山形県に本拠地を置くバイオベンチャー企業、Spiber株式会社(以下、スパイバー)をご存知でしょうか? 人工タンパク質の開発を行っている同社がこのほど、「事業価値証券化」という耳慣れない金融手法を使って250億円の資金調達を行ったというリリースを発表しました。
スパイバーは、世の中で最も強靭で伸縮性にも富むと言われるクモの糸を人工的に開発することに世界で初めて成功したスタートアップ企業として有名です。未上場ながらも時価総額(※1)は1000億円を超えている、いわゆる「ユニコーン企業」のひとつです。
スパイバーが国内外で注目されている理由は、同社が開発している新素材にあります。
ザ・ノース・フェイスとスパイバーの共同開発プロジェクトで生まれたアイテム「ムーン・パーカ」。表地の素材には構造タンパク質「ブリュード・プロテイン」が使われている。
Koki Nagahama/Getty Images
スパイバーは現在、構造タンパク質素材「Brewed Protein(ブリュード・プロテイン)」を開発しています。人工タンパク質とも言うべきこの素材を用いれば、ポリエステルやナイロンのような石油由来の素材に代わって、現在の合成繊維と同等かそれ以上の性能を持つ材料を製造できる可能性があります。
人工タンパク質は、地球上に多く存在するタンパク質を原料にしていることもあり、脱石油素材の大本命の技術の一つとも言われているわけです(※2)。
2019年には、スパイバーの株主であり、日本における「ザ・ノース・フェイス」の商標権も持つゴールドウインと共同で、ブリュード・プロテインを用いた「ムーン・パーカ(MOON PARKA)」を発表しました。
さらに2020年10月には、同じくスパイバーの株主に名を連ねるアメリカの穀物大手企業アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド(ADM)から追加で59億円を調達し、ブリュードプロテインの原料の量産工場を建設すると発表しています。
エコ意識の高まりで揺れる繊維素材業界
このように日本が誇るバイオベンチャーとして繊維素材の分野で世界をリードしているスパイバーですが、競合も出てきています。
サンフランシスコ発のスタートアップ企業ボルトスレッズは、酵母を用いて合成したタンパク質のシルク繊維「マイクロシルク(MICROSILK)」を開発して話題になりました。2020年には、菌から作った人工レザー「マイロ(MYLO)」の開発に関して、アディダスやケリング(グッチ等のブランドを有する企業)を含む4社との戦略的パートナーシップを発表。2021年の商品化を計画しています。
スパイバーのブリュード・プロテインによる脱石油、ボルトスレッズによる脱レザー——いま繊維素材業界では、地球の環境や持続可能性を踏まえた新たな動きが急速に進んでいます。このような競争環境では、ライバル企業に先んじて製品化し、量産することがビジネスの面においても非常に重要になってきます。
今回、スパイバーが250億円もの資金調達を行ってアメリカに工場を建設するのはおそらく、ライバルに先んじていち早く量産体制を築くことを狙ってのことなのでしょう。
なぜ銀行の融資で資金調達しなかったのか?
工場を建設して量産体制を整えるためには多額の資金が必要です。このような設備投資では銀行からローンを借り入れることが一般的ですが、スパイバーは今回、借入ではなく「事業価値証券化」という一風変わった金融手法で資金調達をしています。なぜなのでしょうか?
まず、なぜ借入ではなかったのかという疑問については、スパイバーの業績を見てみれば理由が分かります。
スパイバーは画期的な技術を持つ日本有数のユニコーン企業とはいえ、図表1のとおりまだ赤字の状態。黒字化するのはもうしばらく時間がかかりそうです。
このように赤字続きの状態では、今回のような250億円もの多額の資金調達について、融資リスクを負える銀行は、現実的にはないでしょう(※3) 。「銀行は冷たいな」と思われるかもしれませんが、お金を貸し出す側にも言い分があります。
銀行は、主に預金者から預かったお金を元手に企業に融資を行っていますから、貸したお金は絶対に返済してもらう必要があります。そうでないと、貸し出した融資が焦げ付き不良債権化してしまうからです。
あまりに不良債権が増えると、預金者が「この銀行は大丈夫か」と不安になり、最悪の場合、取り付け騒ぎにまで発展しかねません。そうなっては困るので、赤字を計上しているような企業にはおいそれと融資はできないのです(※4)。
スタートアップの多くはエクイティで調達
でも、スパイバーをはじめ多くのスタートアップ企業は、事業が軌道に乗るまでは赤字続きであることが少なくありません。成長のためには多額の資金が必要になるのに、銀行から継続的に融資が受けられないのでは困ってしまいますね。
そこで、リスクが大きいスタートアップ企業は多くの場合、ベンチャーキャピタル(VC)やエンジェル投資家、そして事業会社のような投資家に資金を提供してもらうのです。
ここまでのところを整理しておきましょう。
資金調達には大きく分けて2つあります。1つは銀行などから融資(ローン)を受ける形での調達で、これを「デットファイナンス」と言います。もう1つは株式を発行することでVCなどから出資を募る方法で、こちらは「エクイティファイナンス」と呼ばれます。
赤字を掘るようなビジネスを行うスタートアップ企業の多くは、デットファイナンスに頼りにくいため、エクイティでの調達を行うのが一般的です。実際、スパイバーもこれまでエクイティで累計350億円強もの調達を行ってきました。
スパイバーが思いついた第3の資金調達方法
ところが、です。スパイバーは今回、アメリカに新工場を建てるのに必要な250億円を、エクイティ(株式発行)ではなく「事業価値証券化」という謎の手法を使って調達しました。なぜこれまでのようにエクイティでの調達を行わなかったのでしょうか?
