新しい年の始まりに際し、世界中の人が特別な願いを祈りに込めただろう。
世界はコロナの途上にある。2021年もコロナとの物語を私たちは生きていく。
私たちの世界は物語を生きている。ときには分岐点に立ち、何かを終わらせ、新しい何かを始めることになる。痛みを伴うピリオドもあれば、夢を乗せた出発点になることもある。どちらであれ、旅は続く。
いきものがかりのリーダー・水野良樹(38)も分岐点を迎えている。「SAKURA」「ありがとう」をはじめ、いきものがかりのヒット曲の多くを作詞作曲した人だ。
同級生と組んだバンドに友達の妹がボーカルで加わり、地元の駅前で路上ライブを始めた高2の夏。実現は99.9パーセント無理と思いながらも、0.1パーセントのプロの道に賭けた大学1年の秋。大学3年で大手芸能事務所と契約した。風変わりなバンド名は小中高と同級生だった2人が小1のときに一緒に担当した係からとった。1年間、ディレクターの厳しい指導に耐えた。思ったように流れがつかめないまま、ファーストシングル「SAKURA」でメジャーデビューしたのは大学を卒業する春だった。
「SAKURA」は31週連続でオリコンチャートにランクインした。2006年春のことだ。
2010年NHK連続テレビ小説のテーマソング「ありがとう」、2012年ロンドンオリンピックのNHK番組テーマソング「風が吹いている」。「ありがとう」は東日本大震災直後の春のセンバツ高校野球で開会式の行進曲となった。
国民的ソングを立て続けに生み出してきた。家族やカップル、シニアから子どもまで、誰もがサビのフレーズを口ずさみ、その曲を耳にした景色を記憶とともに思い浮かべることのできる歌だ。
国民的ミュージシャンになったいきものがかりは、2020年春、事務所との契約を終了し、マネジメント会社を設立した。
曲づくりにはマイナスの話こそ知っておきたい
売り上げやプロジェクトの進行まで把握できるようになった水野。曲づくりにもいい影響があると言う(写真はイメージです)。
Kaspars Grinvalds / ShutterStock
CD、ライブ、グッズなど、売り上げは年間で億単位だ。音源制作から広報、営業、ライブツアーまで、事務所と大手レーベルは100人以上が関わる体制で支えてきた。
特に所属していた大手芸能事務所は、アマチュア時代にいきものがかりが地元神奈川の小田急線沿線で路上ライブをしていたところを発掘した育ての親だ。デビュー以来16年間所属したその事務所を卒業した。子どもの頃から育ててもらった、多くの人のおかげでここまできたと、関係者への感謝を水野は口にした。
新会社はMOAIと名づけた。
バンド名をつけることに悩んだデビュー直前、ボーカルの吉岡聖恵が候補にあげた思い出の名前の一部からとった。
水野が社長を兼務する。パソコンのキーボードをクリックするだけでプロジェクトの進行から売り上げや会社の収支まですべて見渡すことができる。「小さな会社なのでなんてことはないんですが」と照れ、「でも、見晴らしは随分と良くなりました」とつけ加えた。
全てが把握できるようになったことで、音楽活動にも集中しやすくなったという。
例えば、企業のキャンペーンで起用されるタイアップソング。競合の末にいきものがかりが採用されればいいが、不採用に終わるときもある。巨大なシステムでいきものがかりが運営される体制では、そうした負けたときの話が当人たちの耳に入ってこない。だが、水野はマイナスの話こそ知りたい。
「僕の場合、空気を読んで音楽をつくるんです。それは作詞だけではなくて、作曲でも同じ感覚です。
そのためには、いいことだけではなくて悪いことも含めて全部が自分の中に入っていることは重要なんです」
目に見えたものを切り取ってつなぐというよりは、目に見えない空気まで感覚で捉え、咀嚼し、芯に残るものを紡ぎ出す。
主語が自分でない曲づくりに葛藤
全体を捉えたいという思考は大学で学んだ背景とも関わりがある。入学した一橋大学社会学部でオリエンテーション初日、担当教官は水野たち新入生にこんなことを語りかけた。
「俯瞰して物事を見ると言っても完全な客観性は持ち得ない。そして、考えの異なるAとBという2人がいる際、自分自身もまたAとBの間のどこかにいる当事者であることからは免れない。そのことを忘れないように——」
その2年後、高3を最後に活動休止していた3人は再び集まる。そして厚木市のライブハウスを皮切りにインディーズデビューを経て大手芸能事務所と契約した。
ギターとハモニカ担当の山下穂尊と水野は曲づくりを厳しく鍛えられた。
