ゴールを定めたら、そこから逆算して戦略的に努力する。ビースポーク社長、綱川明美(34)は自らの性格を「ソリューション型」と評する。
綱川は高校卒業後、渡米している。進学したカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)では3年で卒業しようと、卒業に必要な単位数を分析して、難易度は高いが1科目の単位数が多いヘブライ語やアラビア語を選択し、2年間で取らなければならない単位を1年で取得した。
こうと決めたら達成するまで諦めない資質は母親譲りかもしれないと言う。
「お母さんは何事も最後までやり切ることに集中する性格だったと思います。UFOキャッチャーを始めると、最後の1匹を取るまで諦めない。家の中で大統領のような存在だったので、家族の最大のミッションはお母さんをもてなすことでした」
綱川の両親は日本の家電製品などを輸出する会社を経営していた。
「事業がピンチになったこともあると思うんですけど、2人ともすぐに立ち直るサバイバル系でした。離婚した後もお互いすぐに再婚してましたから。え?あれだけ悲しがってたじゃんと思いましたけど」
両親とも仕事で飛び回る生活だったから、帰宅してもいつも家には誰もいなかった。友達の「キョウコちゃん」の家に遊びに行って初めて、家族って週末に一緒にどこかに出かけたり、夏休みには祖父母の家に行ったりするもんだと知った。だから将来の夢は「サラリーマン」だった。
母親は小さい頃から習い事をたくさん勧めてきた。塾でも優等生だったのに、中学時代、ジャニーズJr.にハマりすぎて成績は急降下をたどった。手紙を持ってNHKの前で待ち、ジャニーズショップに数時間並び、週末は追っかけに費やした。一気に落ちた成績に、塾講師は「がっかりした」と一言。「うわー、恥ずかしい」と追っかけをスパッとやめた。
金髪ギャルの高校時代、英語力は餓死レベル
神奈川でも高偏差値の県立高校に通った綱川だが、その出で立ちは金髪にミニスカート、ルーズソックスと、明らかに「ギャル」だ。
提供:綱川明美
高校時代は、母親に恥ずかしいから一緒に歩きたくないと言われるほど金髪のギャルだった。毎日マック行ってポテト食べてプリクラを撮っている日々に、「このままだとまずいなあ」と焦った。海外行きは母の勧めだった。当初スタバで注文すらできなかった英語力に、「このままでは餓死する」と必死で勉強した。
「ずっとコンプレックスの塊でした。両親から『可愛い、可愛い』と言われた妹と比較され、『だから、あなたは勉強しなさい』と言われたのに、中学で良かった成績が急降下。私には他に取り柄がないと思っていた高校生時代は、気づいたらギャルの仲間入り。アメリカに行っても英語が全然できない。就職時にどうしても入りたい投資銀行が見つかったのに、そこでもどんなに頑張っても追いつけない壁のようなものがあって」
「Ah, because she is pretty.」
マッコリー・キャピタル時代の綱川。課題に食らいつく中で徐々に認められ、社員の座を掴み取ったが……。
提供:綱川明美
最初に就職した豪州系投資銀行マッコーリー・キャピタルでは、新卒は採用していないと言われたにもかかわらず、「無料でいいから働かせて欲しい」と懇願して、アルバイト程度の給料で1日睡眠3時間で働いた。
容赦なく出される重量級の課題。最初は「防衛関連企業の分析」。土地勘もなく、そもそも業界分析などやったこともない。その日の夜、知り合い50人ほどに「誰か(業界分析の)サンプルちょうだい」と連絡した。その後もJR3社の業績比較など次々降ってくる課題をこなすうちに、何件か新規の案件も取れるようになってきた。
社員として採用された後、シドニーでの研修に参加した。一緒だった仲間は皆、他社で経験を積んでいた。研修最終日、参加者の1人に「なぜ君はこの会社に入れたの?」と聞かれた。100本ノックのような課題をこなした経験を話そうとしたら、その場にいた別の1人にこう言われた。
「Ah, because she is pretty.」
“普通の家族”に憧れ、夢のサラリーマン生活を希望する会社で叶えたはずだった。両親や教師に認められるために努力もしてきた。
「悔しいとかそういう気持ちより、不思議な感じでした。母親からあなたは見た目を磨くより勉強しろと言われて努力してきたのに、今度はprettyって言われるんだって。自分は何をやっても認められないのかなと思ったんです」
頑張ってきたのは枠を作る側になるため
その後も、どこか物足りなさを感じる日々が続いたという。
綱川はマッコーリー・キャピタルを辞めた後、一度独立し、海外企業の日本進出を手伝っていた時期がある。テレアポの手伝いや顧客リストの作成、ウェブサイトの翻訳から市場調査やプライシングまで。見よう見まねでやっていくうちに、ブルガリアの空調設備会社からイスラエルのゲーム会社まで多くの案件を抱えるようになった。だが、ある時ふと気づいた。
「このままやってて意味あるのかな。なんで私、人が活躍するのを手伝っているんだろう」
与えられたミッションをクリアしていくだけの人生に物足りなさを感じていた。その後就職した会社で、ある時、同僚の男性にこう言われた。
「今まで普通の人よりいろんなことを頑張ってきたのは、誰かによって作られた少数のポジションや枠を取りに行くためじゃないはず。一生懸命頑張ってきたのは、その枠を作る側になるためじゃないかと思うんだよね」
そう言った当の本人は今もその会社に留まっている。だがその言葉にハッとしたという綱川の前には、起業という道が輪郭を現し始めていた。
(敬称略、第4回に続く)
(文・浜田敬子、写真・伊藤圭)
浜田敬子:1989年に朝日新聞社に入社。前橋支局、仙台支局、週刊朝日編集部を経て、1999年からAERA編集部。女性の生き方や働く職場の問題、国際ニュースなどを中心に取材。AERA副編集長、編集長代理を経て、2014年に編集長に就任。2017年3月末に朝日新聞社退社。同年4月よりBusiness Insider Japan統括編集長に就任。2020年12月末に退任。「羽鳥慎一モーニングショー」や「サンデーモーニング」などのコメンテーターも務める。著書に『働く女子と罪悪感』(集英社)。