釜石市鵜住居町から見上げた慰霊のための打ち上げ花火。2021年3月11日午後7時に撮影。
撮影:横山耕太郎
震災発生から10年を迎えた2021年3月11日。午後7時、釜石市鵜住居(うのすまい)町で、私は住民たちとともに、夜空に打ちあがった花火を見つめていた。街灯が少ない釜石の濃い黒色の夜空を、白い光が照らした。
ダウンジャケットを着こんでも、シャッターを押す指先がかじかむ寒さだったが、集まった住民らは静かに花火を見上げていた。
鵜住居町は10年前の東日本大震災で10メートルを超える津波に襲われた。600人の死者・行方不明者を出した土地だ。
花火打ち上げ前の式典では、釜石市の野田武則市長がマイクの前に立ち、こう話した。
「震災から10年が経過し、街の復興は進んだが、心の復興は一人ひとりが決めるものです」
私は震災発生から5年のときにも、釜石で約1週間を過ごしている。今回、あれからさらに5年が経過した釜石を訪ねた。
釜石の夜、にぎわい戻る
釜石駅から10分ほどの大町には居酒屋のライトが灯る。
撮影:横山耕太郎
震災から5年を控えた2015年の冬。新聞社の記者だった私は、釜石に1週間ほど滞在し、仮設住宅に暮らす住民たちの取材を行った。
当時の釜石は駅周辺の飲食店も少なく、取り壊しや工事中の建物も多く、至るところに目に見える形で津波の傷あとが残っていた。
しかし、2021年3月に釜石に来てみると、街の雰囲気は一変していた。
5年前と同じビジネスホテルに宿泊したが、近くには新しい居酒屋がいくつもオープン。夜には居酒屋からカラオケの音も聞こえてきた。
街には新しい災害公営住宅が建っただけでなく、新しい商業施設もできた。釜石はすっかり日常を取り戻したように見えた。
姿を消した仮設住宅
釜石市甲子町。かつて仮設住宅があったが、住宅地に整備されていた。
撮影:横山耕太郎
5年前に取材した釜石市甲子(かっし)町にあった仮設住宅は、すっかり姿を消していた。
岩手県内で一時は4万人以上が暮らしていた仮設住宅も、2021年3月末にはすべての住民が退去予定で、撤去作業が進んでいる。甲子町の仮設住宅が置かれていた場所はきれいに整地され、分譲住宅が建ち始めていた。
近くのスーパーに買い物に来ていた黒田至さん(70)に、この10年の変化を聞いてみた。
「1年くらい前に仮設住宅が撤去され、風景ががらりと変わった。内陸部に移住した人も多く、時の流れを感じる」
黒田さんが住む釜石市野田町には、震災後、津波被害に遭った住民らが移り住んできたが、当時から今日まで続く大きな課題は、移住してきた住民の孤立だ。
「前から住んでいる住民と交流できるように盆踊りなどのイベントをしていますが、なかなかコミュニケーションがとれない。
トラウマを抱えていたり、高齢だったりと、すぐには新しい生活になじめないのはよくわかるけれど、あれからもう10年も経過している。私も含め、自分たちで(積極的に)復興に向かっていかないと」
仮設住宅での生活を余儀なくされ、ようやく仮設を出た後に入った復興公営住宅でも、うまく周囲になじむことができない人が数多くいる。「復興」は建物を新しくするだけでは進まない。
日常に溶け込んだ祈り
釜石港に向かい3月11日午後2時56分に手を合わせる人々。
撮影:横山耕太郎
10メートルを超える津波が襲った釜石港も、見違える姿になっている。海沿いには食堂やカフェが入った、ガラス張りの「魚河岸テラス」が2019年4月に完成し、昼時には若者の姿も目立った。
地震発生から10年ちょうどの時間、魚河岸テラスの様子を取材しようと訪ねた。地震発生時刻の10分前、午後2時35分頃になると、駐車場に車が増え始めた。2時46分、その刻を告げるサイレンの甲高い音が鳴り始めると、海に向かって手を合わせる姿や、目をつむってうつむいたりする姿が見られた。
1分ほどでサイレンが鳴りやむと、集まった数十人はその場に長くとどまることなく、足早に釜石港を去っていった。釜石港はすぐに日常を取り戻した。
震災からの10年間、絶えず続けられてきただろう祈りが、日常に自然に溶け込んでいることを実感した。
50代の男性は海に花束を捧げ手をわせた。
撮影:横山耕太郎
花束を海に投げ入れて、手を合わせる夫婦もいた。私が声をかけた50代の男性は、岩手県の県庁所在地で内陸部にある盛岡市に住んでおり、津波で当時40代だったいとこを亡くしたという。
「少しでも早く復興が進んでほしいと思っています。ただ、私自身は釜石に住んでいるわけではないので、現地の方々の苦労を思うと…」
5年前に釜石で取材したときにも、「私よりももっとつらい体験をした人がたくさんいるから…」と、何度も言われたことを思い出した。
急激に整備が進む鵜住居
高台に建設された新校舎。
撮影:横山耕太郎
東日本大震災の釜石市の死者は888人、行方不明者数は158人(NHK東日本大震災アーカイブス調べ)。その中でも、半数以上を占める死者・行方不明者を出したのが鵜住居町だ。町並みは5年前に比べて激変していた。
2019年のラグビーワールドカップ日本大会に合わせて建設されたラグビー場「釜石鵜住居復興スタジアム」が目引く。津波で流された三陸鉄道・鵜住居駅も2019年3月に開通し、高台の上に釜石東中と鵜住居小の新校舎も建った。2019年には、犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑のある「釜石祈りのパーク」も作られた。
今年の3月11日は、午後3時半ごろにその慰霊碑を訪れた。慰霊碑の前では、喪服姿で白い菊の花を手向ける人々が途切れることがなかった。慰霊に訪れた人の中には、名前が刻まれた芳名板を布で丁寧にふいたり、慰霊碑の前でじっと動かずに立ちすくむ人もいた。
慰霊碑に向かい篠笛を吹いた岩鼻さん。
撮影:横山耕太郎
慰霊に訪れていた岩鼻節雄さん(71)と岩鼻まき子さん(69)は、自宅は被害を免れたものの、津波で多くの親戚を失ったという。
「もう10年もたったので記憶が風化して、平気かとも思ったのですが、名前を見ていたら涙が出てきた。住宅の復興は進んだけれど、まだ空き地も多い。震災前の姿を取り戻すことはもうできないのでしょうか」
鵜住居町を歩いていると、造成された土地でも空き地が目立つ。震災後の造成工事が長期化したことが原因で、震災前に住んでいた土地を離れて別の土地に家を建てたり買ったりした住民が多いのが現実だ。
震災後に生まれた子どもたちが見上げた花火
撮影:横山耕太郎
3月11日の夜には、この祈りのパークから花火を見上げる家族連れの姿が目立った。
小学生低学年くらいに見える子どもたちは、東日本大震災の後に生まれた子どもということになる。その姿を見て、確実に進んだ10年という歳月の長さを感じた。
この10年で街の整備は進み、5年前にはなかった活気を感じることもできた。それでも、空き地が目立つ街並みには、何か痛々しさが残る。
海に向かって手を合わせる人、慰霊碑の前で涙をぬぐう人、移住先の復興公営住宅で抱える悩み ——。
「震災から10年」という言葉が飛び交ったが、10年という区切りは「復興」のほんの通過点にすぎない。釜石を歩いてそう感じた。
(文・写真、横山耕太郎)