震災当初、水素爆発を起こした1号機建屋。使用済み燃料取り出しに向けて、ガレキ撤去と各調査が進められている。(2019年12月25日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
「自分たちの暮らしを支えているのだけど、知られてない『現場』がたくさんある。それを写真の力で伝えられないかと思ったのが、最初のきっかけです」
群馬県在住の写真家・西澤丞、53歳。
研究施設やインフラなどの現場を収めた写真集『Build the Future』や、国土交通省からの依頼で撮影した「首都圏外郭放水路」の写真など、「知られざる現場」の様子を撮影する写真家だ。
西澤は、2014年7月から東京電力福島第一原子力発電所に定期的に足を運び、廃炉へ向かう現場の様子や、そこで働く人々の姿を撮影し続けてきた。
2017年には、一連の写真をまとめた写真集『福島第一 廃炉の記録』をみすず書房から上梓している。
撮影コンセプトは「現場を応援する」ということ。
西澤はなぜ、福島第一原子力発電所の撮影を続けるのか。そして、7年にわたる撮影の中で見てきた、廃炉の「現場」の様子とは。
「見えない」という恐怖
写真家の西澤丞さん。コロナ禍では、福島第一原子力発電所をはじめ、なかなか撮影に足を運べなくなったと話す。
写真:Zoomで取材した様子を撮影
2011年3月11日。東日本大震災が起こったその日、西澤は群馬県にある自宅にいた。
西澤は愛知県出身。東北にはそこまで深い縁はなかった。しかし、当時「電力供給」をテーマに写真集を作ろうと東京電力ホールディングス(以下、東京電力)の広報担当と連絡を取り合っており、震災の半年前には福島第二原子力発電所にも足を運んでいた。
“あの場所で、大変なことが起きている”
悪い情報ばかりが目まぐるしく更新されて行く中、現地の状況に対する不安が膨らんでいった。
「人間は情報がないと悪い方に想像しがちですよね。だから当時は、本当に大丈夫なのか、ずっとやきもきした状態でした」(西澤)
震災が発生してから程なくして、福島第一に関する情報は少しずつ整理されていった。しかし、現場の状況がはっきりと分かる写真や映像は十分ではなかった。
「見えない、というのは恐怖なんです。だから、2013年に『僕が撮ります』と東京電力に企画書を出しました」(西澤)
次世代に託すための「記憶」
2011年3月24日に撮影された福島第一原子力発電所の空撮写真。中央付近にある崩壊した2つの建物は、左から順に4号機建屋と3号機建屋。写真右端には2号機建屋が写り込んでいる。
REUTERS/Air Photo Service
撮影の許可はそう簡単に下りなかった。西澤は東京電力に「写真を残す必要性」を訴え続けた。
廃炉作業は、2011年の段階で30〜40年という長期間に及ぶことが想定されていた。
「長期にわたるプロジェクトである以上、僕たちの世代だけで終わらないことは確実です。次世代に引き継ぐためには、事故が起きた理由や、どんな過程を経て現状があるのかを説明した上で後を託さなければ失礼じゃないですか。そのための記録を残すことが重要だと」(西澤)
原子力発電所の事故や廃炉作業に関して、東京電力はさまざまな状況報告を行っている。次世代への引き継ぎという意味では、「資料」は存在する。
現場で廃炉作業に関わる人が確認できれば良いだけなら、報告書だけでも良いのかも知れない。しかし福島第一原子力発電所の廃炉作業は、日本社会がこの先30〜40年抱え続けなければならない「社会的な課題」だ。
今の世代が積み残した社会的課題を後世に引き継ぐには、社会に「記憶」を残さなければならない。
「専門用語やグラフ、数値データなんて見せられても分かりにくい。だからこそ、誰が見ても理解しやすい写真という形で『これです』と示さなければ、(将来の世代へ引き継ぐには)駄目なのだということを何度も説明しました」(西澤)
こうして西澤は1年にわたる交渉を経て、2014年7月、福島第一原子力発電所に足を踏み入れることになった。
過酷な作業現場「怖くはなかった」
【増設多核種除去設備(ALPS)】新しい設備を稼働させる前には、入念な試験が行われる。この日は、交代要因も含め多くの作業員が立ち会って試験が行われた。(2014年9月30日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
