今週も、早稲田大学ビジネススクールの入山章栄先生が経営理論を思考の軸にしてイシューを語ります。参考にするのは先生の著書『世界標準の経営理論』。ただし、本連載はこの本がなくても、平易に読み通せます。
「2050年までに温室効果ガス排出を実質ゼロにする」と菅首相が明言したことを契機に、日本でも気候変動対策に対する関心が日増しに高まっています。一方で、産業界からはこの高い目標に対して不安の声も……。世界に向けて宣言した目標を日本が達成する方策はあるのでしょうか? 入山先生が経営理論を使って考察を試みます。
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ゼロエミッションを「達成できない理由」はいくらでもある
こんにちは、入山章栄です。
今回はBusiness Insider Japan編集部の常盤亜由子さんが投げかけてくれた重要なお題について、経営理論を思考の軸にして考えてみたいと思います。
BIJ編集部・常盤
菅首相が2020年10月の所信表明演説で、「2050年までに温室効果ガス排出をゼロ(ゼロエミッション)とする」と明言しました。しかし産業界からは「こんなに高い目標は達成できないのでは」という懸念の声も上がっています。
とはいえ再エネ先進国であるヨーロッパに比べると日本は周回遅れですから、企業も努力せざるを得ない。これは産業界にとって大きな問題になると思いますが、入山先生はどのようにご覧になりますか?
まず念のために確認ですが、「温室効果ガス排出ゼロ」というのは、温室効果ガスをまったく排出しないということではなく、排出と吸収をトータルで見たときにプラスマイナスゼロにするという意味ですね。しかしこれはとんでもなく高い目標です。トヨタ自動車の豊田章男社長も、「2030年までにすべての新車を脱ガソリン車に」という目標設定には懸念を示していますよね。
正直に言うと、僕はこの目標は、現時点で客観的に考えるにほぼ達成不可能だと理解しています。できない理由を挙げていくと、いくらでも見つかる。
まずそもそも、日本がどんなに頑張って温室効果ガスの排出を抑えても、排出量の多い中国や、今後も排出量が増えるであろう新興国が努力をしなければ、世界的には排出量はゼロにはなりません。
加えて、いま世界中でガソリン車から電気自動車(EV)に切り替える動きが出てきています。特にヨーロッパやアメリカのカリフォルニアなどはEV化に熱心です。しかし、技術的な問題として、EVの超急速充電を可能にする全固体電池がまだできていない。ですから、中国などは建前上EVにすると言っているけれど、現実にはハイブリッドと両にらみだとはよく聞く話です。
さらに言うと、これはあくまでも僕の理解ですが、世界中の自動車が電気自動車になったとしても、温室効果ガスはあまり減らないかもしれない、とも言われています。
「ライフサイクルアセスメント(LCA)」といって、自動車の製造過程を原料調達の時点からさかのぼって調べていくと、そもそも自動車を製造する段階で大量の温室効果ガスが出ている。つくるのが電気自動車でも、それは変わらないのです。
そればかりか電気自動車がエネルギーとする電気をつくるためには、いまのところ発電所が必要です。日本の発電所では主に化石燃料を使って発電していますから、ここでまた温室効果ガスが出る。そう考えると、末端の自動車だけ電気にして「自動車から排出ガスが出ないからクリーンだ」と言っても、あまり意味がないとも言えるのです。
誤解してほしくないのですが、僕は気候変動問題には強い関心があるし、ぜひ解消して欲しいと思っています。菅首相の掲げた目標も達成すべきだと思っています。しかし2050年までのあと29年で、この目標を達成できるかどうかを客観的に考えると、いまのままではおそらく不可能というのが僕の理解です。
思った通りの未来になる「セルフフルフィリング」
しかし、話はそんなにシンプルではありません。キーワードは、この「客観的に考えると」という部分です。確かに現時点で客観的に見れば、菅首相の掲げた目標は「達成できない」と言わざるを得ません。けれど、じゃあ本当に目標達成は無理なのかと言うと、実はそうとも言い切れないのです。
それはどういうことかと言うと、現時点は客観的に見れば達成できない目標でも、主観的に「達成できる!」と世界中の多くの人たちが本気で思い込んだらどうなるか、を想像してほしいのです。
経営学には、「大勢の人が『こうなる」と信じると、本当にその通りになることがある』という理論があります。それがまさに、この連載でも何度も出てくる、腹落ち・納得の理論である「センスメイキング理論」です。
