「思考のコンパスを手に入れる」ために、山口周さんによるさまざまな知見を持つ人との対話。
前回に引き続き、対談相手は『AIの壁』で人間の知性を問い直した養老孟司さん。AIに代替できないように人間が機能するには、頭の中の概念的な情報のほかに身体的な情報を入れることと言います。そうしたバランスを取って人間らしく生きていくにはどうすればいいか。
後編で詳しく伺います。
山口周氏(以下、山口):これまで情報の精度と物理的な距離は、トレードオフの関係にありました。精度を高めようとすれば距離を縮める。距離が遠くなれば情報の精度が下がる。両立しようとすると金がかかる。けれども、この30年くらいで急速にこのトレードオフがなくなりました。
少なくとも先進国では、都市に住む必然性がなくなりつつあります。移動や輸送によって二酸化炭素が出ますから、環境への負荷も高い。にもかかわらず、場所代の高い、環境的に人間が生きていくのに不自然な場所に集めて働かせる。
先日、友人から聞いた話です。子どもが友達の家に遊びに行って、コンロの火に手を突っ込んだそうです。友人の家はオール電化で、子どもは火を見たことがなかった。青いきれいな炎を初めて見て手を伸ばしたというんですね。我々は非常にいびつなことをやってしまっているのではないか。都会のタワーマンションの高層階に住んで、窓を開けられず、暑いのか寒いのか、風が吹いているのか、湿気があるのかすらよくわかりません。
先生は以前から、人の育て方には広さと深さの二通りあるとおっしゃっています。これは情報と身体性という言葉に置き換えられます。数式や英文法を覚えるのは、広さであり情報です。世界を深めるのは身体性であり、美意識にも通じるもので、結局は五感を鍛えるしかないとおっしゃっていますが、そこは田舎と馴染みがいいのでしょうか。
養老孟司氏(以下、養老):日本の場合は特にそうですね。砂漠に連れて行ってもどうにもならないので。
山口:うちの子どもがヨットをやっているので、よく海に出ます。必ず天気予報を確認しますが、一番正確なのは漁師さんの予報なんです。「なんでわかるんだ」と聞いたら「なんとなくわかる」と。非言語的な情報を見極めて解釈できる。自然という書物を読み取る力を持っています。
養老:虫捕り上手なやつは、ここに虫がいるってわかるの。
山口:なぜわかるかは言語化できないんですか?
養老:それはちょっと面倒臭すぎるでしょ(笑)。
山口:先ほどノイズとおっしゃいましたが、シグナル(信号)と雑音(ノイズ)の比率を電子工学ではSN比で表しますよね。でも意味を持つシグナルとノイズの線引きは人によって変わります。ある人にとってはノイズに過ぎない風の音を、漁師が聞くと有用な情報になる。シグナルとノイズを切り分けるのは、やはり脳ですよね。あるいは入力装置の感度。
本屋に行くと「どうやったら頭が良くなるか」「上手に伝えるか」という本がたくさんあります。「入力・情報処理・出力」というプロセスの中で、情報処理や出力についてはたくさんのハウツー本がありますが、入力についての本はほとんどない。あっても速読術の本ですが、本は二次情報です。工場でいうなら資材を納入することなく、いかに生産工程を上げられるかというのと同じです。本来は、身体や五感を使って世界と向き合って、何かを読み取ることが情報処理ですが、その部分がごっそり抜け落ちています。
最近、アメリカではビジネスパーソンを美術系の大学院に派遣したり、医師に絵を見せたりするトレーニングが行われているそうです。たくさんの絵画に触れて読み解くというトレーニングを一定量することで誤診率が減るというレポートが出ています。
子どもをどういう環境に置くか
大の昆虫好きとして知られる養老さん。鎌倉にある自身の別荘は「養老昆虫屋館」と名付けられている。
masajla/Shutterstock
養老:いま一番関心があるのは教育です。特に子どもをどういう状況に置くか。何を教えるっていうんじゃないんです。子どもは置かれた状況で自分で入力を探しますから。入力に応じた出力をして、その循環が脳の中にプログラムをつくっていきます。