西澤が初めて足を踏み入れたとき、敷地内はある程度片付けられた後だった。それでも、炉心溶融(メルトダウン)を起こした原子炉がある原子炉建屋から離れた海沿いにはがれきが積まれているなど、災害の爪痕はまだ残っていた。
ただ、放射線に対する恐怖心はそこまで感じなかったと西澤は話す。
むしろ心配だったのは、撮影の方だった。
当時、構内は空間放射線量(以下、線量)がそれなりに高かったこともあり、移動時も含めて、すべての人がフルフェイスマスクの防護服を着なければならなかった。
【免震重要棟】作業が終わった後は、外部に放射性物質を持ち出さないよう、全身の汚染検査をしていた。当時は、1人の作業員を2人がかりで検査していた。今は自動で行われるようになっている。(2014年11月7日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
これでは、撮影しようにもカメラのファインダーと目の間に距離ができてしまい、ファインダーの一部しか覗けない。マスクもすぐ曇ってしまい、これまでのどの写真撮影の現場ともちがう撮影の難しさがあった。
線量が減らない限りは、たとえ夏でもマスクを外すことはできない。
「作業員の方々は、(夏は)白い防護服の下に保冷剤を入れて作業していました。自分も同じ装備で撮影をしていました。(日中は暑いので)朝と夜に分けて作業をしていたので、夏に撮影をするときには、それに合わせて午前3時に起きることもありました」
「なに撮ってるんだ」作業員の怒りの裏側にあったもの
【フェーシング】雨が地中に染み込み、新たな地下水(汚染水)となって海へ流れ込むことがないよう、地表面をモルタルで覆っている。作業区域の線量低下にも役立っている。(2014年11月10日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
「どの現場でもそうなんですが、僕はいつも、『現場の人と同じところに行かせてほしい』とお伝えしています。立つ場所も含めて、現場の人と同じ目線で撮影しなければ、同じ気持ちになることはできない」(西澤)
西澤は自身の撮影スタイルについてこう話す。
作業員がいる場所に入るには、1日の被ばく量の上限を作業員と同レベルにしなければならない。西澤はそのための教育や試験も受けている。
写真を見ると、作業員が実際に作業をしている現場や、メルトダウンした炉心燃料がある建屋の屋上など、線量の高い現場で撮影した写真が目立つ。
こういった線量の高い場所での撮影が実現できたのも、現場の担当者の協力があってのことだと西澤は話す。撮影は、線量と滞在時間を見極めながら進んだ。
【1号機壁パネル取り外し】建屋内に散乱したガレキの撤去や残された燃料の取り出しに向け、およそ2年にわたり実施してきた建屋カバーパネルの取り外しが2016年11月10日に無事完了した。この写真はタービン建屋の屋上から撮影したもの。(2016年11月15日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
撮影において東京電力から課せられた基本的なルールは、「人の顔を写さない」ということだけ。
これは、震災後に福島出身というだけでいじめや差別などに発展する事例が全国で起きていたためだ。実際、廃炉の現場で働いていることを家族にも話していない作業員もいたという。
撮影を進める中で、作業員から拒否感をあらわにされることもあった。
「『なに撮っているんだ』と怒られたこともあります。
当時は、東京電力(や廃炉作業)に対する批判的なニュースが多かったので、同じような(批判のために取材をする)やつが来たのだと思われていたんでしょうね。ただ、足を運ぶ中で、少しずつ、現場の方の対応も変わっていきました」
現場で作業員と直接対話をすることはあまりなかったというが、少しずつ西澤と現場の距離は縮まっていった。
「笑っている人がいなかった現場」
【入退域管理棟】ずらりと並んだポケット線量計。管理対象区域での被ばく線量を管理するため、作業員一人ひとりがこれを着用して作業している。(2014年11月7日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
西澤から見て、現場の雰囲気が最も変わったのは、2015年から2016年にかけてだという。
実は震災後しばらくの間、飲食ができる整備された「休憩所」のようなものはなかった。
「最初(2014年)に廃炉の現場に行った時は、笑っている人が1人もいなかったように思います。緊張感が半端ではありませんでした」
