台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンと、筆者の近藤弥生子さん(右)。延べ20時間近くのインタビューを実施している。
筆者提供
台湾の新型コロナの封じ込め成功をきっかけに、あらゆるメディアが取り上げ、時の人となった台湾のデジタル担当大臣オードリー・タン。
日本での人気ぶりは、筆者が暮らす台湾でも「なぜこんなにも、日本人はオードリー・タンが好きなのか?」とニュースになるほどだ。
筆者は2011年2月から台湾に移住し、コロナ前の2019年10月にYahoo!ニュース特集のインタビューで初めて彼女を取材して以来、日本のテレビや雑誌などの取材で、何度も会う機会に恵まれた。20時間近くの単独対面インタビューを、2月に上梓した『オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと』にまとめている。
日本人はなぜ「IQ180」が好き?
オードリーのことが日本で話題に上るたび、「IQ180の天才大臣」という決まり文句が付いてまわる。日本の取材を受ける際、彼女はうまくかわしているが、さすがに何度もインタビューを繰り返している私がそのことに触れると、ユーモアで返すようになった。
とある日本の編集部の希望で、この決まり文句が記載された原稿を掲載前確認のために、オードリーに提出した時には、「IQ」を「身長」に修正するよう赤字が返されたこともある。
「IQについて尋ねると、いつも身長で返されますね」と私が言うと、オードリーは楽しそうに「四捨五入せずともぴったり180㎝なんですよ」と笑う。
「大人になった今、IQを語ることはあまり意味を成さない」という彼女の考えもあるし、台湾メディアでもそういった表現がされることはあまりなかった。むしろ日本での人気ぶりを見て「日本で大人気の天才大臣」と、逆輸入された形で話題になっている。
もともと台湾では、IQの高さよりもEQ(Emotional Intelligence Quotient、心の知能指数)を大切にするという文化がある。
筆者は台湾で暮らしていると、そのことを節々で感じている。学歴社会が根強く残る一方、人から尊敬されるにはそれ以上にEQの高さ、つまり「心の知能指数」が必要になるのだ。
今の日本を見ていると、これまで「エリート」や「権威」だと思われていた人々の失言や、差別的な思考が露呈しているように見受けられる。もしかしたら、台湾のこういった文化が参考になるかもしれない。
「あの人はEQが高い」
2011年に台湾に移住した筆者にとって特に大きな学びだったのが、「EQを重視する」という文化だった。
Reuters/Ann Wang
筆者が台湾に移住したのは、駐在員である元夫との結婚のためで、その前は東京の出版社に7年間ほど勤めていた。それまで日本社会にどっぷり浸かっていた私が、移住後は妊娠・出産を経験し、就労ビザを得て台湾の現地企業で働くことになった。
実際に働いてみると、旅行客として訪れるのとは全く違う台湾人の顔を、たくさん見ることになる。新しい価値観との出合いの連続だったわけだが、その中でも私が特に大きな学びだったのが、「EQを重視する」という文化だ。
台湾では、一般的に人を褒める時などに「あの人はEQが高い」などというように使われている。メディアや大衆からの心ない言葉にタレントがEQの高い対応で返すと、好感度が一気に上がる。
台湾にルーツを持つタレントの渡辺直美さんが、東京オリンピック・パラリンピックの開閉会式の演出統括担当者による差別的な発言報道を受けて、「私自身はこの体型で幸せ」「それぞれの個性や考え方を尊重し、認め合える、楽しく豊かな世界になれる事を心より願っている」とコメントした。これこそまさに、高いEQを感じさせる一例だと思う。
EQが重視されるのは、何もタレントや著名人だけではない。一般的な職場でも、たとえば人前で部下を叱るような上司は「EQが低い」とみなされて尊敬されない。
メンツを大事にする台湾人にとって、どれだけその人が落ち度のあるミスをしたとしても、人前で叱って部下のメンツを潰すような上司は、「自分の感情をコントロールできない人間」だと思われるのだ。だから、どんなにIQが高くても、EQが高くなければ尊敬されない。