蝶は一定の道を飛びます。蝶の個体数が多い熱帯では、蝶道が目に見えます。たくさんの個体が続けて飛ぶので、空間にサインカーブのような蝶の道が出現する。なぜ一定のルートを飛ぶのか。それは入力、つまり周辺からの光に反応しているからです。葉っぱや水たまりにの反射する光を受信して飛ぶ。葉っぱ一枚落としても飛び方が変わります。
虫にとっての環境は、それほど細かい。たぶん子どももそうだと思います。大人がこういうものを与える、与えないという話ではなく、大人が気がつかない細部に反応しているのではないでしょうか。
山口:教育について私が懸念しているのは、予見性を求める人が多いことです。これをやることによって、どれくらい役に立つのか。お金を出すのは親ですから、役に立つはずだと英語やプログラミングを習わせます。先生が『AIの壁』で対談された新井紀子さん(国立情報学研究所教授)は「子どもにプログラミングを習わせるなんてAIの奴隷を育てているようなもんだから、おやめなさい」と10年以上前から言われていますね。
五感から入ってくる感覚の大切さを親自身が知らなければ、役に立つと思うものだけ子どもにやらせる。教育は本来、事後的なものだと思います。何の役に立つかよくわからないけれども、子どものセンス・オブ・ワンダーが刺激されることをやって、50年経って、あれがよかったのかもしれないなという。
先生は、役に立つ・立たないという議論の不毛さを指摘され、虫を探したり分類するのは現代社会では役に立たないことの筆頭だとご自身で言われています。役に立たないことこそが本質的に役に立つことがあるという構造は、共有が難しいテーゼですね。
養老:まあ、不要不急という言葉が公に通用しているくらいですから。そんなこといったら年寄りはみんな不要不急ですよ。
山口:私もちょうど今年で50になります。GAFA(グーグル・アマゾン・フェイスブック・アップル)創業者たちが創業した年齢を調べると、平均年齢が24歳でした。GAFAって「役に立つ」ことの帝王ですよね。とにかく役に立つ、便利にするということを推し進めて、それが世界中を席巻して、創業時の平均年齢は平均24歳。
50年前、老人は尊敬される存在でした。数十年に一度の災害が起こるとして、前回の災害を知っている長老がコミュニティに1人か2人いる。「40年前にも同じことがあった。ここに逃げたらみんな死んだ。あっちに逃げろ」という知恵によってコミュニティの存続が左右される。ところが、知恵や経験則はインターネットの仮想空間に蓄積されるようになりました。そして「役に立つ」会社ばかりが時価総額ランキングの上位に並んでいて、その創業者は若い人ばかり。なかなかさびしい時代です。
養老:この間、タクシーに乗ったら、運転手さんが「私なんか団塊の世代の後始末して生きてきたようなもんですよ」と言っていました。明治維新もそうでしたが、時代が大きく動くと、後始末が非常に大変です。誰かが後始末をして、まともに戻していかなければいけない。だから後始末の世代というのがあるんじゃないですか。
いま先端のところを見ていると、マイナスは見えません。でも必ずあるんですよ。物事は必ず裏表ありますから。年寄りが唯一知っているのはそういうこと。
山口:スペインの哲学者オルテガは「慢心した坊ちゃん」と言っていますね。科学の力で自然をコントロールできるんだという人々を指した言葉です。その状態を脱するためには「死者との対話」が必要であると。
これは古典を読んだり、過去の哲学を学べということですが、先日、義理の実家に行った時、オルテガの言う「死者との対話」はこれだなとストンと腹落ちしました。仏間にご先祖の遺影が並んでいて、生きている我々に眼差しが注がれている。これは一種の知恵ですね。自分がやろうとしていることに「じいちゃんだったら何ていうかな」「ばあちゃんだったら」と想像する。その対話のための装置なんだなと。
高報酬・抽象的な仕事ほどAIに取って代わられる