しかし、2015年5月に大型の休憩所が完成し、温かい食事が提供されるようになると、2016年3月には、構内にコンビニのローソンも出店するようになった。
また、同じような時期に、構内の地表をコンクリートで覆う「フェーシング」という作業も進んでいった。構内の線量がぐっと低くなったことで、フルフェイスマスクを着用しなければならない区域も減っていった。
最初に足を踏み入れたときに比べて明らかに作業員の表情が明るくなった、と西澤は話す。
【一般作業服での移動風景】入退域管理施設から企業棟周辺の各休憩所まで。一般作業服で移動できるようになった。以降、移動できるエリアが拡大していった。(2016年1月7日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
廃炉作業の最初のステップは、廃炉そのものというよりも「廃炉作業ができる環境にするための作業」という側面が強かった。必然的に、線量が高い中での作業も多く、作業員の心身の負担が相当なものであったことは想像に難くない。
「一息つける場所が確保され、神経をすり減らしていた線量も低下しました。やっぱり作業環境に対する安心感が違うんだろうなと思います」(西澤)
逃れられない、未来への責任
【タンクエリア】建設中のタンクを内側から見たところ。現地溶接型タンク底部の検査を行っている。(2018年1月18日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
西澤が最後に福島第一原発に撮影に行ったのは、2020年11月。最近では、以前なら線量が高く長時間滞在できなかった場所でも、撮影に時間をかけられるようになってきた。
構内の作業員の人数も、西澤が足を運び始めた2014年ごろと比べて少なくなってきている。これは「廃炉作業をできる環境にするための工事」が一通り終わったためだろう。
今後は、燃料デブリ(溶け落ちたあと、冷えて固まった燃料)の回収といった廃炉に向けた最難関のミッションが本格化していくことになる。
ただし、国と東京電力は2020年12月に、海外で開発している部品の納品が遅れているとして、2021年に開始を予定していた2号機の燃料デブリの回収作業を2022年以降に延期すると発表している。
今後もこういった作業の遅れが発生することは十分に考えられるが、東京電力は最終的な廃炉措置の完了時期を、これまでどおり「2011年から30〜40年後」としている。
状況が少しずつ変わっていく中で、最終的にいつ廃炉作業を終えることができるのかはまだ分からない。
【3号機】原子炉建屋北西側からの様子。2019年4月15日から使用済み燃料の取り出しを開始し、2021年2月28日にすべての使用済み燃料の取り出しを完了した。(2020年11月12日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
多かれ少なかれ、廃炉作業の最終局面の現場は、将来の世代に託さざるを得ないのが正直なところだ。
震災から10年。
私たちが日々の生活を送るかたわらで、現場には確かに廃炉という現実に向き合っている人たちがいた。そして未来には、確実にこの事故に対する責任のない「誰か」が後始末のために現場に向かうことになる。
【タンクエリア】大型休憩所からの眺め。奥に1、2、3号機が見える。(2019年12月25日)
撮影:西澤丞、写真提供:東京電力ホールディングス
彼らに対して、いったい何ができるのか。
「未来を考えるためには、まず、現状がどうなっているのかを知って欲しいんです。
この事故に限らず、僕たちは何をするべきなのか、自分にできることは何なのかを考えなければならないのだと思います。その中にはエネルギーの問題もあれば、食料の問題があるかもしれないし、教育なんかの問題もあるかもしれません。
そのために、僕たちの暮らしがどういう人の支えによって成り立っているのかを伝えるのが、僕の仕事です」(西澤)
西澤の写真の一部は、東京電力の特設ページ「伝える。遺す。廃炉の記録。」で見ることができる。
(文・三ツ村崇志)
西澤丞(にしざわ・じょう):写真家。著書に写真集の『Build the Future』『福島第一 廃炉の記録』などがある。「写真を通じて日本の現場を応援する。」ことを撮影のコンセプトとし、広報の視点で雇用のミスマッチなどの問題解決に取り組んでいる。コロナ禍においては、現場の人の熱い思いやかっこよく働く姿を紹介するためのサイト、Workers in Japanを新たに立ち上げた。