10年前の3月11日14時46分。フィッシャーマン・ジャパン(FJ)の阿部勝太(35)は祖母と一緒に浜で仕事をしていた。突然襲った経験したこともないような揺れ。慌てて祖母と近くに住んでいた叔母を車に乗せて、高台に避難した。
揺れの大きさにショックを受け過呼吸のような症状が出た叔母の面倒を見ているうちに津波が襲ってきた。揺れさえ収まれば、家に戻れる。そう思っていたが、津波は容赦なかった。高台から、家も船もワカメを加工する工場もすべてが流されていくのをただ呆然と見守るしかなかった。
揺れの直後、気仙沼市内にいた家族と急いで連絡をとったが、かろうじて通じた電話は途中で切れた。安否を確認しようにも、携帯も全くつながらない。阿部は80キロ余りを歩いて気仙沼を目指した。幸い、家族はみんな無事だった。
会社員経験あったから気づけた漁師の厳しさ
阿部が拠点とするのは石巻市北上町の十三浜。船6艘や加工工場も所有し、18人が働く「企業」だ。
阿部は石巻市の十三浜で、ワカメ漁師の3代目として生まれた。家業を継ぐつもりではいたが、一度外の世界も見てみたい、漁師以外の仕事もしてみたいと、高校卒業後、仙台で旅館の営業職に就いた。その後はアイシンという自動車関連の工場やNTTドコモでも働いた。5年経ったら戻るという約束まであと少しというところで祖父が倒れ、帰郷した。
「小さい頃から見ていて大変そうだけどカッコいいと思っていたし、稼いでいるイメージもあった」漁師の仕事は、実際やってみて、初めてその厳しい現実を知る。
トヨタ系、NTTグループ企業での会社員時代は、週末の休みに加えて有給もしっかり取れたし、給料に加えて残業代も付いた。阿部の家は十三浜では一番稼いでいる漁師だ。それでもサラリーマンに比べると休日もなく、収入も少ない。実家に住んでいるから家賃はかからないものの、子どももいる阿部家族に渡される額は月15万円ほど。
朝3時から8時ごろまで海に出て収獲して、その後塩蔵ワカメを作るために、お湯に通して塩を絡める作業を続け、夜は漁協でワカメや昆布の箱詰め作業をする。
「客観的に見ると割に合わないなと思っちゃうんです。繁忙期になると60日連勤なんて当たり前で、休みは年間40日ぐらい。これだけ働いていたら、それに見合う稼ぎがないとモチベーションは上がらない。自営業だから当たり前、一次産業だから、漁師なんだから仕方ないとみんなが思っていたことが、外で働いた経験があったからこそおかしいと気づけたんです」
そこに起きたのが震災だった。
阿部家では現在6艘の船を所有するが、震災ではその船もリフォームしたばかりの家も工場も失った。被害総額は8億円にものぼった。復興のための補助金は下りたが、満額という訳にはいかず、1億5000万円ほどは借金を背負わざるを得なかった。
もともと労働環境も厳しく、収入的にも見合わないと感じていたところに、借金まで背負い、マイナスからのスタート。漁師たちには過酷な負担がのしかかった。中には復興関連の土木事業に従事するため、クレーンの免許を取った仲間もいた。高齢の漁師には、再出発を諦める人も出てきた。
阿部はどうしても諦めきれなかった。明日がどうなるか分からないという体験をしたからこそ、自分が今できることをやっておきたい。むしろ震災を機に、震災前から感じていた漁業の課題解決を目指せないか。漁業だけでなく、農業や加工業など全国の一次産業の成功モデルの現場を訪ね歩いた。
水産業の未来を変えたい。各地から才能集結
事務局長の長谷川は神奈川出身、ヤフーには2003年から在籍。現在は東京に家族を残し、石巻で暮らす。
提供:フィッシャーマン・ジャパン
FJで事務局長を務める長谷川琢也(43)は震災当時、ヤフーでマーケティングプロモーションの仕事に就いていた。3月11日は長谷川の誕生日でもある。自身の誕生日に大震災が起きたことに意味を感じ、ボランティアとして東北に向かった。
泥かきなどのボランティアをするうちに、現地の生産者と東北の1次産品を売るサイトを立ち上げたが、個人の力には限界も感じていた。会社に掛け合い、長期的に被災地を支援する仕組みをつくれないか。これがヤフーの復興支援室につながっていく。
「自分自身がもともと体が弱かったこともあって、日本の地方や生産者が持っている生命力に憧れのような気持ちがあったんです。石巻に実際に来てよりそれを実感して、日本の豊かさは地方にあると確信しました。そして、その人たちをサポートしたいと強く思うようになったんです」
阿部と長谷川の出会いはやがてFJにつながる。これまで「一匹狼」として活動していた漁師たちを説得して仲間を増やしていく。復興だけでなく、将来につながる水産業の形を作るためにという目標に多くの人が巻き込まれていった。
島本は千葉でブライダルの仕事をしていた。震災ボランティアで石巻に来て、気がつけば「2週間の予定が10年」になっていたという。
提供:フィッシャーマン・ジャパン
「担い手チーム」の島本幸奈(29)もその1人だ。
高校卒業後、出身地の千葉でブライダルの仕事に就いていた。震災の影響で本業が休業になったこともあり、自分の目で被災地を見たいとボランティアに入った。石巻の特産品を売る復興デパートメントなどに関わるうちに、阿部たち漁師と知り合い、気がつけば「2週間のつもりが、10年」になった。
「水産業を変えていきたい、というカッコいい大人の中で生きていきたいと思うようになったんです」(島本)
震災を機に阿部の考えは大きく変わった。自分の生まれた土地が決して嫌いな訳ではなかったけれど、田舎にいては何もできないように感じていた。だから高校卒業後、一度は離れた。だが、今はこう思っている。
「どこに住もうがどんな環境だろうが、結局は自分の考え方一つなんだと感じるようになりました。田舎は住んでて心地いい。今はすごく心地いいところに住みながら、刺激のある仕事をしていると感じてます。一番おいしいと。
そういうことを僕らが子どもたちに伝えられれば、東北にいながら起業する子やチャレンジする子はもっと増えるのかもしれないなと思っているんです」
(敬称略、明日に続く)
(文・浜田敬子、写真・伊藤圭)