AIG損害保険の役員、林原麻里子さんはコロナを契機に東京を離れ、佐賀県唐津市へ引っ越した。
望まない転勤廃止で話題を呼んだ外資金融大手のAIG損害保険は、2021年1月からは転勤廃止に続き、東京居住が前提だった管理部門の社員も、東京に限らず希望する勤務地で、今の仕事を続けることを認めると明らかにした。
勤務地に依存しない体制を導入し、将来的にすべての社員が「希望する勤務地で働ける」ようにする方針だ。
全国に100以上の拠点をもつ同社は、2019年から会社都合の転勤を廃止。全国転勤が定番の大手損保では異例のことで、新卒採用枠には「転勤廃止前」の10倍の応募が来るなど反響を呼んだ。
そんな中でも管理部門や経営陣は、本社のある東京での勤務を余儀なくされてきたが、2021年から切り替えるきっかけとなったのは、このコロナ禍だ。
全社的に在宅勤務やリモートワークを行ったことで「もはや本社勤務社員が東京にいることもマストではない」と判断するに至ったという。
東京にいなくても働けるかも
AIG損保の広報担当役員、林原さん。唐津市内の自宅から取材に応じた。
「コロナで完全に在宅になってみて、あれ、これ別に私が東京にいなくてもできるかも?と思ったんです」
AIGジャパン・ホールディングス/AIG損害保険の広報担当役員、林原麻里子さんは、コロナさなかの2020年7月、東京の住居を引き払い、佐賀県唐津市に移住した。
実家も人生の拠点も東京の林原さんが、縁もゆかりもなかった唐津で、今の仕事を続けながら働くことを選んだのは、中学3年生の長男との同居生活のためだ。
学校は東京出身者も多く、母親だけが佐賀県に移住するなどして、家族と暮らす同級生も少なくないという。
長男が生まれたときから、働き詰めで、一緒に過ごす時間は限られてきた。
「あと、数年で独り立ちする前に、もう少し、母親らしいこともしてやりたいという思いもありました」
とはいえコロナ禍となる前は、ほぼすべての役員が東京本社に勤務する現状に特に疑問は持たなかった。林原さんは「仕事があるから、うちは(佐賀での同居は)無理」と信じ込んでいた。
「もしかして(佐賀での生活と仕事の両立が)できるかも」と考えるようになったのは、2020年4月の緊急事態宣言をきっかけとする、全社的な働く場所のシフトだ。
「コロナ前の働き方に戻ることはない」
たとえコロナが終息しても、AIG損保では「以前のようにオフィスに戻る働き方は考えていない」という。
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AIG損保は緊急事態宣言の前の3月後半から、全社的に在宅勤務にシフトし、5月の時点で9割の社員が在宅勤務となった 。会社としても「この状況は長引く。 仮に終わっても以前のような全員がこれまで通りのオフィスワークに戻る必要があるのか? 」と考えるようになったという。
「もともと災害時などを考えれば役員が東京に一極集中していることはリスクという議論はありました。リスク分散の意味も含めて、家族と同居できる佐賀で勤務することを、日本のCEOに提案しました」(林原さん)
期間は長男の卒業を見越して3年超程度、会社は「テストケース」として役員である林原さんの移住を認めることにした。
それにあたり、会社からの条件は2つ。(1)会社の辞令ではないため、移住にかかる費用を会社は負担しない(2)移住後に仕事のパフォーマンスを落とさない、だった。
林原さんが率いる広報チームは10人が在籍し、危機管理やCSRから報道対応、グループ全体で9000人の社内コミュニケーションまでを担う部署。コロナ以降はさらに多忙を極めたが、佐賀への移住後も日常業務には「まったく滞りないというのが実感」(林原さん)という。
部下にしても定例の役員会にしても、コロナ以降はほぼ全員がフルリモートのため「あえて言わなければ、私が佐賀にいるとは分からない状態」でもある。
「 社員の自主性や多様性認めてくれる会社には、 会社には、感謝しかありません。自由な働き方は会社へのロイヤリティを高めると実感しますね」
希望エリア以外の転勤廃止
