コロナ禍を経て私たちの生活は大きく変化しましたが、それはビジネス慣習に関しても同様です。特にビジネスシーンで様変わりしたものといえば「名刺交換」ではないでしょうか。
緊急事態宣言下では取引先と対面で会う機会も限られますから、必然的に名刺交換をする回数も減ります。「最近、名刺が減らないな」と思っているのは私だけではないはずです。
そんななか、「名刺」をビジネスにしているSansan株式会社(以下、「Sansan」)が2021年5月期第2四半期の決算を発表しました。
「名刺」がビジネスの中心なので決算は厳しいものになるかと思いきや、連結売上高は前年同期比1.2倍、連結営業利益に至っては実に前年同期比6.3倍と、驚くべき大躍進です。
なぜSansanは、コロナ禍のなか「名刺」をビジネスの中心にしているにもかかわらず、このように業績を伸ばせているのでしょうか?
そこで今回は、同社のビジネスモデルを会計とファイナンスの視点から考察しながら、その強さの秘訣を探っていくことにしましょう。
実は時価総額トップ10%に位置するSansan
Sansanの創業は2007年。当時はまだ存在しなかった「名刺管理市場」を開拓し、いまや市場シェア83.5%(※1)を誇る気鋭のベンチャー企業です。最近はテレビCMに加えてタクシー広告や電車内の広告も積極的に出稿していますから、社名に馴染みのある方も多いのではないでしょうか。
主な事業は、法人向けのクラウド名刺管理サービスsansan(以下、sansan、sansan事業)と、SNSの機能を備えた個人向けの名刺アプリEight(以下、Eight事業)が2大柱です。
先ほど「気鋭のベンチャー企業」と書きましたが、Sansanの時価総額は2月17日時点で約2961億円にもなります。これは三越伊勢丹ホールディングス、セブン銀行、ディー・エヌ・エー、森永乳業といった企業と同水準で、4000社弱ある上場企業の中ではトップ10%に位置しています。
時価総額の話が出てきたところで、この連載でも過去に何度かご紹介した「PSR」と「PER」という指標でSansanの実力を確認しておきましょう。
PER(Price Earnings Ratio:株価収益率)は、時価総額が利益の何倍かを見る指標。PSR(Price Sales Ratio:株価売上高倍率)は時価総額が売上高の何倍かを見る指標で、主にSaaS(Software as a Service)のような成長著しい企業を分析する際に使われます(図表3参照)。
この数式に当てはめると、SansanのPSRは約21倍、PERはなんと約395倍と、かなり高い値です(ちなみに、本稿執筆時点での日経平均のPERは約22倍(※2)です)。これが意味するところは一目瞭然。Sansanはそれだけ市場から成長を期待されているということです。
使うほどに“ロックイン”されるサブスクモデル
では次に、Sansanの2021年5月期第2四半期の売上高と利益を見ていきましょう。
2021年5月期第2四半期の売上高は76.4億円と、前年同期に比べて約13.4億円増えています(図表4)。営業利益については、前年同期から5.8億円も増えています。
利益が増加した理由としては、堅調に売上が伸びる一方で、顧客獲得に要する広告宣伝費が相対的に下がったことが考えられます。その証拠に、過去3期分の売上高の推移を示した図表5をご覧ください。実にきれいな右肩上がりの軌道を描いていますね。
このように、多額の広告費をかけて顧客を獲得していくビジネスを展開できるのは、sansan事業とEight事業がともに積み上げ型のビジネスモデルであるサブスクリプション型をとっているからです(同じSaaSのサブスクリプション型としては、この連載の第34回、第35回で取り上げたSlack technologiesなどがその代表格です)。
実際、図表5を見ると、売上高の95%近くが継続課金(ストック売上高)となっていることが分かります。
この点をもう少し詳しく見てみましょう。2021年5月期第2四半期の売上高76.4億円のうち、sansan事業は90%近くの69億円を占め、残りの10%弱がEight事業の7.4億円です。つまり、売上の多くはsansan事業による継続課金だということです。
