「1万時間の法則」という言葉を知っているだろうか。
1万時間の努力を積めば、人はスペシャリストとして成功する——。2008年にベストセラーとなった『天才!成功する人々の法則』でマルコム・グラッドウェルが提唱し、広く知られることになった。
国内最大規模のVTuber事務所「ホロライブプロダクション」を運営するカバー社長・谷郷元昭も、新卒で勤めた会社で「コンテンツ領域には1万時間ぐらい投下しました」と語る。
「ほんと、新卒では死ぬほど働きました(笑)」
新卒時代に得た「他者と圧倒的に違う」経験
ゲーム開発のベンチャー企業イマジニアで働いたのは1997年からの約6年間だった。
はじめは提携先であるサンリオとのゲーム開発のプロデュースを担当。テレビ局や出版社とのメディアミックス事業も取り仕切った。
当時ゲーム業界では「第5世代」と呼ばれる高性能のゲームハード、例えば「プレイステーション」「セガサターン」「ニンテンドー64」などが競うように登場。ゲーム制作を生業とするイマジニアも全盛期に入っていた。
日々新しいハードが生まれ、そこに新しいゲームコンテンツを日々投入する。そんな時代だった。
谷郷がイマジニアに入社する前年の1996年には「ニンテンドー64」が発売。翌年、イマジニアはのちに累計330万本販売の大ヒットシリーズとなる『メダロット』を発売していた。
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国内の名だたるコンテンツホルダーやクリエイターと働く日々の中で、谷郷が得た成功体験がある。
「他の人と圧倒的に違うところ」と語る体験とは何か。
「1つはサンリオ出身のデザイナー、井上ヒサトさんとの出会いです」
井上は「バッドばつ丸」「ハンギョドン」などサンリオの人気キャラクターをデザインした人物だ。
「第一線のクリエイターやコンテンツ企業と日々仕事をする中で、キャラクタービジネスの根幹に関わるような勉強を積めました。『ミッキーマウスはなぜ人気が出ているのか』とか『キティちゃんはどういうビジネス戦略なのか』とか、そんな問いについて学べたことは大きな経験でした」
コンテンツの魅力を人々に伝え、受け容れてもらい、ビジネスとして成就させるためにはどうすればいいのか。その基礎は今のVTuber事業にも活かされているという。
一方で、当時の谷郷は自らの力の限界を感じつつあった。同様にイマジニアのゲーム事業の成長にも限界が見えつつあった。
クローズドなインターネットはいつまで
1999年にはNTTドコモが「iモード」を開始。携帯電話でウェブページ閲覧ができる世界初の通信サービスだった。
Junko Kimura / 特派員
当時、イマジニアは「iモード」向けサイトの運営に参入。ブラウザ上でのゲーム開発のほか、テレビ局や出版社と提携して各社の「iモード」向けサイトの運営にも携わっていた。
「ゲームの場合、ある程度は自分たちで企画を作った上、ゲームクリエイターさんに関わってもらいながらプロジェクトを作ってリリースします。僕らが主体となってプロデュースできたんです」
ただ、iモード上で月額課金制のサービスを運営するとなると、イマジニアが主体になって開発するスタイルは、そもそも仕組みとして難しかった。
「iモードを運営するドコモに許諾を取った上で、テレビ局や出版社などのコンテンツホルダーと協業、交渉し、サイトを運営していくというスタイルでした。何をつくるかより、どんなコンテンツを、どう運営していくか調整するビジネスが主体になってしまったんです」
キャリアが支配していた当時の携帯電話向けインターネットサービスでは、有料の月額会員ビジネスは「圧倒的に稼ぎやすかった」という。
何らかのコンテンツを月額300円で提供し、数十万人の会員が入れば、確かにビジネスとしては成り立つ。
ただ、この時、谷郷は思った。
「こんなクローズドなインターネット、いつまで続くんだろうか」
この頃、無料で利用できるYahoo!などのプラットフォームはすでに誕生していた。携帯電話だけの特殊で閉鎖的な環境の有料サービスが永遠に続くとは、谷郷にはとても思えなかったのだ。