「SAKURA」を始め楽曲の多くは水野の作詞作曲によるもので、デビュー当初から曲づくりには自負があったはずだ。その水野は関係者から「女性ボーカルなんだから、お客さんが聴きたいのは女の子の気持ちではないのか」と指摘された。要は、女の子ウケする曲をつくれ、と言っているのだ。内心「なんでだよ」と毒づきながら、従わないわけにもいかず、若い女性の恋をテーマにした曲を書いたところ、女子高生から「なんで私の気持ち、わかるんですか」と言われ、驚いた。
自分の思いとはやや異なる曲をつくり、それが受け入れられるという経験を重ねていくうちに、曲に対する価値の置き方は変化していった。
「必ずしも社会に対して訴えたい思いを曲に乗せなくても、聴いてくれた人が人生の大切な場で思い出すような曲が記憶として残る、そんな曲をつくることができるっていいな、と思えるように変わったと思います。
でも、自分を主語にしていないからといって、決してひとごととして作っているのではありません。自分も曲をつくる当事者として関わり、歌を送り出しているんです」
老若男女に歌い愛されるいきものがかりでありたいと願うようになり、瞬く間にそんな存在になった。大勢の人たちに支えられてのことだった。
だが、いきものがかりは3人に戻ることを選んだ。
それはなぜなのか。
いきものがかりを続けるためだと水野は言う。
場の強さに向き合う手触り感求めて
2017年には2年近いグループ活動休止を選択。その間、自ら編集長を務める「HIROBA」を立ち上げた。
HIROBA公式サイト
図らずも、コロナは私たちに組織と個人の関係を見直すよう迫った。さまざまな経済活動の場で効率を優先して膨張しきったシステムは果たして個人の幸福を支えているのか、生き方を再考するよう促した。
そうした社会の変化と新会社の設立時期が重なったのは、水野によれば偶然だ。
水野といきものがかりの初動はもう少し早い。2017年には「放牧宣言」をし、2年近いグループ活動休止を選んだ。
前年の2016年には、水野の希望で糸井重里と対談している。
糸井は1990年代末、意図してコピーライターの仕事から手を引き、インターネット初期にひとりでほぼ日(ほぼ日刊イトイ新聞)を始めた。糸井の人生の選択や自分で場をつくるやり方に惹かれていたその時点で、水野の頭の中にも望む未来像が立ち上がり始めていたのかもしれない。
放牧の約2年、水野はソングライターの仕事をした。楽曲提供は音楽の現場では黒子だ。休憩せずに歌手やアーティストに60曲ほど楽曲提供をしたのは、いきものがかりとしては経験したことのない現場を知りたかったためだ。
放牧が明けた2019年には「HIROBA」と名づけた新たな活動を始めた。ゲストを招いた対談、クリエイターや音楽ライターによる寄稿など、音楽を中心にさまざまな記事を公開している。ある回は、水野が楽曲を提供した縁で、演歌歌手の前川清を招いた。キャリア50年の前川が、70歳を過ぎても現役として歌い続けるとはどういうことなのか、若い世代の音楽フェスへ招かれたときの戸惑いなども交えた前川の率直な思いを長文で惜しげなく公開した。
そこには、TwitterやFacebookなど、ルールを規定する力が強いプラットフォームに対し、もっと自由に小さな公共空間をつくりたいとの問題意識がある。
「それは音楽業界で言えばSpotifyもそうで、一時期、誰でも配信できるようになったことでレーベルを通さなくても配信できるかもしれないという話になりましたが、実際は“このプレイリストに乗りやすい曲をつくろう”という流れができてしまうくらいに場が強い。その意味では3人に戻ることを選んだのも半ば同じ構造なのかもしれません」
完成された分業体制の中で役割を果たすやり方から離れ、自分たちで決めて自分たちで動かして失敗も成功も受け止める手触り感を求める。
「僕らが売れていたピークが2010年頃です。それから10年が経ち、僕らも年齢を重ね、家族を持つなど状況も変化する中で、事務所やレーベルが組織で動いていくレギュレーションに合わない部分も出てくるでしょう。このままずっとお世話になっていたら、自分たちが組織に寄りかかるような関係になりそうだという気がしました。それぞれの人生が変わる中で、活動にも変化があってもおかしくない。そのとき、自分たちで選択してその結果の責任をとるような環境に変えたいと思いました」
そうしなくては、自分たちの望む形のいきものがかりではいられないとさえ水野は言う。
17歳で結成したいきものがかりを続けたいという強い思いの背景には伏線があった。野球部キャプテンを途中でやめることになった中学時代の出来事だ。
(敬称略・明日に続く)
(文・三宅玲子)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜14年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」運営。