このように継続課金が維持されている理由は、Sansanのビジネスモデルでは、クライアント企業がsansanを使えば使うほど“ロックイン”されるしくみになっているからです。
名刺がクラウドで一元管理されていれば、連絡をとりたい会社や人に容易にアプローチできるようになる。企業が保有する名刺はいわば「可視化されたネットワーク」であり、企業にとってはまさに資産そのものですから、人脈という名の資産が増えれば増えるほど、sansanを使っている企業はsansan以外の名刺管理サービスを使えなくなるというわけです。
また決算説明資料によれば、sansanの直近12カ月の平均解約率はわずか0.65%である一方(図表6)、新規契約数は前年同期比で15.4%増となっています。つまり、新規加入率が解約率を大きく上回っている状況です。
(注)直近12カ月の平均解約率とは、「sansan」の既存契約の月額課金額に占める、解約に伴い減少した月額課金額の割合。
(出所)Sansan 2021年5月期 第2四半期 決算説明資料
この連載の第35回でもお話ししたように、サブスクリプション型のビジネスモデルでは「LTV(Life Time Value:生涯顧客価値)」が重要になってきます。サブスクモデルでは理論上、新規加入率が解約率を上回っていれば、収入はマーケットが飽和するまである程度増え続けていくからです。
そのことを裏付けるように、Sansanの顧客がもたらす収入をそのサービス開始時期別に見ると、収益が積み上がっていく様子がよく分かります(図表7)。
たとえコロナ禍で名刺交換の頻度が減ったとしても、顧客企業がsansanで名刺を管理しているかぎり、Sansanはサブスクモデルを通じてチャリンチャリンと収入を得続けられるわけです。
名刺管理の市場規模はどのくらい?
さて、ここまでお読みいただいたところで、「名刺管理の市場規模ってそんなに大きいの?」という疑問がよぎった方がいるかもしれません。
先ほど私は、「サブスクモデルでは理論上、新規加入率が解約率を上回っていれば、収入はマーケットが飽和するまで増え続ける」と書きました。今はぐんぐん成長中のSansanですが、もし仮に名刺管理市場がたいしたサイズでなければ、同社の成長は早晩頭打ちになってしまいます。つまり、マーケットの大きさがSansanの成長にも大きく影響してくるということです。
では、名刺に関する市場はどのくらいの大きさなのでしょうか?
マーケット規模の分析の際によく使われるのが、TAM、SAM、SOMの3つです。「TAM」とはTotal Addressable Marketの略で、実現可能な最大の市場規模のことを言います。例えば、会社四季報業界地図(2021年版)によれば国内自動車業界全体の規模は約45兆円になります(※3)。これがTAMです。
「SAM」とは、Serviceable Available Marketの略で、上述したTAMのうち、特定の顧客セグメントのニーズを表現したものです。例えば、自動車業界における「自動車市場」「自動車部品市場」「カー用品市場」などがSAMに当たります。
最後の「SOM」とはServiceable Obtainable Marketの略で、SAMにおいて自社が実際に獲得できるシェアのことを言います。例えば、国内自動車市場におけるトヨタ自動車のシェアがSOMになります(※4)。
Airbnbは「TAM・SAM・SOM」で投資家を納得させた
このTAM、SAM、SOMに関して有名なのが、Aibnbが2008年の創業当初に資金調達を行った際のプレゼン資料です。
初期のAibnbは、自社の市場を図表8のように定義づけました。
世界中の旅行の予約規模は19億件以上(TAM)。うちオンラインでの予約が5.3億件(SAM)。このオンライン予約のうち、約2%のシェア(SOM)を取れれば1000万件にもなるというものです。
仮に1泊70ドルとして、平均で3泊すれば210ドル。そのうちの10%を手数料として取れれば、Airbnbは約20ドルを得られます。つまり、世界中のオンライン予約市場の2%を獲得できれば、2億ドル(1000万件×20ドル)もの収益になるという計算です(※5)。
市場規模を見れば納得、Sansanが株式市場で高評価の理由
話をSansanに戻しましょう。同社は名刺管理の市場規模をどのように捉えているのでしょうか?