EQが今の日本にも大切なことだと思った私は、これまでも日本のメディアに向けて台湾のEQを重視する文化について書きたいと何度も提案してきたが、「日本ではなじみがない」と採用されることはなかった。
だからこそ私は、日本語で拙書を執筆するにあたって、オードリーを通してこのことを伝えたいと考えた。
人口密度の高い台湾の必須スキル「對事不對人」
台湾人なら子どもでもおなじみの「對事不對人」。ここにEQを重要視する理由が隠されている。
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本のために行ったインタビューでは、これらの背景をオードリーに話した後で、「台湾でEQが重要視されるのはなぜでしょうか」と聞いた。
彼女はそうですねと間髪を容れずに答えた。
「私たちは、挫折(ざせつ)や対立を経験した時、どのように自分の心をケアすれば良いのかを非常に重視しています。台湾は人口密度がとても高いので、これは必須スキルなのです」
EQとは、一つの対人スキルのようなものだと思っていたが、オードリーのこの捉え方は、私に新しい視点をもたらしてくれた。
「叱るという行為は、その人の態度についてではなく、ある物事に対して行われるべきです。その人に対する批評と、間違った行為を正すことは異なる行為だからです。
たとえば、誰かがはみ出し駐車をしている時も、赤信号で横断歩道を渡っている時も、その人を否定するのではなく、その出来事に対する批評であれば人前であっても行っていいと私は思いますよ。
このことを表す『對事不對人(ドゥイシーブドゥイレン。人ではなく、物事に対して行おうという意味)』という台湾の流行語があります。英語だと〈Don’t take it personally〉といったところですね。台湾でこの漢字五文字を知らない人はほとんどいないでしょう。誰もが100回は聞いたことがあると思います」
そう言いながら、この言葉を日本に紹介することが面白くてたまらないといったように、おかしそうに笑う。
「對事不對人」は、台湾で昔から標語のように使い古された言葉で、あえて言葉に出して説明するものでもないからだ。小学生の長男は知っていたが、この言葉を知らなかった私は、これまでなぜ道端で見知らぬ人々から声をかけられていたのかがわかった気がした。
先日もベビーカーを押して歩いていたら、スーツを着た私よりもずっと若い男性から「そこのママ、もっと歩道の内側を歩かないと危ないよ」と声をかけられた。注意された、というよりも友人に話すような口調だった。
そして皆が、声をかけ終わると何事もなかったかのように去っていく。ごく自然にこういった振る舞いができるのは、對事不對人の概念が社会に浸透しているからだったのかもしれない。
学歴やIQではない「ソーシャルイノベーション」能力
オードリー・タン氏のオフィスがある、ソーシャル・イノベーション・ラボ。予約制で毎週水曜日はオフィスを開放している。
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現在の台湾政府において、オードリーは皆を引っ張るリーダーではなく、常にバックアップやコネクターの役割を果たしている。日本政府にこういった閣僚は珍しいかもしれないが、彼女の功績はすでに周知の通りだ。
例えば、日本でオードリーが広く知られるきっかけとなった、コロナ禍でわずか3日間で開発された「マスクマップ」。全台湾に6000カ所以上もあるマスク販売拠点の在庫が、Googleマップ上で30秒ごとに自動更新される。
これにより、いつどこでマスクが入手可能かの最新情報が示されたことが、市民の安心感へと繋がった。マスクを公平に行き渡らせようとする政府の姿勢も可視化され、台湾はパニックを免れた。
ここで発揮されたのは彼女の学歴やIQといった能力ではなく、革新的な解決法により社会問題を解決する「ソーシャルイノベーション」という手法だ。
