宮城県・南三陸町の写真館「佐良スタジオ」店主の佐藤信一さん(55)は10年前、町に津波が押し寄せた瞬間をカメラで捉えていた。その後も震災直後の被害状況、避難所、復興していく町の様子を10年にわたって撮り続けてきた。
撮影:丸井汐里
10年前、東日本大震災による地震と津波で600人以上の命が奪われた宮城県北部の町・南三陸町。そこには、震災後に再建された一軒の写真館がある。写真館「佐良スタジオ」だ。
震災から6年を経た2017年3月、かつての町の中心部に大型商業施設「南三陸さんさん商店街」がオープン。飲食店や土産物店など28店が軒を連ねる中に、佐良スタジオはある。
店主の佐藤信一さん(55)は、町に津波が押し寄せた瞬間をカメラで捉えていた。震災直後の被害状況、避難所、復興していく町の様子を撮り続けてきた。その数は数万枚にものぼる。レンズを通して南三陸町を見てきた佐藤さんに、この10年の歩みを聞いた。
宮城県・南三陸町:養殖漁業が盛んで、銀ザケや牡蠣、ワカメなどで県内有数の水揚げ量を誇るが、2011年3月11日の東日本大震災で高さ10メートルを超える津波が広範囲に押し寄せ、甚大な被害を受けた。海沿いの市街地や農地では、そのほとんどが浸水。600人が死亡、211人が行方不明に。町の60%以上の家屋(3321棟)が全半壊した。
※本記事では東日本大震災に関する記述・写真が含まれます。ご覧になった際に精神的なストレスを感じる可能性があります。閲覧にご注意ください。
「試し撮り」が町の最後の姿に……。
震災前の佐良スタジオ(写真左)。 南三陸町の夏の風物詩「トコヤッサイコンテスト」の日に撮影。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
創業から50年を数える佐良スタジオは、いわゆる「町の写真館」だ。南三陸町の中心部の志津川地区に店を構え、ポートレートの撮影、学校行事や結婚式、地域の祭りなどの撮影を担っていた。
2007年9月、志津川中学校から撮影した南三陸町の景色。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
2011年3月11日午後2時46分、佐藤さんは店舗兼自宅の建物で猛烈な揺れに襲われた。
「いきなりドーンと揺れがきて、かなり長く続きました。最初は何が起こったのかわからなかったです」
あまりの揺れの大きさから1階には津波が来ると悟った。揺れがおさまると、すぐに佐藤さんの両親と弟、当時小学4年生の次男を高台に避難させ、顧客に渡す写真などの商品は2階に上げた。
自身もカメラバックを担ぐと、一目散に店から出た。
午後3時15分、高台にある志津川小学校の校庭に避難した。校庭には、着の身着のまま避難してきた近所の人たちが集まっていた。
志津川小に到着すると、佐藤さんはすぐに町全体が見渡せる場所を探した。そこにカメラを構えて、1枚のシャッターをきった。
「震災の2日前にも大きな地震があって、同じように避難していました。私がカメラを持っているのもいつもの光景。でも、あの試し撮りの1枚が、まさか町の最後の姿になるとは、あの時は思わなかったです」
高台から眺めた町内の景色。建物の屋上に避難している多くの人の姿が見えた。海の方に目を向けると、船が海底に着き、傾いているのが見えた。津波の前兆だった。
水門を乗り越え、瓦礫と黒い濁流が……町は、わずか10分で水没した。
2011年3月11日。津波が水門を破った瞬間。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
午後3時25分、南三陸町に津波の第一波が到達した。水門を乗り越え、瓦礫と共に黒い濁流が押し寄せてくる。家や漁船も、あっという間に流されていった。
「いくら写真屋でも、この状況で写真を撮っていたら、周りの人から罵倒されるのではとも思いました。でも、きっと他の町にも津波が押し寄せている。写真を撮れる人が自分しかいないとしたら、今撮らなければ後世に何も残らないのではないか。そう思ったんです」
使命感から覚悟を決めた。心を殺し、写真を撮り続けた。その間にも、津波はものすごいスピードで町を飲み込んでいった。佐藤さんの自宅も流された。
津波は濁流となり、町を飲み込んだ。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
津波の到達からわずか10分。町は、あっという間に水没してしまった。ファインダーから見た景色を、佐藤さんはこう振り返る。