Sansanは2021年5月期第2四半期の決算説明資料の中で、取引先の従業員社数からTAMを想定し、sansanがどのくらい利用されているかを計算しています。
まず決算説明資料によれば、Sansanは名刺管理マーケットにおいて、売上規模では83.5%ものシェアを有しています。つまりSAMとSOMが極めて近い状況です。
一方で、SOMは従業員の利用者割合で見れば1%弱〜2%強ほどですから(図表9)、拡大余地はまだまだ十分にあります。
sansan事業の契約数は、2021年5月期第2四半期においては7230件、契約1件当たりの月次売上高は16.5万円となっています(図表10)。契約数も月次売上高も右肩上がりです。
この理由はおそらく、顧客企業の多くは会社全体でsansanを導入するのではなく、部署や事業部の単位で導入するからでしょう。つまり、まずある部署がsansanを導入し、実際に使ってみた部署の評判によって他部署にも広がって横展開していく、ということです。
先ほどの図表9で、従業員数1000人以上の利用企業カバー率は14.4%あるにもかかわらず、利用従業者カバー率が2.4%と低水準にとどまっている点からもそう推測できます。見方を変えれば、今後もまだまだ新規顧客の開拓余地があるということです。
この点をもう少し掘り下げて考えてみましょう。
現在の契約数は7230件、月額の売上は契約1件当たり16.5万円ですから、sansan事業の1カ月の売上は約12億円弱です。これを1年間積み上げると、年間の売上は単純計算で144億円弱になります。
現時点で、従業員1000人以上の企業のSansan利用従業者カバー率はまだ2.4%ですが(図表9)、仮にSansanが契約件数を5倍の12%まで増やせたとしましょう。契約件数と利用従業員カバー率を現在と同水準とすると、売上は720億円(144億円の5倍)まで拡大する計算になります。
この強力なビジネスモデルこそが、株式市場がSansanに対して「時価総額2961億円」「PSR21倍」「PER395倍」という評価を下している根拠なのです。
サブスクを基盤に攻めるSansan
このように、Sansanはサブスクモデルを背景に、名刺交換の機会が激減したコロナ禍においても着実に収益を積み上げています。ですがこれだけではありません。Sansanはサブスクという安定収入を足場にして、さまざまな新規事業を進めています。
Sansanはまず、コロナの影響が本格化しだした2020年3月に「オンライン名刺交換機能」を発表。リリースから4カ月でオンライン名刺の利用者は3000社を突破しました(※6)。
また、名刺のデータ化やクラウド化で培ったノウハウを活かし、紙やPDF等の請求書を99.9%の精度でデータ化、オンラインで受領できるサービス「Bill One」を2020年5月にリリースしました。さらに2020年8月には、イベント内容の書き起こしメディア「ログミー」を買収して子会社化しています。
「Sansanがなぜログミーを?」と思われた方がいるかもしれませんが、実はこの買収には、Sansanの戦略的な意図が込められています。
図表11をご覧ください。これはSansanが、ログミーの買収を通じて実現を図っている「イベントテック」サービスのポートフォリオの全体像です。
B2C向けサービスである「Eight」を通じて、イベント広告による集客を行い、新サービス「Smart Entry」で名刺を使って手軽にイベントの予約をする。「Eight ONAIR」でイベントの情報発信を行い、イベントの前後ではオンライン名刺交換でイベント参加者をアクティブ化させる。
イベント終了後はログミーがイベント内容を書き起こし、イベントに参加していない人に情報発信を行う。さらにsansanを通じて、イベント参加者の名刺を管理したり、名刺情報を活用する——。
このように、Sansanは「名刺」を切り口に広告、イベント、メディアなど新たなサービス展開を思い描いているのです。こうした攻めの経営ができるのはひとえに、sansan事業のサブスクを通じた安定的な積み上げ型の収入があるからこそです。
ClubhouseはSansanにとっての“黒船”か
sansan事業の安定的な収益を基盤に、名刺市場の可能性を拡大し、イベントテックにも乗り出して「Sansan経済圏」を押し広げようとしている同社ですが、ここへきて思わぬ“黒船”が来襲してきました。「Clubhouse」です。
Clubhouseは、アプリ上で気軽に会話や雑談ができる音声SNSです。これを体験したClubhouseユーザーの間からは「イベントはもう、Clubhouseでカジュアルにやればいいのでは」という声も聞かれるほどです。
