2017年5月、尖閣諸島(中国名・釣魚島)周辺海域を巡視する中国海警局の船舶。
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中国が海上警備を担う海警局に武器使用を認める「海警法」を2月1日に施行し、尖閣諸島(中国名・釣魚島)を「武力で奪おうとしている」と危機感をあおる声が強まっている。
だが、冷静に考えれば、アメリカ沿岸警備隊や日本の海上保安庁も「準軍隊」組織であり、中国海警局と同じく武器使用権限を与えられている。
また、米中の戦略上の対立が続くなか、対日関係を重視する中国が尖閣諸島を奪う客観的条件やメリットは皆無だ。
「海警法」をめぐるいくつかの論点
中国海警局(略称・海警)の歴史は浅く、日本が尖閣諸島3島(魚釣島・北小島・南小島)を「国有化」した翌年(2013年)、国土資源部(海監)など5海上保安機関を統合して発足した。5年後の2018年には中国共産党・中央軍事委員会が指揮する「人民武装警察部隊(略称・武警)」の下に置かれたことから、日本では「海警軍隊化」への懸念が高まった。
海警にはこれまで依拠すべき法律がなく、在日中国大使館は2月2日、海警法の制定はあくまで「通常の立法活動」であるとの報道官文書を発表。海警法を以下のように位置づけた。
- 国際法と国際慣行に完全に合致し、各国の海上警察に関する法律とほぼ同じもの
- 武器の配備・使用は世界の沿海国で通常行われており、目的は極端に悪質な犯罪の取り締まり
- 管轄海域は明確で、中国の海洋権益の主張と海洋に関係する政策に変化はない
陸海空三軍と海兵隊に続く「第五の軍種」と位置づけられるアメリカの沿岸警備隊。2016年、ミシガン湖でのセーリング大会警備中のカット。
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ここからは、海警法をめぐるいくつかの論点を整理しておこう。
まずは海警の「準軍隊」としての側面。近年、中国公船による尖閣領海への進入が常態化していることと関連づけ、習近平体制下で海警が党中央軍事委員会の傘下に置かれたために、海警の動きが「軍事作戦上の行動との区別がつきにくくなる」との見方がある。
日米中の海上警察のなかで最も歴史の古いアメリカの沿岸警備隊は、陸海空三軍と海兵隊に続く「第五の軍種」と位置づけられる。大統領命令によって海軍の一部として運用される補完的な存在で、元来「準軍事組織」だ。
また、海上保安庁は連合国最高司令官総司令部(GHQ)軍政下の1948年、上述の沿岸警備隊をモデルに創設された。
自衛隊法では、首相の指示により海上保安庁が防衛省の統制を受ける旨の規定があり、有事の際は自衛隊の補完機関になる。ただし、海上保安庁法は「軍隊の機能を営むものと解してはならない」とも規定する。これは「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」を定めた憲法9条に抵触しないよう配慮した規定とみるべきだろう。
一方、中国の海警は平時から武警の指揮下にあり「第二海軍」とも呼ばれる。だが、それをもって「攻撃的」と見なすのは過剰反応であろう。
武器使用をめぐる、米中日それぞれの法規定
2012年9月、尖閣諸島(写真奥が魚釣島)の周辺海域で操業する台湾の漁船。2013年4月の日台漁業協定調印後、台湾とのトラブルは解消され、もっぱら中国との問題が中心になった。
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海警をめぐるもうひとつの論点は、そもそも武器の配備や使用は「国際法違反」にあたるのかどうか、という問題だ。
今回施行された海警法によれば、外国組織や個人が海上で中国の主権を侵害した場合、海警は「武器の使用を含むあらゆる必要な措置」をとることができるとされる。
中国は1971年から尖閣諸島の領有権を主張。2012年の日本による国有化以降は、それまで控えてきた領海進入を常態化させた。
海警法施行直後の2月6日には、海警局に所属する公船が日本漁船を追尾する形で日本領海に進入。中国側が「日本公船が中国領海に侵入した」と判断した場合、「(警戒のために配備された海上保安庁の)巡視船に武力行使するのではないか」と緊張が走ったが、結果的にはこれまで同様、巡視船と海警船の「並走」がくり返されただけだった。
なお、アメリカ沿岸警備隊は、武器使用について「停船命令に従わない船舶または権限のある船舶もしくは航空機に追跡され停船しない船舶に対し、警告射撃ののち発砲することができる」と条件を定める。
一方、日本の海上保安庁法は、前述のようにアメリカ沿岸警備隊をモデルにしながら、「武器を使用してよい対象から外国公船を除外」(=民間船には武器使用可能)と規定している。
20年前の「武力行使」を思い出せ
中国の活動家を乗せて尖閣諸島に向かう不審船を挟撃する日本の海上保安庁船舶。2003年撮影(本文の「武器使用」ケースとはまた別の状況)。