「肉眼ではもう見られなかったですよね。見たら、この光景を認めざるを得なくなる。レンズを通すことで、現実逃避をしていたのだと思います」
猛烈な津波は、公立志津川病院の建物を突き抜けた。手前にアンテナのようなものが見える場所が南三陸町防災対策庁舎(防災庁舎)。屋上の大半が津波に飲まれていた。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
町の南部にある4階建ての公立志津川病院の旧館を眺めると、屋上の直下まで津波が迫っていた。近くにあった南三陸町防災対策庁舎(防災庁舎)は、屋上の大半が津波に飲まれていた。
写真右上が津波に飲まれる前の防災庁舎。屋上に多くの人が避難していた。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
この時の防災庁舎を撮影した写真がある。津波到達前に見えていた人影は、写真の中では明らかに減っていた。身を寄せ合い、何とか流されないようにと耐える人、アンテナによじ登る人の姿を捉えていた。
津波は防災庁舎の屋上を襲った。佐藤さんは、身を寄せ合い、何とか流されないようにと耐える人、アンテナによじ登る人の姿を捉えていた。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
「防災庁舎に津波が迫っていく間、シャッターを連写していました。あそこにいた人たちは、きっとほとんどが知っている人。誰がいたのかを知りたかったのだと思います。でも飲み込まれる瞬間は、怖くて1枚しかシャッターを切れませんでした」
あの日は雪も降っていた。海水でずぶ濡れになりながら旧防災庁舎の屋上にとり残された人たちを寒さが襲った。
たまたま1人がライターを持っていた。ネクタイに火をつけ、流されてきた瓦礫も燃やした。なんとか暖をとりながら一晩を過ごせたことで、彼らは九死に一生を得た。しかし、庁舎にいた町の職員ら43人が犠牲になった。
震災直後の南三陸町
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
旧防災庁舎や志津川病院旧館の南には、4階建ての結婚式場「高野会館」があった。あの日は地域の高齢者が参加する芸能発表大会が開かれていた。佐藤さんの妻も、そこに手伝いに行っていた。
高野会館にも4階まで水が迫ったが、建物に留まった高齢者とスタッフ327人は全員屋上に避難し無事だった。佐藤さんの妻も助かった。
水が引いたあと、佐藤さんは当時中学3年生の長男の安否を確認するため、志津川中学校に向かった。
2011年3月11日午後6時5分、志津川中学校から撮影。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
その道中でも写真を撮った。かつての町の姿からは、想像もできない惨状が広がっていた。長男の無事を確認した後、佐藤さんは再び小学校に戻った。長い避難生活がはじまった。
2011年3月19日、避難所となった志津川小学校の体育館。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
復興の狼煙は、仮設商店街から……。
震災から1カ月半後の2011年4月29日〜30日。町民みんなで前を向いていこうと、地元の中学校で福興市が開かれた。災害時の相互支援ネットワークを結んでいた全国の商店街の人たちが、各地の名産品を持って駆け付けた。
その後も毎月、福興市は開かれた。遠く鹿児島から南三陸へやってきた商店街もある。利益は全て、福興市の実行委員会に寄付してくれた。人々が交流する姿を佐藤さんはカメラで記録した。
「福興市で、町民の売る喜び・買う喜びが蘇っていったように思います。久々にみんなの笑顔が撮れた。全国の仲間のありがたさも強く感じました」
「全国からもらった応援に恩返しするため、自力で商店街を立ち上げるべきなのではないか」という声も次第にあがった。復興への狼煙を上げようという、町の商人たちの心意気だった。
仮設商店街賑わい。
撮影:佐良スタジオ 佐藤信一
2012年2月25日、かつての町の中心部から約2kmほど内陸の場所に仮設商店街がオープン。その名は「南三陸さんさん商店街」。南三陸の『三』と太陽の『SUN』をかけ、燦々と輝く明るいイメージにとの願いが込められた。
仮設商店街には最大で32店舗が入居。佐良スタジオも仮設商店街に店を構えた。コンテナハウスで作られた店は狭かったが、補助金を活用し、最低限の機材を揃えることができた。これで震災前とほぼ同じ仕事ができるようになった。