大学時代に「自分で何かをつくりたい」という志を持っていた谷郷は、主体性を持てない世界に限界を感じつつあった。
次第に、当時利用者が拡大していたインターネットの世界で働きたいと思うようになっていく。
初の起業、「後悔」残る結果に
谷郷が立ち上げた「30min.」は2014年に事業譲渡が行われ、2021年3月現在も更新が続いている。
「30min.」公式サイト
2008年、谷郷は1度目の独立を経験。写真とともにグルメ情報などの「まとめ」が作成できるスマホアプリ「30min.」を主軸としたサンゼロミニッツを起業。O2O(Online to Offline)事業をはじめた。
この時、谷郷はイマジニア時代のコンテンツビジネスの手法を封印。独立前に在籍したアイスタイルで培ったキャリアだけで戦った。
だが、後にこれが谷郷の「後悔」を生むことになった。
化粧品の口コミサイト「@cosme」で知られるアイスタイルで、谷郷はEC事業の立ち上げに従事。UGC(User Generated Contents)をもとにしたビジネス手法を学んでいた。
ここで谷郷は、インターネットビジネスの本質を学んだと語る。
「@cosmeは、コスメや化粧品に一家言ある人にコメントを寄せてもらい、それが集約され、一つのメディアになりました。外食の口コミサイト『食べログ』も同じですね。メルカリも、モノを売りたい人にアプリを提供して、“売りたい”という気持ちを持つ個人をエンパワーメントするサービスです。本質は一緒です」
サンゼロミニッツ創業当時、日本ではiPhoneの発売がスタート。1カ月後、谷郷たちはiPhone向けのアプリをリリースし、利用者は一気に伸びた。
自ら立ち上げたサービス「30min.」は売上的にも成長し、一定の利益も生むようになっていた。
だが、谷郷個人としては、もやもやを抱えていた。リリース当初の伸びは維持できず、成長率は鈍化。当時の共同創業者だったCTOとの関係の冷え込みもあり、サービスの方向性も思うように定まらなかった。
「他の起業家と同じようなことをやりたい……と思ってしまったのが、失敗でした。自分の強みであるコンテンツ領域で戦わなかったので、あとになって非常に苦労する結果になったんです」
当時目指していたのは、共働き世代向けのグルメやスポット情報をユーザーが自由にまとめることができる地域情報サービスだった。
「そういうサービスをやっている会社が今はあると思うのです。でも、『自分ができる』ではなくて『そういうのがあるといいよね』と考えてしまったんです」
ビジネスとして成り立つかどうか、自分が得意かどうか、それが世の中の役に立つか。そういった視点を全てすっ飛ばして事業を始めてしまった。それが谷郷の「後悔」だった。
「良いこと」よりも「得意なこと」で戦うべき
「世の中の役に立つ」とは何か。谷郷はこう語る。
「結局いくら良いことをやろうとしていても、成果を出せなかったら何も残らない。すごく良いことをやるのではなく、自分が得意なことを頑張るほうが世の中に還元できる」
そして「勝つ」には、自分の得意領域を持ち、その中でも「できること」で戦わないと勝てないのだ、と。
「本当は素直に、ソシャゲ(ソーシャルゲーム)の会社をスマホでやればよかったんだと思うのですけどね(笑)」
「30min.」事業は6年の月日を費やした後、2014年にイードに事業譲渡。ベンチャー企業の“出口”としては「悪くない結果」だったが、谷郷にとっては課題が残った。
そんな谷郷が打った次なる一手、それは当時「一番興味があった」というVR分野だ。
ホロライブプロダクションを擁するカバーが誕生する、1年7カ月前のことだった。
※この記事は2021年3月23日初出です。
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(取材・文:吉川慧、写真:伊藤圭)
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