受精卵の細胞分裂が進むようす。
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iPS細胞を用いて肝臓や心臓の細胞を作る——。
現代では、iPS細胞やES細胞(※)と呼ばれる多能性幹細胞を使って、欲しい細胞や組織を作り出す研究が精力的に進められています。
私たちの全身の細胞は、精子と卵子が融合した「受精卵」というたった1つの細胞から生み出されたものです。
受精卵から幾度となく細胞分裂が繰り返されていく中で、ある細胞は皮膚の細胞になったり、ある細胞は脳の細胞になったりと、細胞の運命が決定づけられていきます。
これが「分化」と呼ばれる現象です。
※ES細胞:受精卵をもとに作られた胚性幹細胞。iPS細胞と同じようにさまざまな細胞になることができる。
細胞は一度分化してしまうと、もう二度と分化前の状態に戻れないと考えられていました。
その前提を覆したのが、iPS細胞でした。
iPS細胞が「すごい」と言われているのは、分化した細胞にたった4つの遺伝子を導入するだけで、別の細胞に分化できる能力を再獲得できるためです。
この万能性から、iPS細胞は「万能細胞」と呼ばれることもあります。
線維芽細胞から樹立したヒトiPS細胞のコロニー(集合体)。コロニーの横幅は実寸約0.5ミリメートル。
提供:京都大学教授 山中伸弥
iPS細胞の研究では、iPS細胞を思い思いの細胞へと分化させるための培養条件や、iPS細胞がそれぞれの機能を持つ細胞へと正しく分化する上で細胞内で発現している遺伝子の種類などの探求が行われています。
実はその流れの中で、iPS細胞を材料にして、精子や卵子といった生殖細胞を作る研究も進められています。
iPS細胞から完全な形で精子や卵子を作ることができるなら……。そこから受精卵を作り、子どもを生み出すこともできるかもしれません。
ヒトで行うには倫理的に非常に大きな問題をはらんでいる技術ではありますが、一方で、何らかの理由で卵子や精子を作れないような夫婦にとっては、究極の不妊治療の手法になる可能性も秘めています。
そこで今月の連載「サイエンス思考」では、京都大学iPS細胞研究所の斎藤通紀教授にご協力いただき、iPS細胞を使った不妊治療の可能性や、精子や卵子といった生殖細胞を研究する発生生物学の最前線について話を聞きました。
マウスではiPS細胞由来の子どもを生み出すことができる
マウスを使った実験では、すでにiPS細胞由来の子どもを生み出すことに成功している。(写真はイメージです)
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「マウスであれば、iPS細胞由来の卵子と生体内で作られた精子から受精卵を作り、子どもを生み出すことはできています。一方、ヒトの細胞を使った実験では、卵子や精子の『元』になる細胞を作ることまではできています」
斎藤教授は、iPS細胞から子どもを作ることが「できるかできないか」といえば、マウスではすでに「できる技術はある」と語ります。
ヒトのiPS細胞から子どもをつくることは、倫理的に大きな問題を含み、現段階では禁止されています。
斎藤教授は、マウスiPS細胞やES細胞から生殖細胞の「元」である始原生殖細胞を作り出し、そこから精子(2011年に成功)や卵子(2012年に成功)の培養に成功。実際に、子どものマウスをつくることにも成功しました。また、ヒトiPS細胞から始原生殖細胞(2015年に成功)を作り出し、初期の卵子を作ることにも成功しています。
これらの成果は、iPS細胞から試験管内で生殖細胞を作り出す研究の礎を築いた成果であり、世界的にも大きく注目されました。
現在では、マウスはもちろんのこと、サル、ヒトの細胞を使って、卵子や精子といった生殖細胞を正常な形で作り出すために必要な遺伝子のさらなる探索を進めています。
斎藤教授は、そういった中で、
「生殖の研究を本格的にできるようにするには、試験管内での研究ができないといけない。それができると、大きなアドバンテージになるはずです。私は、その基盤作りをしています」
と自身の研究について話します。
ヒトの卵子。卵子を研究するにも、卵子を手に入れる方法がなければなかなか研究を進められない。
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卵子の成分を分析したり、卵子になる過程で発現する遺伝子を調べたりと、研究においては何をするにもまずは卵子が必要です。しかし、マウスなどのモデル生物から卵子を得ようにも、1匹のマウスから得られる卵子の数は限られています。これでは研究のスピードも加速されません。
ましてやヒトの卵子で研究を行うには、倫理的に非常に高いハードルがありました。
iPS細胞を用いて生殖細胞を作り出す技術を確立できれば、これらの課題の多くが解決することになります。斎藤教授が「基盤作り」の重要性を訴える理由は、ここにあります。
斎藤教授は、2020年2月にも、始原生殖細胞から卵母細胞と呼ばれる卵子の前段階の細胞を作る因子を特定したことを発表。アメリカの科学誌『Science』に掲載されました。
iPS細胞はどんな環境で生殖細胞へ分化するのか。そして、そのときどんな遺伝子がはたらいているのか。地道な研究の積み重ねによって、試験管の内部で生殖細胞を着実に再現できるようになってきているのです。
iPS細胞はどこまで生体内の細胞を模倣できるのか?
