フィッシャーマン・ジャパン(FJ)代表理事の阿部勝太(35)らが日本の水産業を未来に向けて再構築する、という活動を始めて7年。山積する課題の中からまず手をつけたのが、新たに漁業を担う人の育成だった。
阿部を訪ねて、宮城県石巻市の十三浜に向かう途中に1軒の古い民家があった。玄関先には「トリトンベース」の看板。漁師になりたいと全国からやってきた若者たちのための住まい、FJが用意したシェアハウスだ。築100年の空き家の内部をリノベーションして再生させた。
FJが新たな担い手たちの住居として設けたシェアハウスの一つ、築100年の空き家をリノベーションした。浜までは徒歩数分だ。
担い手を増やすという目標を掲げて、最初に直面したのが住まいの問題だった。人を受け入れても住むところがない。漁師は朝が早い。浜から離れた内陸部に住むと、通勤に時間がかかり、その分早く起きなくてはならず、定着もしにくくなる。海のそばに住むことで、浜のコミュニティにも入りやすくなる。だが、そもそもその「家」の多くが津波で流されていた。
「僕ら自身、家がない状態だったんです」(阿部)
シェアハウスの内部の様子。
提供:フィッシャーマン・ジャパン
そのうちかろうじて残った住宅に住んでいた老夫婦などが、子ども夫婦のところに移ったり、復興住宅に入ったりして、空き家がポツポツ出るようになっていた。そうした空き家を新規就労者のためのシェアハウスに改築したものが今では7棟になる。
「親方」一人ひとりを説得した担い手チーム
親方と弟子の師弟コンビ。
提供:フィッシャーマン・ジャパン
一口で漁師になる、と言っても簡単ではない。
「どの仕事にも下積みはありますが、僕自身サラリーマンをやった経験からも、漁師になるにはサラリーマンが一人前になるよりずっと時間がかかる。最低でも5年、自分で経営までできるようになるには10年はかかる」(阿部)
それでも、FJの活動を通じてこれまでに全国から集まった40人ほどが新たに漁業に就労した。この“成果”は、「担い手チーム」と呼ばれるメンバーたちの地道な活動なしでは達成し得なかったと、阿部は言う。
漁師らは皆、浜から人が減っていく現状に不安を抱えてはいたものの、若い世代の提案にすぐ乗った訳ではなかった。当初FJの活動は、地元の漁師たちからは「お遊びだろう」(阿部)と、色眼鏡で見られていた。そこを突破したのが、「担い手チーム」の島本幸奈(29)らだった。懐疑的な漁師たちを一人ひとりを訪ね、「親方」になってくれるよう何度も通って説得した。
FJは今「トリトンジョブ」という水産業に特化した求人サイトを運営している。漁師の仕事を紹介するインタビュー記事を載せ、応募者がいれば面接をし、弟子入りする親方とのマッチングまで手がける。
紹介した後も、親方・弟子双方の相談に乗る。年に1度開く師弟コンビを集めた師弟サミットでは、親方からは「怒ってもいいのかな」「一人前にするために自分たちには何ができるのか」と相談され、弟子たちからは「言葉が分からない」など生活に関する細々した悩みを打ち明けられる。
年に1度開く「師弟サミット」ではいろいろな浜にいる師弟コンビが集結。お互いの悩みなどを共有し合う。
提供:フィッシャーマン・ジャパン
「親方との相性が合わない子には別の親方のところに移籍できるようにしたり、漁師の仕事がつらかったら鮮魚屋を紹介したり。体力面の不安などから辞めなくてすむように、なんとか続けられるようにサポートするのが私たちの仕事。水産業への入り口作りの必要性は、みんな感じていることなので」(島本)
船1艘は数千万から時には1億円もする。地元の信頼がなければ漁業権すら得られない。就漁は就農に比べてハードルが何倍も高い。だからこれまで家業を継ぐという形でしか就けなかった中で、FJのこの弟子入り制度は画期的だ。
提供:フィッシャーマン・ジャパン
親方たちには、労働環境の改善も助言する。多くの漁師は個人事業主で家族経営。繁忙期にアルバイトのような形でしか人を雇った経験がない親方に、通年で給料を払い、規模が大きければ社会保険なども整えるようアドバイスもする。近海漁業で通年雇用を採用したのは、FJが「おそらく初めて」だという。今では阿部のように「シフト勤務制度」を導入する漁師も現れ、休みがなくて当たり前、労働時間が長くて当たり前だった漁師という「職場」が変わりつつある。
震災が課題を5年、10年早めて見せた
石巻市水産業担い手センター事業の懇親会。行政も巻き込めたことで、スピード感がありながら持続的な活動ができるようになった。
提供:フィッシャーマン・ジャパン
事務局長の長谷川琢也(43)は漁業だけでなく、震災からの復興、空き家再生、移住促進という地方自治体が抱える課題を一緒に解決する仕組みを考えた。
FJの活動は、1年目からしばしばメディアに取り上げられた。記事を見た石巻市からは「一緒にやりたい」と声がかかった。行政側も震災後、住民の流出、漁業の衰退をどう止めるかという危機感を共有していた。移住促進、漁業の担い手育成事業は行政からの委託事業として、さらに同じ課題感を持っていた宮城県漁協も巻き込み、3者でやっていく仕組みができた。
「僕らは石巻市と組めなくても、自主的に活動していたとは思うんです。でも加速的にこれだけ活動が大きくなったのは、行政と組めたことが大きい。事務局に1人増やすだけでも年間何百万とかかるので」(阿部)
「漁師カレッジ」という担い手を増やす独自事業を進めていた宮城県も途中から加わり、県と組めたことで、石巻以外にも事業を広げることができた。今や東北だけでなく、北海道や九州など、活動を共にする漁業団体も増えてきた。
「この活動を始めた直接のきっかけは震災でした。もともと全国の地方や一次産業にあった課題を震災が5年、10年早めて見せたことで、行政側も『今動かなければ』と改革が進んだ。僕らのチームに多くの人を巻き込めたのは、みんなが同じ課題を感じていたからだと思います」(長谷川)
(敬称略・明日に続く)
(文・浜田敬子、写真・伊藤圭)