政府が「マスクマップ」を開発することになった場合、通常であれば入札やコンペなどの企画競争を実施したうえで、ひとつの開発会社に発注されることだろう。だが、オードリーは違った。
そもそも「最新のサージカルマスクの在庫数をGoogleマップ上で表示する」というアイディアはオードリーが思いついたものではない。台南在住のシビックハッカー(社会問題解決に取り組む民間エンジニア)、ハワード・ウーが自発的に作ったものを、シビックハッカーコミュニティ「g0v(ガヴ・ゼロ)」のSlack上でシェアし、オードリーがそれを発見したのが起点となっている。
ただ、オードリーはなんと政府版の「マスクマップ」をもオープンソース化し、1000人ものシビックハッカーらと共同で完成させるという驚くべき行動に出た。
そのおかげで、政府版の「マスクマップ」をもとに、シビックハッカーらは、さらにお年寄りなどGoogleマップを使いこなせない方のために、OK Google(Googleアシスタント)やアップルのSiriなどの音声アシスタントやLINE bot(クローバ)など、実に130以上のアプリケーションに応用することができた。
その利用者は1000万人を超え、これは台湾の人口の約40%に相当する。オードリーは常に「誰も取り残さない社会」を目指しており、今回の「マスクマップ」の大成功は、政府内の公務員たちに「政府の情報をオープンにすることは、そんなに怖いことじゃない」という経験をもたらしたに違いない。
オードリーの周囲が讃えるのも、IQではない
オードリー・タン氏は、現・蔡英文政権下のデジタル担当大臣として、その功績が高く評価されている。
Reuters/Ann Wang
初期マスクマップの開発者ハワード・ウーは、私のインタビューでこう語ってくれた。
「今回のコロナ禍でオードリーが果たしてくれた重要な役割は、政府にデータの使い方をコンサルティングしてくれたことだと思う。彼女に注目が集まり、オーソリティが高まったことで、これからますます彼女が推進しようとしていることが前に進んでいくと信じているよ」
政府内ではどうだろうか。「マスク実名販売制度」の実施元である衛生福利部(日本の厚生労働省に相当)に所属する中央健康保険署長の李伯璋氏に私が別の取材でインタビューした際、李署長はこう語っていた。
「オードリーが民間の素晴らしい力のある方々を引き連れてきてくれ、一緒にコラボレーションすることになった時、私はスタッフたちに言いました。『人生でこんなに人々の命にとって意味があることができる機会は何回もない』と。皆で一緒に問題を解決するという姿勢が大切です」
オードリーを政府に引き入れた当時の女性閣僚ジャクリーン・ツァイも、拙著のインタビューでこう語っている。彼女は法律の専門家で、台湾の各地方裁判所で裁判官を務めた後、IBMで台湾や香港・中国エリアの法務長を歴任し、2013年に入閣した人物だ。
「私が感じているのは、オードリーもその周りの優秀なハッカーたちも、『枠に囚われることがない』ということです。私はIBMで数多くの優秀な人材を見てきましたが、彼らにはある種の行動パターンがあります。
でもオードリーたちには、それがない。『g0v』のガオ・チャーリャンのように、一流大学を中退したり、中卒だったりしますしね。そういった枠に囚われない人々は、ただ“彼らに合った舞台”があるだけで、素晴らしい能力を発揮することができる」
私はオードリーや台湾社会から、こうした価値観を学んできた。日々の仕事や育児など、暮らしの中にこういった「学歴」や「IQ」などよりも「EQ」を大切にするという価値観を取り入れて暮らすだけで、日本の社会ももっと暮らしやすくなるような気がしている。
(文・近藤弥生子)
近藤弥生子:1980年生まれ。編集・ノンフィクションライター。明治学院大学法学部卒。東京の出版社で雑誌やウェブ媒体の編集に携わったのち、2011年2月に台湾へ移住。現地デジタルマーケティング企業で約6年間、日系企業の台湾進出をサポートする。2019年に独立して日本語・繁体字中国語でのコンテンツ制作を行う草月藤編集有限公司を設立。著書『オードリー・タンの思考 IQよりも大切なこと』(ブックマン社)。