忘れたいのにまだ記憶が消せず、ふと胸が苦しくなる。そんな、人知れず心の奥深くしまっている傷はないだろうか。
水野良樹(38)にもあると知って、ああ、この人もそうだったのか、と安堵する思いが半分。同時に、国民的な支持を得るJ-POPの旗手がそれほどの深い痛みを心に残し続けていたことにやや驚きを感じた。
さらに、そのことはいきものがかりの活動にも影響を残していた。
神奈川県海老名市で育った幼少期、一人っ子の水野にとって、両親に連れられて大洋ホエールズ(現在の横浜DeNA)の試合を観戦しに横浜スタジアムに行ったことは懐かしい思い出だ。そして中学時代、野球に打ち込んでいたが、中3で部長になったとき、野球から離れた。
やんちゃな後輩の取りまとめがうまく行かず困っていた水野は、顧問の教師から「そんな奴ら、殴ってしまえ」と言われ、暴力で解決すればいいという考えに納得できず、退部してしまった。野球部では軽いいじめもあった。その後卒業までクラスの誰とも話さず、さらに地元の県立高校に進学してからも半年ほど1人で過ごし続けた。
ここまでは2016年の自伝的ノンフィクション『いきものがたり』に書かれている。
だが、2020年1月に出版したエッセイ集『誰が、夢を見るのか』には、当時の詳細な出来事とそれが40歳になろうとする現在も完全に過去として処理できたわけではないことが記されていた。
あの頃、さまざまな状況から孤立した14歳が苦しんだのは、孤立や周囲の不理解ではなく、いかに理不尽な状況だったとはいえ、好きな野球をやり抜くことができなかった自分を許せないという思いだった。
さらに、同書には、いきものがかりとして有名になった水野のもとに、当時同じ中学で教えていた1人の教師から手紙が届いたことも書かれていた。それは、水野がエッセイを連載していたスポーツ誌『Number』で野球をやめた経緯を読んだ教師からの、水野の孤立を知っていながら理解し支えられなかったことへの謝罪だった。
ハッとさせられたのは、その手紙を読んだ水野が気づけば震える指先で手にした便箋の端を握りつぶしていたというくだりだ。14歳の悔しさとやるせなさが蘇るほどに深い傷だったと打ち明けるには、応分の覚悟と勇気が必要だっただろう。
水野が自身の痛みを書き表したのは、『Number』を通して野球に出合い直したことが、14歳の出来事を違う角度から見つめるきっかけとなったためだろうか。
音楽も受験も、あきらめない
1年間の仮面浪人を経て一橋大学に合格した水野。その背景には「中途半端にしたくない」という強い思いが読み取れた。
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水野は部活での人間関係のトラブルよりも途中で辞めたという事実を強調し、何度か「中途半端」という言葉を繰り返した。中途半端に終わるのがいやで、目指した大学に現役で落ちたからと言って何もせずに諦めることはしたくなかったという話なのだと思われた。
野球を最後までやり抜くことができなかった後悔は、何事であれ、中途半端に終えると自分を苦しめることになるという体験として、水野の身体に刻まれたのだろう。そのことがエッセイ集『誰が、夢を見るのか』を読んでさらに腑に落ちた。
本稿のインタビューで水野が野球をやめた話に触れたのは、大学進学について尋ねたときだった。
水野と山下は高校卒業後の19歳の冬に、いきものがかりの再結成を目指し始めている。だが、その年水野は現役で合格した私立大学に通いながら、海老名パーキングエリアのうどん屋でバイトして予備校代を捻出し、仮面浪人をしていた。一浪して合格したのが一橋大学社会学部なのだが、音楽の道に進むと決めていながらなぜわざわざ有名私大を辞めてまで再受験したのかがわからなかった。
すると、水野は「いやー、頑固なんですかね」と恥ずかしそうに笑い、中学時代の野球部退部の経緯をかいつまんで話したのだった。
好きなものをあきらめた自分を許せないという思いを、音楽では味わいたくない。だから、いきものがかりを続けるためにはどうすればいいかを水野はいつも考える。今、新会社設立によって迎えた分岐点も、そのための通過点なのだろう。
『誰が、夢を見るのか』にはこんなくだりがある。
「言えることは、ただ一つだけだ。物語はいつも‘途中である’ということ。
目の前の現実はまだ答えではない。まだ結末ではない。
誰にとっても人生の物語とは、いつだって、どう進むかはわからない。
あの日の少年の未来だって、そうだったはずだ。
僕はあの頃のことを、こうやって書くことのできる未来がくるなんて想像していなかったのだから。」
追いかけている背中は小田和正だ。
山下とふたり、99.9パーセントは無理なプロデビューを本気で夢想した浪人中、テレビで見た小田和正の音楽番組『クリスマスの約束』に強烈に憧れた。プロになったら実現したいことを100項目、ふたりで大真面目にリストアップした。このとき、『ミュージックステーション』や『紅白歌合戦』とともに小田の番組名も書き込んだ。
その番組に、「SAKURA」を聴いたという小田からの声がけで参加したのはデビューした2006年。以来、続いている交流では、水野の両親と同い年の小田が、音楽をやる仲間として、あるときは背中を示し、あるときは低い目線で対等な議論に応じる。
自分の年齢のときに小田は何をしていたか、迷うと照らし合わせて指標にしている。今も音楽をつくり続ける小田は、水野にとって灯台だ。
いきものがかりを長く続けたい
MOAIが始まって、春で1年。
大きな組織から離れて、何を手に入れることができただろう。尋ねると、水野は首を傾げた。
「意思決定に関わる情報の多くは一応あるんですかねえ」
—— それでは、失ったものは?
「失ったもの? あるのかな」
事務所の体制のもとでつながっていた多くの協力者たちとは、新たに一から関係性をつくっている最中だ。慣れない交渉では相手に対して失礼なことになってしまい反省もするという。だが、ありがたいこともあるのだと、水野が笑顔を見せた。
「僕らのことを好意的に受け止めてくださる方が周りに多いので、手を差し伸べていただいたり、サポートミュージシャンやアレンジャーの方々が今までと同じように付き合ってくださったり。ライブに関しても参加してくださることになっています。そんなふうにしてくれた事務所に感謝していますし、僕らもちゃんと成長していきたい」
なるべく長く続けられるように。
それぞれが、スタッフも含めて、よりよい人生を進められるように。このMOAIというプロジェクトに関わることでプラスになる、そんな人生をうまく過ごしてほしい——。
水野はインタビューの最後をこう締めくくった。
水野と山下は今年39歳を迎える。吉岡は昨年結婚した。いきものがかりと水野の旅はまだ途中にある。
(敬称略・完)
(文・三宅玲子)
三宅玲子:熊本県生まれ。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜14年北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルブログ「BillionBeats」運営。