答えはずばり、「株式の希薄化」が進んでしまうからです。
この連載の第20回でもお話ししたように、主たる株主が株式の何%を保有しているかによって企業に及ぼす影響力は変わってきます。簡単におさらいをすると、株式の66.7%以上を持っていれば「支配権」が握れ、50%以上で「経営権」が、そして33.4%以上で「拒否権」がそれぞれ得られるということでしたね(図表3参照)。
スタートアップ企業が上場する際、その経営者が一番多くの持分を持っているケースが多いものです。理想的には50%以上を経営者(もしくは経営陣)で持ちたいところ。そうすれば経営権を確保でき、会社の経営を思うようにコントロールできるからです。
ですが、新株発行などの増資を行うことでエクイティでの調達を重ねていくと、発行済株数が増えるため、1株当たりの価値が低下していきます。これが「株式の希薄化」です。とはいえ多少の希薄化が進んだとしても、せめて拒否権が残る33.4%以上の持分は経営陣で確保しておきたいものです。
実際、上場するスタートアップ企業の傾向を見ていると、経営者が筆頭株主で、かつ33%前後の持分を確保した状態で上場することが多いです。
ではスパイバーはどうでしょうか。同社の有価証券報告書を確認すると、2020年12月末時点の推定の大株主は図表4のとおりです。
ご覧のとおり、スパイバーの代表である関山和秀氏の推定持分は6.6%で、すでに筆頭株主ではない状態です。トップのシェアを持つKISCO株式会社でさえ推定持分は15.9%ですから、かなり希薄化が進んでいます。
スパイバーのような技術系バイオベンチャーはどうしても先行投資がかさむ傾向にあります。そのため、多少の希薄化を容認してでもエクイティで多額の資金調達をせざるをえないという事情はありますが、さすがにこれ以上の希薄化は危険です。
もし、現在のような株式分布の状態で新たに250億円をエクイティで調達したらどうなるでしょうか? 仮に調達前の時価総額を1100億円とします。そこに新たな株主から250億円を調達したら、この株主の持分は250億円÷(1100億円+250億円)=18.5%。どうでしょう、新たな株主がいきなり筆頭株主になってしまいます。
もちろん、250億円もの金額を1社の投資家がポンと出すのは難しいですから、実際には複数の株主が出資することになるでしょう。でもこれはこれで厄介です。株式の分散がさらに進み、誰が会社をコントロールしているのかが分からなくなってしまうからです。
もしエクイティでの調達時に時価総額を高めることができれば希薄化は抑えられますが、赤字続きでは短期的に時価総額を上げることも簡単ではありません。
手強い競合に先んじて量産体制を築くためには新工場が必要。その新工場を建てるためには250億円が必要。でも銀行からの融資は受けられない、新株を発行して資金調達するのも難しい……。
そこでスパイバーが思いついたのが、「事業価値証券化」という第3の調達方法だったのです。この手法のしくみについては、次回詳しく見ていくことにしましょう。
※後編は1月28日(木)の公開を予定しています。
※1 よく「『時価総額』という用語は上場企業のみに用いられ、未上場企業対しては『企業価値』という用語が使われる」と理解されていることが少なくありませんが、両者は厳密には異なるものです。ざっくり説明すると、会社全体の価値を表現したものが「企業価値」であり、会社全体の価値のうち純資産の部分の価値(株主価値)を表現したものが「時価総額」です。本稿では厳密を期し、スパイバーの「時価総額」としています。なお、時価総額、株主価値、会社の値段およ及び企業価値等の関係については、この連載の第32回(「日テレ、第2四半期赤字の主因は子会社ティップネス。決算の明暗分けた81億円の『のれん』とは?」)でも解説しています。
※2 横山泰明「スパイバーが相次ぐ増資、評価額が1000億円超えのユニコーンに」WWD Japan、2020年4月10日。
※3 政府系金融機関である日本政策金融公庫による資本性ローンや創業支援融資、また保証協会付きの融資やコロナ対策の制度融資など、赤字でも融資を受けることができる場合もあります。一方で、売上等の実績があまりない中で多額な融資となると、多くの場合借り入れるのが難しいケースがほとんどです。
※4 企業の不良債権と貸倒引当金の関係についてはこの連載の第27回(「『半沢直樹』の帝国航空案件が現実に起きたら…銀行関係者ならツッコみたくなる「貸倒引当金」の存在」)で詳しく解説しています。
(執筆協力・伊藤達也、連載ロゴデザイン・星野美緒、編集・常盤亜由子)
村上 茂久:1980年生まれ。経済学研究科の大学院(修士課程)を修了後、金融機関でストラクチャードファイナンス業務を中心に、証券化、不動産投資、不良債権投資、プロジェクトファイナンス、ファンド投資業務等に従事する。2018年9月よりGOB Incubation Partners株式会社のCFOとして大手企業や地方の新規事業の開発及び起業の支援等をしている。加えて、複数のスタートアップ企業等の財務や法務等の支援も実施している。