受精卵が細胞分裂していくようす。受精後、発生の過程でうまく成長しないこともある。
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iPS細胞を欲しい細胞に分化させる上で重要なのは、いかに細胞の機能や様子が生体内の状態を模倣できているかという点に尽きます。細胞内で遺伝子のはたらきを制御する「エピゲノム」と呼ばれるDNA上の特徴なども、重要なポイントの一つです。
では、現状の技術で、どこまでうまく生体内にある生殖細胞を模倣できているのでしょうか?
斎藤教授は、
「だいぶ改善はしてきています。(成長させる)途中で異常が蓄積して、最終的に一部しか良い状態になりませんが、マウスではかなりできるようになっていると思います。
例えば、卵子を1000個作ったら、そのうち1個くらいが子どもになるかどうかという感じです」
と話します。
iPS細胞は、体細胞に遺伝子を導入することで再び分化できる能力を獲得した、いわば「(エピゲノムが)初期化された細胞」です。しかし、初期化されたiPS細胞がすべてまったく同じ状態というわけではありません。
「体の細胞をiPS細胞にして最終的な培養状態を維持する上で、関係のないゲノムの領域はたくさんあります。そういう領域の遺伝子は、必ずしも初期化される必要がない場合もあります」(斎藤教授)
また、iPS細胞化させる前の細胞には、細かい遺伝子の変異が積み重なっています。そういった遺伝子の変異は、たとえiPS細胞になっても直りません。
斎藤教授は、
「皮膚の細胞は生殖細胞の10倍程度、変異が入りやすい。極端な話、(皮膚の細胞から)iPS細胞を使って精子を作り受精させた場合、10倍年をとったヒトの子どもができると考えることもできます」
と話します。
iPS細胞の研究に一般に言えることではありますが、結果的に、誰の、どの部位にある細胞を元にするかによって、生み出されたiPS細胞の株の質が変わり、思いもよらないところで影響が出てくる可能性があるのです。
こういったiPS細胞の株ごとの性質の違いに関する基礎的な研究も、今後iPS細胞の臨床利用を考えていく上では重要になってくるはずです。
生殖細胞の研究が不妊治療に与える恩恵とは?
顕微授精のために卵子を選んでいる医療技術者。日本では2017年の段階で、全出生児の約16人に1人が顕微授精や体外受精といった生殖補助医療によって生まれている計算になるという。
REUTERS/Benoit Tessier
ここまでの話を聞くと、iPS細胞を用いて作られた生殖細胞が、不妊治療に直接役に立つようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。
ただし、斎藤教授は「臨床的に考えると、いろいろなステップがあると思います」と、次のように話します。
「試験管の中でiPS細胞からもう少しうまく卵子ができるようになれば、卵子が正しく育つ培養方法に関する研究が格段にやりやすくなります。
『iPS細胞を使って卵子を作り、そこから子どもを』という流れは一番シンプルな方法ではありますが、倫理的にも技術的にもいろいろな問題があります。一足飛びにそこまでいかなくとも、生体内に残っている卵子を使った(既存の不妊)治療に大いに貢献できるのではないかと思っています」
加えて、卵子や精子、受精卵には、まだまだその発生メカニズムについて分かっていないことがたくさんあります。
例えば、生殖細胞の元の細胞である始原生殖細胞は、生殖細胞になるまでの間に細胞のエピゲノム情報を初期化するシステムがあります。これは、種の違いによらず起きることですが、人におけるメカニズムは詳しく分かっていません。
また、卵子や精子の発生過程では、「減数分裂」が起きて、父親と母親からもらった遺伝子がリコンビネーションし(入り交じり)、遺伝子に多様性がもたらされることが知られています。
「エピゲノム情報の制御や減数分裂の制御の異常は、不妊などにも関係することが多いんです」(斎藤教授)
iPS細胞から作られた生殖細胞が直接不妊治療などに活かせなくとも、そこから原因が分かれば、治療法の開発などさらなる応用へと期待が持てるようになる可能性はあるでしょう。
そのためにも、まずは今分かっていない「未知」を知ることが重要なのです。
生命の「発生」を研究する意味とは?
