REUTERS/Florence Lo/Illustration
音声SNSのClubhouse(クラブハウス)に音声通信技術を提供するAgora(声網)への注目が急上昇している。
Agora自身はClubhouseが顧客かどうかを言明していないが、Clubhouseブームの盛り上がりに呼応し、Agoraの株価はこの3週間で倍に上がった。中国人起業家によって2013年に設立され、シリコンバレーと上海に本社を置く同社は、企業や開発者にアプリ用のSDK(ソフトウエア開発キット)を提供する“裏方”的存在であるため、一般的な知名度は低い。
だがAgoraの顧客リストにはシャオミ(小米科技)やバイトダンス(字節跳動)など名だたるIT企業が名を連ねており、Clubhouseのスマッシュヒットによって、「黒幕の巨人」として改めて評価されている。
創業者は米中で音声・ビデオ通信技術に携わる
ビジネスSNSのLinkedin(リンクトイン)やインタビュー記事、講演録によると、Agoraの創業者、趙斌(トニー・ジャオ)CEOは北京大学を卒業後、1997年から2004年まで米企業WebExでエンジニアとして働き、ビデオ会議システムを開発した(WebExは2007年にシスコシステムズに買収された)。
2005年に北京で動画配信スタートアップを起業、2008年にはゲーム情報サイトから事業の多角化を進めていた中国企業「YY(歓衆時代)」のCTOに就き、ゲームユーザー向け音声SNS「YY語音」をリリースした。YY語音はパソコン時代のRTC(リアルタイムコミュニケーション)ツールとして大ヒットし、語学学習やカラオケ大会などにも使われるようになったのは、前回の連載記事で紹介した通りだ。
YY語音は2010年代に登場したテンセントのメッセージアプリ「WeChat(微信)」に淘汰され、運営元のYYはライブ配信事業にシフトしていった(同事業は2021年、バイドゥに買収されることが決まっている)が、Clubhouseが2月初旬に中国で注目された際、多くのIT関係者がClubhouseとYY語音の類似性を指摘した。
「問題をすべて解決できない」挫折しかけた過去
Agoraの創業者、趙斌氏は米中両国でRTC技術開発に携わってきた。
Linkedinより
趙斌氏自身は2013年にYYを離れ、Agoraを創業した。長年RTC技術に携わってきた同氏は、2020年11月に中国のスタートアップ関連イベントに登壇し、自身のキャリアをこのように振り返っている。
「WebExを開発したとき、技術には自信があったのにネットワーク環境の問題で不具合が頻発し、『優れたコードを書けてもネットワーク環境はどうにもならない』と、この分野をやめようと思った。しかしその後、音声・ビデオ通信の活用シーンが広がり、問題をすべて解決できなくても、改善を続けていればユーザーは理解してくれると気づいた」
「2013年ごろ、途上国では電話回線が一般家庭に普及しておらず、出稼ぎ労働者が家族と電話することも容易ではないことを認識した」
趙CEOは自社サービスのためにRTC技術を開発するのではなく、さまざまなアプリを開発する企業やエンジニアに、大規模で安定したネット通話技術を提供する道を選び、2015年にライブ配信・ビデオ通話・音声通話をカバーするSDKをリリースした。
サービス開始当初はスタートアップとの協業が中心だったが、次第に大企業に採用されるようになり、技術が使われる範囲も教育、コールセンター、ライブ配信、金融、遠隔医療、EC、AIスピーカーへと広がった。
コロナ禍追い風、1年で社員倍増
Agoraはコロナ禍を背景に、コア事業の音声・ビデオ通信技術だけでなく、ホワイトボードやメッセージアプリにも進出した。中国最大の教育企業「新東方」とも協業している。
REUTERS/Thomas Peter
Clubhouseの背後にある技術は特に目新しいものではなく、爆発的な人気を呼んだ理由は、新型コロナの影響で新たなコミュニケーションツールが求められていたことや、インフルエンサーの参画などのマーケティング手法の巧妙さだと指摘されている。