「腰を据えて商売ができる安心感とともに、商店街の一員としての責任感も芽生えました。これから商店街をどのように盛り上げていくか。そのためには、自分もしっかりしなければと思いました」
地元住民にとっては、この商店街は『再会の場』になった。避難生活を送る中、バラバラになってしまった近所の人たちが偶然出会い、互いの無事を確認し合う——。そんな様子を佐藤さんは撮り続けた。
観光客も訪れ、予想をはるかに超える数の客で賑わった。仮設商店街は『復興の象徴』とまで言われるようになった。
10年の時が流れ、考える「伝える義務」
南三陸さんさん商店街。南三陸さんさん商店街」。南三陸の『三』と太陽の『SUN』をかけ、燦々と輝く明るいイメージにとの願いが込められた。
撮影:丸井汐里
その後、町は震災復興計画を策定。津波で浸水した沿岸の低地は工事でかさ上げされた。南三陸さんさん商店街も、その一角に常設の商店街として移転することになった。
ただ、移転先の商店街には入らない決断をする店もあった。住宅地が高台に作られたことで集客が難しくなると考える人もいたからだ。それでも佐藤さんは、迷わず新たな商店街に写真館を再建することを決めた。
「区画整理で一軒あたりの敷地は最大100坪までと決められました。以前のように店舗兼自宅を作ろうと思うと狭くて、物理的に難しかった。それならば、自宅と店は分けて、店は集客が見込める商店街でやろうと思いました」
2017年3月3日、新たな出店者も加わり、現在の地に新生「南三陸さんさん商店街」がオープンした。佐良スタジオも、震災前とほぼ同じ場所に店を構えた。
「南三陸さんさん商店街」に建つ現在の佐良スタジオ。震災前とほぼ同じ場所に店を構えた。
撮影:丸井汐里
店内には撮影スタジオに加えて展示スペースも設けた。佐藤さんが震災当時から現在までに撮影した南三陸町の写真160枚を常設で展示している。
オープン当初は、約2キロ先にある高速道路のインターチェンジから渋滞が続くほどの大盛況。観光バスが立ち寄るようになるなど、多くの客で賑わった。商店街は、仮設の頃と同様、地元の人たちや震災当時にボランティアで南三陸を訪れていた人たちの集いの場となった。
店内では「南三陸の記憶」と題し、佐藤さんが震災当時から現在までに撮影した南三陸町の写真160枚を常設で展示している。
撮影:丸井汐里
ただ、全てが同じではなかった。お客の中には、高齢ゆえに高台の住宅地から商店街を訪れることが難しくなった人も増えたからだ。復興計画が進む中、町の人口は減った。震災前に1万7000人だったが、2020年12月には1万2000人あまりとなった。
撮影:丸井汐里
商店街の裏手を流れる八幡川。対岸には鉄骨だけになった震災遺構の旧防災庁舎が見える。
この一帯は整備され、2020年10月に震災復興祈念公園として生まれ変わった。目の前まで訪れることができる。
保存をめぐっては、町内でも賛否が分かれている。震災から20年となる2031年までは宮城県が管理することになった。しばらくはこのまま保存されるが、その先どうなるのかは未定だ。
「庁舎を見ると、ここで亡くなった同級生を思い出します。当時はつらい気持ちが大きかったのですが、今は『何とか頑張ってきたよ』と言葉をかけられるようになりました」
「みんな必死に生活してきて、ようやく少しずつ当時のことを考えたり話したりできるようになってきた気がします。これが、10年の時の流れなのかな」
再建を遂げた佐良スタジオにも、全国から観光客が訪れる。佐藤さんは自主的に語り部として活動し、写真とともに当時の体験を伝え続けている。写真を見た人たちが、ここで見聞きしたことを伝えてくれることが、間接的に震災記憶の伝承に繋がるのではないかと話す。
「人々が流される瞬間を撮ってしまったという罪悪感は今もあります。だから私には、あの日のことを説明する義務がある。店を訪れた人には、もしも自分のふるさとがこうなってしまったらと思いながら見てほしいです」
この秋には商店街の北側に道の駅がオープン。震災伝承施設も設けられる予定だ。
佐藤さんはこれからも、変わりゆく南三陸の姿を、写真の力を信じて伝えてゆく。
丸井 汐里:フリーアナウンサー・ライター。1988年東京都生まれ。法政大学社会学部メディア社会学科卒業。NHK福島放送局・広島放送局・ラジオセンター・東日本放送でキャスター・アナウンサーを務め、地域のニュースの他、災害報道・原発事故避難者・原爆などの取材に携わる。現在は報道のほか、音楽番組のパーソナリティも担当。2019年よりライターとしての活動も開始。