【スノーピーク・山井梨沙2】パリコレ常連ブランドで感じた強烈な違和感。「アウトドアパーソン」に見い出した希望

山井梨沙 ミライノツクリテ

学校にほとんど行かず“問題児”として見られていた山井梨沙(33)を、両親はあたたかく見守った。

高校はカトリック系の私立校に進むが、保守的な校風はどうしても合わなかった。スリップノットなど洋楽のハードロックに没頭し、学校よりライブハウスに通う日が多くなった。

退学したいと打ち明けた後の教師との面談の席で、父は頭を下げながら、

「先生方のご指導も聞かず、主張の強い子でご迷惑をおかけしました。でも、一人の人間として、この子の個性を認めてほしかったです」

と言った。山井は涙が止まらなかった。絶対的に自分を信じてくれる存在の体温を隣に感じていた。

その様子に学校側も姿勢を変え、退学の話は取り消しに。その後、山井は自分なりに学ぼうと授業に出席し、学級委員も任されるようになった。クラスメイトが感じている理不尽を代弁して主張しようとする山井を、信頼してくれる友達も増えていった。いつの間にか、教師と前向きな交渉もできる自分がいた。

信念を曲げずに伝えることで、誰かの役に立てるんだ。

初めての体験が、山井の内側に隠れていた「ファッションデザイナーになりたい」という夢を膨らませた。

「学校の勉強以外でも興味あること深めて」

中学校の教室

山井は母校である新潟県の中学校で一体何を語ったのだろうか?(写真はイメージです)。

milatas / Shutterstock

2018年、山井はほとんど授業に出ていなかったという母校の中学校に出向き、在校生に講演する機会を得たのだという。そこでどんな話をしたのか? 聞くと、こんな答えが返ってきた。

「周囲に合わせて無難な道を選ぶ人生は送ってほしくない。自分が本心から好きと思えるものを見つけて、ちょっとでも続けていけば将来につながるよ、という話をしました。

例えば私は美術や家庭科は好きだったからファッションデザイナーという仕事につながったし、意外に得意だった数学も経営に役立っている。学校の勉強以外でもなんでもいいから、興味があることを深めてほしいと伝えました」

高校卒業後は上京して文化女子大学(当時)へ。在学中に舞台衣装の制作に興味を持ち、定期公演を毎月観に行っていた「大駱駝館」の麿赤兒に直談判するも、「決まった人にお願いしているから」と断られてしまう。広い視野でファッションを学び直そうと大学院に進学し、修了後はパリコレの常連でもある有名ブランドに就職。デザイナーのアシスタントとして、華やかなるアパレル業界へと踏み出した。

しかしながら、そこには葛藤に悶える日々が待っていた。資本主義のサイクルに乗るために、無理やりつくられるブームやセールを前提とした価格決定、環境負荷の高い生産構造……。そもそも、誰に、何を伝えるための服なのか?

何より違和感があったのは、ものづくりの現場にどうしても本質的に重要な何かが欠けていると感じたことだった。幼い頃から父のそばで見てきたスノーピークのものづくりでは、アウトドアを愛する仲間たちが、自然と共生するために必要な道具を膝を突き合わせて考え、お互いの考えを尊重しながら形にしていく姿があった。そして、そのものづくりの先には明確にユーザーの笑顔や、その笑顔が社会をよりよくする希望が見えていた。

1年ほど悩んだ後、山井は初めて父に相談していた。「ファッションの世界で生きる」と一度決めていた山井にとって、スノーピークで働くことはプランになかったが、父は「ここだからできるファッションに挑戦してみてもいいんじゃないか」と受け入れてくれた。

アウトドアパーソン=「お節介な人」

山井梨沙 ミライノツクリテ

山井はよく「アウトドアパーソン」という言葉を使う。「アウトドアパーソンとして」「アウトドアパーソンならこう考える」というふうに。アウトドアパーソンとは、つまりどういう人なのか。

山井の解釈によると、それは「お節介な人」なのだという。

「人に対してもモノに対しても自然に対しても、手を差し伸べるべき何かを知ったら、動かずにはいられない人。他者愛が強くて、自分で考えて正しいと判断した行動を起こせる人。

私にとってのアウトドアパーソンは、やはりキャンプの風景の中にあります。厳しい条件下にある自然の中で、自分たちはどうやって力を出し合って目的を果たしていくかを考えていく。

なんでも便利に手に入る今の世の中では失われがちな“お節介”のマインド。それが、私が知っているアウトドアパーソンの姿です」

2012年、スノーピークに入社した年、山井は初めて谷川岳を登った。創業者の祖父が愛した原点の頂きから見えた景色は、祖父が描き遺した何枚もの油絵の色彩そのままだった。「ここに来てよかったのだ」と、深く息を吸うことができた。

谷川岳

谷川岳は群馬・新潟の県境にある日本百名山の一つ。スノーピークにとってその頂きのシルエットはシンボルになるほど特別なものだ。

Navapon Plodprong / Shutterstock

祖父は時空を超えて導くような言葉も遺していた。

「この一本のザイルに、我々の生命は繋がれているのだという事が、何か美しい、人間対人間の信頼感を感じさせ、この純粋な気持ちを社会機構に成立させる事ができたら、悪というものは抹殺されると思う」(1956年8月16日、谷川岳一ノ倉にて、山井幸雄・記)

祖父が20代半ばの頃、もう60年ほど前に書いた登山日記の一節に、山井は自らの使命を重ねた。

(敬称略・第3回に続く)

(文・宮本恵理子、撮影・鈴木愛子)


宮本恵理子:1978年福岡県生まれ。筑波大学国際総合学類卒業後、日経ホーム出版社(現・日経BP社)に入社し、「日経WOMAN」などを担当。2009年末にフリーランスに。主に「働き方」「生き方」「夫婦・家族関係」のテーマで人物インタビューを中心に執筆。主な著書に『大人はどうして働くの?』『子育て経営学』など。家族のための本づくりプロジェクト「家族製本」主宰。

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