山口:人類学者のデヴィッド・グレーバーが書いた『Bullshit Jobs(クソどうでもいい仕事の理論)』という本では、職業別にブルシット度合いを調査して算出しています。そのリストを見ると、AIに代替されやすい仕事ほどブルシットの度合いが高いそうです。究極は金融工学のトレーダーでしょう。投資銀行のオフィスにかつて何百人もいたトレーダーはAIに取って代わられてしまった。扱うのは抽象化された数字で、新井先生の言葉で言えば「フレームが切れている」、つまり参照すべき外部の文脈もないので、極めてAIに馴染みが良い。そしてブルシットの度合いが高いと。
しかもトレーダーのような職業は報酬が高い。つまりAIに切り替えればコストカットにつながる。抽象的な情報を扱う職業で、報酬の高いものほどAIに切り替えやすい。これはある意味でいいことなんじゃないか。そういう仕事はAIにやってもらって、先生のおっしゃる「参勤交代」をやって、人間は田舎に住んで畑を耕すことができます。
最近、近代化の反逆が起こっていると感じます。家を建てる人の間では薪ストーブが流行っているそうです。わざわざお金をかけて、19世紀以前の暖の取り方を入れたがる。さらに最近、40年ぶりにレコードがCDの売上を抜いたそうです。共通点は情報量の多さでしょう。薪が爆ぜる音、木材ごとの炎の色やゆらめき。CDはある周波数以上の音をカットしてしまいますが、レコードは違います。ノイズを削ぎ落として便利さを追求した結果、身体的な飢えともいうべきものが出現して、近代化の反逆に向かう。
養老:僕はゴルフが流行った頃にそう思いましたね。なんでわざわざ野原に出て行って、大の男が棒振り回して球打つのかって(笑)。ゴルフの流行と同時に、日本中から草原がどんどんなくなりました。いま一番絶滅が危惧されているのは草原の虫です。草原は平らで人が利用するのに都合がよいですから、すぐ何かに使っちゃう。
山口:日本だと、まず畑にしますよね。
養老:畑というのは、虫にとってはおよそ具合の悪いところです。農薬漬けですから。いま草原性の珍しい虫は田舎の海岸の近くで採れるんです。海の近くは畑になりにくいので、農薬も撒かれず、比較的自然が残っています。
2021年2月、対談はオンラインで行われた。
山口:先日行った兵庫県豊岡市では、コウノトリの人工繁殖と野生復帰に取り組んでいます。コウノトリは田畑の水棲生物を主食にしているので、農家は冬の間、田んぼから水を抜けない。地域の農家全体が協力してコウノトリを甦らせるという価値観の転換、奇跡のようなことを実現しています。
養老:地域全体でやらないとだめですね。朱鷺も同じでしょうね。
山口:教育のお話がありましたが、フィンランドの教育が注目されています。年齢やカリキュラムを固定せず、教室の中で数学をやっている子もいれば国語をやっている子もいる。先生は教えるのではなくアドバイスする。あれが先端だと言われていますが、考えてみれば江戸時代の寺子屋は同じことをしていました。
ITによって弁証法的に新しいものが出てくるように見えますが、それは古くからあったものが螺旋状に進化している側面もあります。
養老:学校に子どもを集めたら、遊ばせておけばいいんです。フリースクールをやっている人がいて、小学校の間は、何も勉強させないで子どもを遊ばせておくそうです。中学に入り、1学期か2学期に勉強すると、あっという間に成績トップに入っちゃう。いまの教育は、小さい時からモチベーションを殺しているようなものです。
大学で一般教育を教えていた時のことです。机の上にコップがあって、そこにインクを一滴落とす。しばらくしたらインクが消える。なぜかと聞いたんです。理科系の学生が履修するクラスで、前列に座っている真面目な学生からどういう返事が返ってきたか。「そういうものだと思っていました」と。これまで小中高で彼らが学んできたことは、いかに考えることなく上手にバイパスするかということなんだなと。「そういうものだと思っていました」。それは一番考えないでいい答えですよね。
山口:問いと答えの関係が成立しないものについては、もう考えない?