受精のイメージ。
Yurchanka Siarhei/Shutterstock.com
卵子や精子といった生殖細胞は、それぞれが分化した細胞であるにも関わらず、融合して受精卵になると再びあらゆる細胞へと分化できるようになるため、他の細胞とはまったく異なる細胞だといえるでしょう。
そのため、生殖細胞の研究は、一般的な細胞の性質に関する「細胞生物学」ではなく、「発生生物学」という分野に含まれています。
斎藤教授は「発生生物学」における生殖細胞の研究を行う意味について、次のように話します。
「地球上には、私たちのような動物がたくさんいますよね。でも、みんな姿かたちが違います。そういう部分にアプローチしているのが発生生物学や進化生物学です。
生き物の姿かたちを考える上で必要な要素は、究極的にいえば、受精卵のゲノムと、遺伝子を制御するエピゲノム、そして受精卵の中に含まれるタンパク質などの細胞内の環境です」(斎藤教授)
これを理解するには、受精卵の研究をしなければなりません。また、受精卵の研究をするには、精子と卵子の研究が必要になります。精子と卵子も、もとは始原生殖細胞から作られています。
発生生物学には、このようなサイクルがあり、どこを出発点に考えるかは非常に難しい問題だと言います。ただし、その過程すべてが生命の誕生にとって欠かせない要素であり、現代で多くの人が悩んでいる不妊という問題にもつながっています。
斎藤教授は、「生物の進化」という意味でも、生殖細胞は非常に重要な役割を担っていると話します。
私たち人間のゲノムには、トランスボソンと呼ばれる「ウイルス由来の遺伝子」が含まれています。最近の研究では、こういったウイルス由来の遺伝子が、生物に重要な機能をもたらしたのではないかと考えられています。
ウイルスの遺伝子が動物に定着するには、ウイルスが生殖細胞に侵入して次世代に伝わらなければなりません。どのようにしてウイルスの遺伝子が取り込まれていったのかを確かめるには、生殖細胞の研究が重要です。
将来的には、種の保存のためにiPS細胞の活用が可能かもしれない。
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最近では、他にもチンパンジー、オランウータンなど、ヒトに近い希少霊長類の生殖細胞を作る研究も可能となりつつあります。人類の進化の系譜を知ることにつながることはもちろん、絶滅危惧種の動物からiPS細胞を培養して子孫をつくることで、まるで手塚治虫の漫画のような世界を実現することができるようになるかもしれません。
ただし、斎藤教授はこういった技術の転用について一つ注意しなければならない点があると言います。
「何が大事なのかはちゃんと考えないといけません。絶滅危惧種の保存も不可能ではないと思いますが、そもそも環境を守らないとたとえiPS細胞で子孫をつくったとしても未来がありません。
これは不妊治療への臨床応用でも同じです。子どもを育てることは非常に大変です。たとえ不妊が解決できたとしても、実際に子どもを育てる社会環境がなければいけません」(斎藤教授)
iPS細胞の登場によって、生命科学は大いに進歩を遂げました。これから先も、しばらくその状況は続くでしょう。とくに、「生殖細胞」をはじめとする「発生生物学」などの研究スピードが格段に上がった分野ほど、その影響は顕著なはずです。
この先、基礎研究における理解が進むことで、技術的に実現可能なことが増えていくことが予想されます。社会に大きな影響を与えうる研究の加速に対して、そこで生み出された技術をどう社会に還元していくのか、私たちもそれに備えておかなければならないのかもしれません。
(文・三ツ村崇志)