何度も出てくるわりには今までちゃんと解説したことがありませんでしたが、大勢の人が共通の方向性に「腹落ち」ができると何が起きるかというと、1人では不可能なことが可能になり得るのです。
事前に客観的には無理だと思えても、大勢が「未来はこうなる」「できる」と思い込んでしまうと、客観的には無理だと思われていたことが、実際には起きてしまう。これをセンスメイキング理論の中でも「セルフフルフィリング(自己成就)」と言います。
みんなが「トイレットペーパーがなくなる」と思うと本当になくなる
セルフフルフィリングの一番分かりやすい例が、1970年代に起きたオイルショックです。若い方はご存じないと思いますが、このとき日本中の店頭からトイレットペーパーが一斉に消えました。「石油の値段が上がるとトイレットペーパーがなくなる」というデマが流れ、それを信じてしまった日本人の多くがお店に殺到して買い占めが起こったからです。
そもそも石油の価格が上がるとなぜトイレットペーパーがなくなるのか、客観的には因果関係も不明です。でも当時は詳しいことを調べようと思ってもインターネットもなかった。そういう中で多くの日本人が、「石油の価格が上がったらトイレットペーパーがなくなる」という、よく分からない噂に腹落ちしてしまったわけです。
結果、多くの人が「今のうちに買っておかなくちゃ」と思い込み、人々がお店に殺到して、気づいたら本当にトイレットペーパーがなくなるという現象が起きたのです。
コロナの感染拡大が本格化し始めた2020年3月頃にも、「トイレットペーパーが不足する」という流言がきっかけで人々が買い溜めに走った結果、多くの小売店の店頭からトイレットペーパーの在庫が消えた。
Carl Court/Getty Images
加えて言えば、戦前には「あの銀行がつぶれる」という噂が立つと、預金者が一斉に預金を引き出してしまい、本当に銀行がつぶれるということが実際にありました。いわゆる「取り付け騒ぎ」です。客観的に見れば経営にはまったく問題がない銀行だったのに、「この銀行は危ないぞ」とみんなが思い込んだせいで、本当に倒産してしまったのです。これもセルフフルフィリングです。
今回の気候変動の話も、ややそれと似たところがあります。
2050年に温室効果ガスを実質的にゼロにするというのは、いまの時点では達成はできそうもない。でも誰かが「こうしたら気候変動を達成できる」という、客観的には難しくても、とても「腹落ち」できるストーリーを提示してくれたらどうでしょうか。それを世界中の多くの人が信じれば、その目標に向かっていろいろな人が集まり、気候変動に対する知見・能力も集まってくるでしょう。結果的に気候問題を解決する画期的なイノベーションも生まれてくるかもしれません。
BIJ編集部・常盤
なるほど。「大勢の人が、心からそう思う」というのがポイントですね。そういう意味ではレジ袋の有料化なんていうのは、実際の効果はさほど大きくないと言う方もいますが、こうした小さな取り組みの積み重ねで、人々に大きな心理的影響を与えるかもしれませんね。
そこはぜひ期待したいですね。
僕は実際に海面が上昇しているオランダなどに比べると、日本人の大多数はまだ気候変動を実感していないと思います。しかし一人ひとりが「このままではまずい」という危機感を持ち、「2050年までにゼロエミッションを実現できなければ、この地球が危ない」と主観的に強く思うことができれば、菅さんが所信表明演説で掲げた目標も達成できる可能性がある。
つまり「客観」ではなく「主観」が大事だということです。そのための、腹落ちできるストーリーづくりに期待したいところですよね。
【音声フルバージョンの試聴はこちら】(再生時間:19分26秒)※クリックすると音声が流れます
(構成:長山清子、撮影:今村拓馬、連載ロゴデザイン:星野美緒、編集・音声編集:常盤亜由子)
入山章栄:早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)教授。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科修士課程修了。三菱総合研究所に勤務した後、2008年に米ピッツバーグ大学経営大学院よりPh.D.を取得。同年より米ニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールアシスタントプロフェッサー。2013年より早稲田大学大学院経営管理研究科(ビジネススクール)准教授。2019年から現職。著書に『世界の経営学者はいま何を考えているのか』『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』『世界標準の経営理論』など。