養老:一番省エネでしょ。どんなことがあっても、理由を聞かれた時に「そういうもんだと思っていました」と答えればいいんですから。世の中を渡っていくにはこれだけでいいと学校でよく学んだんじゃないですか(笑)。
山口:いま普通の生き方というものが溶けてきていますよね。毎日職場に行くことも100年間ずっと続いたあたりまえでしたが、家にいながら仕事ができるようになって、もはや都市に会社を置く必然性もなければ、その近くに住む必要もない。「どこに住んでもいいですよ」と言われた時、放り出された感じがすると思うんです。
養老:非常に生きにくい状況。
山口:いきなり放り出されて「どういう風に生きたいのか考えなさい」って。考える力のあるなしで人生のクオリティが変わってしまうわけですよね。
養老:私は57歳で大学辞めて、1年浪人していました。毎日が日曜日状態で、さてどうしようって。結局そういう問題ですよ。
人間社会を「塀の上」から眺める
Heide Pinkall/Shutterstock
山口:最後に、私個人の悩みもあってお伺いしたいことがあります。先生は1980年代から、さまざまな著作を出版され、現代の社会に警鐘を鳴らしてこられました。大勢の方に支持される一方、世の中は、先生の提言と違う方向に突き進んでしまっているようにも見えます。
過去の哲学者には、精神を病んだり、自ら命を断った人も多くいます。夏目漱石は『行人』の最後で、「自害するか発狂するか宗教に入るか、僕の前途にはこの3つしかない」と登場人物に言わせています。これは漱石自身の心境だったのではないかと思います。その後の『こころ』では、先生は自害してしまい、『門』では主人公が鎌倉・円覚寺に参禅する、つまり宗教に入ります。
先生の目にはいろいろなことが見えていて、こっちの方向に行ったら良くないという確信がある。でも説得は難しいし証明もできない。私自身、著作や講演を通じて世の中に訴えているつもりですが、なかなか本丸に届かない。政府の中枢や大企業の中で「この国は俺たちが動かしているんだ」と思っている人たちは、ある種のモメンタムに絡め取られていて、濁流の中を必死に泳いでいて、顔を上げて見渡す余裕すらない。こうした状況の中で、なぜ先生は諦めず発信を続けてこられたのでしょうか。
養老:漱石の例を出されましたけれど、あれは、ある意味で世間に埋没しちゃったわけです。私は虫の世界がありますから。全然違うものが半分以上。人間の社会というのは全部じゃありません。たかだか半分。
山口:先生にとっては、虫の世界、虫との時間が非常に大事だと。
養老:正気を保つのに最も重要ですね。最近、猫が死んだんでね。猫も大事だったんですけど。役に立つわけでもないのに、あれでも生きている。いま猫を飼っている人が多いでしょう。みなさん、どっかで人間の世の中がいやなんじゃないですか。
山口:そういえば漱石もずいぶん猫を可愛がっていました。寺田寅彦が猫についてしみじみと書いていますよね。私は猫に感じるような、猫との間で交わしているような愛情というものを、人間との間でもできたらどんなにかいいだろうと。猫なのか虫なのか、どこかによすがを持っていないと、憑き物に憑かれて自分に戻れなくなってしまうのでしょうか。
養老:私は、それを「塀の上」と言っています。人間がつくった社会は、人間に合うようにできていますから。塀の上から内側に落ちたら、巻き込まれてしまう。外側に落ちたら、人間社会と無関係の異邦人になってしまう。世の中全体を見ようと思ったら、塀の上に立つしかないんです。
山口:だからこそ生まれる心の余裕もあるということですね。ありがとうございました。
(構成・渡辺裕子、山口氏写真・伊藤圭、養老氏写真・吉田和本、編集・浜田敬子、小倉宏弥、デザイン・星野美緒)
山口周:1970年生まれ。独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。World Economic Forum Global Future Council メンバー。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了後、電通、ボストン・コンサルティング・グループなどで経営戦略策定、組織開発に従事した。著書に『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』『ビジネスの未来』など。
養老孟司:1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。1989年、『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。大の虫好きとして知られ、昆虫採集・標本作成を続けている。著書に『AIの壁』『唯脳論』『バカの壁』『遺言。』『日本のリアル』『文系の壁』『半分生きて、半分死んでいる』など。