新華園本店の西条優度(まさのぶ)さん。
撮影・横山耕太郎
透き通ったスープに、細いちぢれ麺。「釜石ラーメン」は、鉄の町として知られる岩手県釜石市で長く愛されてきた。
東日本大震災の発生から10年。釜石ラーメンの発祥の店として知られる「新華園本店」も津波で大きな被害を受けた。
2代目の西条優度さん(71)は「いつまでラーメンを作り続けられるか分からないけれど、釜石の人にとって、震災前も震災の後も変わらない味を作り続けたい」と話してくれた。
製鉄所で働く人のラーメン
釜石ラーメンと半チャーハンのセット。
撮影・横山耕太郎
釜石ラーメンは、1950年代に釜石製鉄所で働く労働者のために生まれた。仕事帰りに立ち寄ってすぐに食べられるように、創業者である西条さんの父親が作ったラーメンだという。
茹で時間を短縮するため、麺は極細。鳥ガラと豚骨、野菜、昆布やカツオ節などからとったスープを使う。
実際に食べてみると、野菜の甘みや、鳥のコクを感じるあっさりとした口当たり。細いちぢれ麺はコシがありながらも柔らかい。
津波で2階まで浸水
店の入り口には震災当時の写真がある。西条さんは「少しでも風化させないように」と話す。
撮影・横山耕太郎
1951年に開店した新華園本店は、東日本大震災で甚大な津波被害を受けた釜石港から車で数分の位置にある。地震発生の当時は、まさか津波が来るとは思わなかった。
「私は母を迎えに店を離れていたのですが、妻と従業員がこの店にいる時に津波が来ました。うちのビルは宴会会場もあって4階建てなので、すぐに上の階に逃げましたが2階部分まで水がきたと言います」
店の前の通りは自動車で避難しようとした車で渋滞。津波に飲まれて多くの被害が出た。
震災の時、調理場にあった時計。津波の時刻で止まっている。
撮影・横山耕太郎
津波で店が流されることはなかったが、キッチンも全てが水に浸かり、「もうラーメンは作れない」と思っていた。しかし、地震発生から数日後、店の入り口のがれきの下から「新華園」の赤いのれんが出てきた。
「流されてしまったと思っていたのに、そのままの場所にあるなんて信じられなかった。父親から『ラーメンを作り続けろ』と言われた気がしました」
津波から約9カ月経った2011年12月には店を再開。周囲は取り壊しを待つ建物も多く、廃墟のような街だったが、いち早く営業を始めた。
「80代くらいのおばあちゃんが『この味だ』といいながら、涙を流しながらラーメンを食べてくれた。その姿を見て、再開してよかったなと、やっと思えました。
私よりもはるかにつらい経験をした人ばかりで、店を開けていいのかという迷いがあったけれど、それもなくなりました」
追悼式の今日も、ラーメンを作る
現在使ってるのれんは、震災後に発見されたものではない。「見つかったのれんは大切に保管してます」
撮影・横山耕太郎
新華園本店の釜石ラーメンは、大手カップ麺メーカー・明星が2015年に復興支援商品としてカップ麺化。その後、2019年にも再発売された。西条さんは「釜石を離れた人からも懐かしいと言ってもらえた」と話す。
東日本大震災をきっかけに、災害復興住宅に移住したり、県外に移住した釜石の人も少なくない。
「離れて暮らしていても釜石ラーメンを食べて、なつかしさを感じてもらう。そんな場所でありたいと思っています。今でも、津波で亡くなった方の供養で釜石に来た人が、店に立ち寄ってくれるのはうれしいです」
2021年3月11日、震災から10年を迎えるこの日も、西条さんは店でラーメンを作り続ける。
3月11日の午後には、店の向かいに建てられた釜石市民ホールで、釜石市東日本大震災犠牲者追悼式が開かれる。
「きっと、忙しい一日になります」
(文・横山耕太郎)