Agoraも新型コロナによってClubhouseを含む新規顧客を多く獲得し、2020年6月にはナスダックに上場した。趙CEOが同年12月31日に社員にあてたメールによると、同社の従業員は1年で倍増し800人になった。また、AgoraのRTCサービス利用時間は、2016年1年間の50億分から、2020年には400億分/月に激増した。
Clubhouseに使われた音声通信技術は新しいものではないが、Agora自身はコロナ禍による利用シーンの多様化に対応し、ホワイトボード、ストレージ、インスタントメッセンジャーなど新事業をプラスして、非対面での情報のシェアを全般的にカバーしようとし始めた。特に教育分野では、中国最大の教育企業「新東方」と協業するなど精力的に動いている。
2020年1月下旬から3月まで全国的に外出制限が敷かれた中国は、オンライン授業への転換が一気に進んだ。Agoraは同年12月、支援先が開発した電子黒板を事業化。最大で40万人が同時ログインしても安定した動作環境を維持できるのが売りだ。さらに2021年1月下旬にはドラック&ドロップで簡単にシステム開発ができるオンライン授業開発プラットフォームをリリースした。
また、同時期には中国のインスタントメッセンジャー(IM)APIプロバイダー「Easemob(環信)」の買収も発表している。今後、音声通信とIM技術などを組み合わせ、非対面のコミュニケーションをより効率的に行えるSDKを開発するとみられる。
「あらゆるアプリをWeChat化する」
Agoraの趙CEOは、遠隔医療や教育などさまざまなアプリがWeChatのような双方向コミュニケーション機能を持つことで、ユーザー体験が向上すると考えている。
Shutterstock
趙CEOは2020年11月の講演で、
「WeChat内でグループをつくり、動画を送ると、グループのメンバーはボイスメッセージやスタンプですぐに返事ができる。リアルタイムでフィードバックを送ったり、多くの人の意見や気持ちを知ることもできる。私たちはWeChatだけでなく、すべてのアプリにこの機能を導入し、打ち合わせや診療、授業、ゲームなどさまざまなシーンでより有益で活発なコミュニケーションが行われることを望む」
とビジョンを語った。
自身が開発したYY語音はWeChatに敗れたが、各分野のアプリに自社の技術を組み込み、WeChatのような利便性をもたらすことはできる。そのような視点から、趙CEOは“裏方”を選んだのだろう。
中国ではこれまでもヒットアプリにAgoraの技術が使われていたケースがままあり、Clubhouseの爆発的ヒットで投資家やVC関係者に「またAgoraが背後にいた」と言わしめた。中国メガITは巨大な自国市場でユーザーを獲得し海外に進出するのが定石だった。Agoraはこの定石を覆してアメリカと中国で同時並行的に成長し、「海外での利用実績が、中国の利用実績を大きく上回っている」(趙CEOの2020年末のメールより)」点でも、新しい成功事例を示した。
趙CEOが従業員にあてたメールによると、ナスダック上場時には上海の一等地にある高級ホテルでセレモニーを開くか迷い、最終的に創業の地、上海・五角場で、従業員、開発者、ユーザーや投資家の代表を招いて小規模なパーティーを開いたという。
ひっそりと、しかし猛烈に勢力を広げてきたAgoraは、Clubhouseによって一気に世界が知る企業になった。だが、それが中国ルーツの同社にとって良いことかは今は分からない。
浦上早苗: 経済ジャーナリスト、法政大学MBA実務家講師、英語・中国語翻訳者。早稲田大学政治経済学部卒。西日本新聞社(12年半)を経て、中国・大連に国費博士留学(経営学)および少数民族向けの大学で講師のため6年滞在。最新刊「新型コロナ VS 中国14億人」。未婚の母歴13年、42歳にして子連れ初婚。