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20年ほど前、海上保安庁の巡視船が自衛隊の艦船とともに、北朝鮮工作船とみられる「不審船」を追跡の末、武力行使に至った2つの事件を覚えている読者もいるだろう。
1999年3月23日、海上自衛隊の対潜哨戒機が佐渡島西方18キロの日本領海内で2隻の不審船を発見。海上保安庁は巡視船艇15隻および航空機12機を動員して追跡した。
不審船は停船命令に応じなかったため、海上自衛隊の発足以来初めてとなる「海上警備行動」命令を受けて護衛艦が射撃。さらに海上保安庁の巡視船が1000発以上の威嚇射撃を行った。このときの法的根拠は海上保安庁法ではなく、漁業法の「立ち入り検査忌避」だった。
さらに、2001年12月22日には、奄美大島沖の日本の排他的経済水域(EEZ)で不審船を発見。漁業法違反(=1999年と同様の「立ち入り検査忌避」)容疑で上空と海面から威嚇射撃をしたが、不審船が逃走したため、海上保安庁法に基づいて機関砲による船体射撃を行った。不審船との激しい銃撃戦に発展し、最後は不審船側が「自爆」沈没した。
上記のいずれも、アメリカ軍の情報をもとに海上自衛隊の護衛艦が現場海域に出動、海上保安庁の巡視船艇、ヘリとともに捜索活動を行ったあと、武器使用に至った事件だ。
隣接する「横暴な覇権国家」に対しては、「準軍隊化」「武器使用」を短絡的に「好戦的」とみる言論がメディアなどでは目立つ。しかし現実を直視すれば、海上保安庁もまた軍事組織の補完的存在に位置づけられ、上で過去の経緯をふり返ったように、漁業法と海上保安法の適用によって武器使用は可能なのだ。
自国の武力行使の可能性には甘く、隣国には厳しく、そんな公平性を欠く「ダブルスタンダード(二重規範)」で中国の動向を観察することに慣れると、実相を見失うことになる。
日本との友好関係維持したい中国の「ホンネ」
日本側は2月3日、オンラインで行われた「第12回日中高級事務レベル海洋協議」で、中国側に海警法に対する懸念を伝えたが、国際法違反とまでは断定できず、「抗議」はしなかった。自民党国防部会などからは政府の弱腰を批判する声が上がっているが、実際に武器が使用されるまでは抗議しない姿勢だ。
なぜ抗議しないのか。そのからくりを理解するための最大のポイントは、日中関係の「実相」にある。
アメリカのバイデン新大統領は2月11日、習近平・中国国家主席と就任後初めて電話で会談し、新型コロナや環境問題では協調の道を模索する一方、通商問題や香港・台湾・人権では懸念を表明した。米中の戦略的対立は今後も続くとみられる。
習政権は日本・韓国など近隣諸国との「友好関係」を重視して、アメリカとの同盟関係にくさびを打とうとしている。だからこそ、尖閣諸島の問題を含め、日本との衝突は可能な限り避けたい。
その意味で、尖閣をめぐる日中対立は、中国側からはまったく「別の風景」に見えているはずだ。
例えば、尖閣諸島を行政区域とする石垣市議会が2020年6月に「字(あざ)名変更」(=尖閣諸島の住所を「登野城」から「登野城尖閣」に)を市議会で議決してから、2014年以降ほぼ皆無だった日本漁船の領海入りが急増している。
中国側にはこの動きが、習主席の国賓訪問に反対する日本の右翼勢力による意図的な挑発であり、日中関係を悪化させる目的と見えている。
右派を抑制できない菅政権
2010年10月、東京・渋谷で尖閣諸島周辺海域における中国の領海侵犯に抗議する人々。
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一方の自民党右派や石垣市は、尖閣諸島の実効支配を強化するため、気象・海象観測施設や灯台、漁港のなど新たな構築物の建設を主張する。
今回施行された中国の海警法との関係でいえば、実際に構築物が設置された場合、中国側が撤去のため実力行使に出るおそれがある。要するに、日中公権力の衝突が現実化する。日本政府は構築物建設を認めない方針だが、それだけでも海警法が意図する「威嚇」効果は十分発揮されたといえるだろう。
自民党右派やメディアは海警法に対し「国際的連携を図れ」と訴える。だが、フィリピン以外に明確に抗議する国がほかにない現状で、「対中スクラム」を組むのは難しい。
菅政権は、バイデン大統領から「尖閣諸島は日米安保条約第5条の適用範囲」との言質をとったと自賛する(2月21日の日米高官による電話協議の結果)が、「島嶼・離島防衛の第一義的責任は日本」というのが日米共通の認識だ。
対中抑止とけん制ばかりに神経をすり減らさず、ここは指導者間の信頼関係を構築するのが、遠回りながら基本だろう。首脳訪問によって日中関係改善のコマを進めてきた安倍前首相という「突っ張り棒」を欠いたことも、昨今の関係悪化の一因だ。菅政権下では右派勢力の抑えが利いていない。
与党内の対中強硬派は尖閣諸島をはじめ、香港・台湾・人権問題などで次々と中国を挑発する言動に出ている。菅政権が求心力を失い、権力の中心が見えなくなっている。
(文:岡田充)