コロナ禍でリモートワークにシフトしたことを受け、AIG損保は東京勤務が前提だった本社勤務社員も含めて「東京にこだわらず希望する勤務地で働ける」体制を整える。林原さんの佐賀への移住も、先行事例になっている。
もともと同社は2019年から、全国の拠点を11エリアに分類し、社員に働きたいエリアの希望を聞いた上で人材を配置。希望エリアからの転居を伴う異動を廃止した経緯がある。
具体的には希望するエリアで働く社員を「ノンモバイル社員」、勤務地にこだわらず全国転勤を受け入れる意思表示をした社員を「モバイル社員」と分類。その割合は、ノンモバイル社員66%、モバイル社員34%という。転勤ありの「モバイル社員」を人手の足りない拠点に配置し、その代わりに住宅手当や交通手当を引き上げるなど手当を厚くしている。
これに続く措置として、具体的には2021年から、人事や経理など管理部門といった東京本社の仕事をする社員にも、担当する職務の内容を精査した上で今後は東京以外での勤務も認めるという。
人事の手間は増えても、圧倒的なメリット
AIG損保の人事担当執行役員の福富一成さん。望まない転勤廃止の制度構築にも携わってきた。
提供:AIG損害保険
1月には実験的に、関西など東京以外のエリアでのフルリモート勤務を、10人程度を目途に実施するという。このパイロットで生じた課題や改善ポイントを踏まえ、順次、東京本社勤務者以外にも、同様に「勤務地自由」のフルリモートを実施していく。
「全社的に在宅ワークになったことで、本社勤務の社員も必ずしも東京にいる必要はなくなった。希望する勤務地で働く人が、より増えることになります」
AIG損保の人事担当執行役員の福富一成さんはその意図をこう説明する。
「一人ひとりの社員の希望を聞いて現場を配置することで、人事の手間は当然増えていますが、今の時代、優秀な人の採用は最大の難関。こうした制度で、子育てや介護でキャリアを諦めることなく、戦力化できる人が増えるのであれば、トータルは圧倒的にメリットが上回る」
実際にAIG損保では、2019年から「望まない転勤廃止」を打ち立てたことで、新卒採用への応募が10倍になった。生産年齢人口(15〜65歳人口)は2015年に7728万人(国勢調査)だったのが、2040年には2015年比で25%減の6000万人を割り込む見通しだ(国立社会保障・人口問題研究所、出生中位推計)。
一時的な景気の浮き沈みはあるにしても、あらゆる企業にとって、人材採用が困難になっていくことは明白だ。
会社にすべて捧げる働き方は終わろうとしている
転勤制度に象徴されるように、日本では働く場所や時間の自由度は低かった。
撮影:竹井俊晴
本人の希望とは無関係に行われる転勤制度に象徴されるように、日本では働く場所や時間の自由度は長らく低かった。
Business Insider Japanの過去のアンケートでも「家を買った直後に転勤。退職か転勤二択だった」「共働きの妻に出産間近で転勤命令出て、単身赴任に。共働きの妻はワンオペで上の子を見ながら出産」といった、社員のプライベートへの配慮が一切ない実態が浮き彫りになっていた。
しかし、会社への“滅私奉公”的な働き方が薄れる中で、転勤のあるなしを選べる働き方、家族やライフステージに合わせて勤務地や働き方を選べる会社が、これまで以上に働き手を引きつけるのは間違いない。
さらに、2020年から世界を襲ったコロナ禍によって、日本でも大企業を中心に、在宅ワークやリモートワークがかつてないスピードで普及しつつある。全ての転勤や異動が本当に必要なものかどうか。改めて検証するタイミングにあるだろう。
転勤廃止を皮切りに、すべての社員が希望の勤務地で働ける状況へのシフトに舵を切ったAIG損保は、まさにその実例と言える。
「すでに人材が会社を選ぶ時代にシフトしています。会社組織が変わらなければならない時が来ている」(佐賀県に移住したAIG損保の林原さん)。
全国や世界に拠点のある企業でも、すべての社員が希望する勤務地やスタイルで働くこと。
社員9000人、日本国内拠点数100以上のAIG損保の規模でそれが実現できるのであれば、多くの企業にとって非現実的な話ではないはずだ。
(文・滝川麻衣子)