項」が含まれているはずです。
キーマン条項とは、企業を買収した際、経営陣などの重要人物が数年間は会社を辞めずに会社に残る旨を定めた条項のこと。また多くの場合、キーマン条項で定められた年数が経過してキーマン条項対象者が会社を去ることになったとしても、一定期間は競合となるような同業のビジネスを行わないという制約も課せられます。
なぜこのような条項が存在するのだと思いますか? 答えは、SlackのB/Sを見てみれば分かります。
今回セールスフォースはSlackを277億ドルで買収する予定ですが、Slackの総資産は買収金額の10分の1にも満たないわずか23億ドルです。つまり、設備等の物理的な資産にはこの程度の価値しかないのです。
では何に価値があるのかというと、B/Sには表れないようなSlackのカルチャー、ブランド、ビジネスモデル、データなど。なかでも最も大きいのは、これらを作り上げてきた経営陣の存在です。
仮に、セールスフォースがSlackを買収した直後に、経営陣がSlackの株式と引き換えに得た現金とセールスフォースの株式だけを持ってさっさと退職してしまったとしたら……果たしてセールスフォースはSlackの強みを生かせるでしょうか? 現実的にはかなり難しいはずです。
Slackの経営陣が築き上げてきた競争優位性を維持強化するには当然、既存の経営陣の力が必要なのです。これが、キーマン条項を盛り込むことの意味です。そう考えると、UI/UXにこだわりを持つSlackの良さは、おそらく今後も失われることはないでしょう。
Teamsとの戦いは新局面へ
これまで2回にわたって見てきたように、Slackの時価総額や経済性は素晴らしいものです。しかしだからといって安閑としているわけにはいきません。というのも、Slackの競合となるマイクロソフトの「Teams」の成長は、実はSlackを上回っているからです。
図表13のとおり、Teamsは2019年9月時点ですでにSlackのデイリーアクティブユーザー(DAU:1日にサービスを利用したユーザー数)を抜き去りました。2020年10月の報道では、TeamsのDAUはなんと1億1500万人超えとされています(※3)。
Slackも右肩上がりとはいえ、直近の有料顧客は14万2000社。1社あたりのアカウント数が平均50だとして、仮に無料会員が有料会員の5倍いたとしても、DAUは3500万人ほどです。1億1500万DAUのTeamsに比べればかなりのビハインドと言わざるをえません。
その危機感の表れなのでしょう。Slackは2020年7月、マイクロソフトがTeamsとOfficeをバンドルしたことは独占禁止法違反に当たるとして、EUの執行機関である欧州委員会にマイクロソフトを提訴しています。それだけ両社は厳しい競合状態にあるということです。
提訴に踏み切ったとはいえ、このままの延長線上で戦っていたのではTeamsとの差はどんどん開いてしまいかねない——。
Slackが今回、世界トップクラスのCRM(顧客関係管理)企業であり、年率20%以上の急成長を遂げているセールスフォースの力を借りることにした背景には、こうした危機感があったはずです。
Slackの洗練された製品力に、セールスフォースの資本力・マーケティング力・営業力が加われば、まさに鬼に金棒です。Slackはさらに赤字を掘ってでもユーザーを獲得し、将来の収益につなげることができるようになります。それに、「セールスフォースは導入済みだけれどSlackはまだ利用していない」という法人がすべてSlackの潜在顧客になるのですから。
世界的に進むデジタルトランスフォーメーション(DX)の流れに加えて、コロナ禍によって需要が爆発的に増したオンラインコミュニケーション。この新たな市場で互いにしのぎを削るSlackとマイクロソフトの戦いは、今回のセールスフォースによる買収劇によって新局面を迎えました。
セールスフォースという味方をつけたSlackは、時価総額世界第3位のマイクロソフトを相手にどんな戦いを仕掛けるのか。今後の展開に注目です。
※1 SlackのLTVは18.2カ月以上必要となることから、1÷18カ月からチャーンレートを逆算すると、クリアすべき基準は5.6%になります。
※2 実際、2020年8月時点でセールスフォースのマーク・ベニオフCEOは「大きな買収予定はない」といった趣旨を発言していました。
“CEO Marc Benioff says that Salesforce doesn't 'really see an M&A environment,' hinting that it won't be making any more big acquisitions any time soon,” Business Insider, August 26, 2020.
※3 「マイクロソフト『Teams』ユーザー数が驚異の1日1億1500万人超え。業績評価方法の変更でさらに加速」Business Insider Japan、2020年10月29日。
(執筆協力・伊藤達也、連載ロゴデザイン・星野美緒、編集・常盤亜由子)
村上 茂久:1980年生まれ。経済学研究科の大学院(修士課程)を修了後、金融機関でストラクチャードファイナンス業務を中心に、証券化、不動産投資、不良債権投資、プロジェクトファイナンス、ファンド投資業務等に従事する。2018年9月よりGOB Incubation Partners株式会社のCFOとして大手企業や地方の新規事業の開発及び起業の支援等をしている。加えて、複数のスタートアップ企業等の財務や法務等の支援も実施している。