このように人気を博しているClubhouseが、今後Sansanのイベントテックの競合になることは間違いないでしょう。ただし、棲み分けの道がないわけではありません。
Clubhouseのサービスの特徴は、会話が記録に残らない、気軽に始められる、音声を通じたセレンディピティを得られる、「ながら」で楽しめる、といったことが挙げられます。つまり、Clubhouseは「記録に残せないからこそカジュアルに話せていい」という点にユーザーの多くがメリットを感じているわけです。
しかし一方で、「記録に残せないのでは困る」というケースも当然多数あるでしょう。
この点、他のイベント関係のサービスとは違い、ログミーという「記録に残す」サービスを抱えているSansanは、イベント関連市場で独自のポジションを築いていると言えます。
ということは、「記録に残したい」「イベントを通じて参加者同士の強いつながりを醸成したい」といったイベントには、今後Sansanのイベントテックを積極的に活用しようという動きが出てくる可能性があるのです。
このような棲み分けがマーケットで認知されれば、Clubhouseの存在はむしろSansanのイベントテックにとっては追い風になるかもしれません。
Sansanによる「両利きの経営」
以上、今回はコロナ禍を追い風に変えて業績を伸ばすSansanのビジネスモデルを考察してきました。
名刺管理のサブスクという強固な収益基盤を足がかりに、請求書のオンラインサービスやイベントテックといった新たな領域でビジネスを拡大させようとしている同社を見ていると、「両利きの経営」という言葉が脳裏に浮かびます。
両利きの経営は、「知の探索」と「知の深化」の両輪からなります。「知の探索」とはその名の通り、新しい知を追求すること(※7)。一方、「知の深化」とは組織がすでに有しているビジネスの基盤を活用することを言います。
「両利きの経営」の典型的な例としてすぐに思いつくのは、グーグルです。今でこそ多くのサービスを提供しているグーグルですが、ほんの15年ほど前は、安定的な収益源といえば広告事業くらいのものでした。
しかし見方を変えれば、グーグルにはその安定的な収益源があったからこそ、GmailやGoogle Mapといった新サービスを無償提供することで種まきをし、YouTubeやAndroidを買収することで周辺領域に進出していくことができたのです。
「イノベーションは新結合から生まれる」と喝破したのはジョーゼフ・シュンペーターですが、まさにこの新結合に求められるのが「知の探索」と「知の深化」なのです。
sansan事業を通じて着実に顧客と収益を増やしながら(知の深化)、イベントテックのように新たなビジネス機会を模索する(知の探索)。そうやって今や3000億円近くの時価総額を有するまでに成長したSansanは、この変化の時代にどこまで成長するのでしょうか。今後の展開に注目です。
※1 Sansan株式会社 2021年5月期 第2四半期 決算説明資料、p.36。
※2 PSRは2021年2月16日終値時点におけるみんなの株式のサイトの、PERは、2021年2月16日終値時点における会社四季報ONLINEのサイトの数字を採用したもの。
※3 2019年度国内メーカー7社の国内売上高17兆円、国内自動車部品市場25.6兆円(自動車部品専門企業74社の売上高合計額)およびカー用品市場1.9兆円の合計額。
※4 トヨタによる自動車国内市場のSOMは約3割です。
※5 シバタナオキ「ついに上場するAirbnbが赤字でも倒産しない理由とは?」によれば、2019年時点でのAibnbの総予約数(Annual Nights and Experiences Booked(MM))は約3.2億件と、当初の想定よりはるかに多くの市場シェアを獲得しています。
※6 「Sansanのオンライン名刺 利用開始企業が3000社を突破 〜国内外企業の、新しい働き方を支える〜」
※7 知の探索には「サーチ」「変化」「リスク・テイキング」「遊び」「柔軟性」といった意味合いが内包されています。
(執筆協力・伊藤達也、連載ロゴデザイン・星野美緒、編集・常盤亜由子)
村上 茂久:株式会社ファインディールズ 代表取締役、GOB Incubation Partners株式会社CFO。経済学研究科の大学院(修士課程)を修了後、金融機関でストラクチャードファイナンス業務を中心に、証券化、不動産投資、不良債権投資、プロジェクトファイナンス、ファンド投資業務等に従事する。2018年9月よりGOB Incubation Partners株式会社のCFOとして新規事業の開発及び起業の支援等を実施。加えて、複数のスタートアップ企業等の財務や法務等の支援も手掛ける。2021年1月に財務コンサルティング等を行う株式会社ファインディールズ を創業。